教師と生徒

次に寺子屋の就学時期です。これには日本のそもそもの子どもへの考え方が色濃く影響していることを沖田さんは言っています。日本には子どもについて「7歳までは神の内」という言葉があるそうです。このころは今とは違い乳幼児の死亡率というのは非常に高かったと言われています。そのため、子どもがある程度自力で生きていける力を身につけるまでは、生きるも死ぬもすべて人間の力が及ばない「神の内」に委ねられているという考え方が支配的であったと沖田さんは言っています。これは欧米社会における「子どもは未熟な大人」という児童観とは異なるようで、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手を加えないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという子ども観が日本にはあったのです。

 

現在も日本の各地にある祭りの中には子どもを中心としたお祭りが多く残っており、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからです。子どもたちは成長するにしたがって、紙の領域から人間の領域へと近づいてくるのです。それを「小児は3歳で『髪置』、男子は5歳で『袴着』、女子は7歳で『帯解』」という年祝いの行事を通して成長の節目としました。これが現在で言う「七五三」の起源だと言われています。武家社会では男子は5歳で就学年令とする風習もあったが、この年祝いが終わる7~8歳頃が寺子屋の就学年令であったようです。

 

この頃の入門は、今のように金銭のよって教育関係を結ぶといった契約ではなく、あくまでも「子弟の礼」をもって教育関係が成立するという形態でした。その後、5~6年間、厳しい封建の世を生き抜く知識と智恵、人間関係に関する礼儀作法や生活習慣などを身につけていきます。

 

「七尺下がって師の影をふまず」というのは、寺子屋で用いられたテキストの一つである『童子教』の一節が紹介されていました。この一節を読んでどう感じるのでしょうか。沖田さんは「教育が納税・兵役とならんで国民の三大義務として国家の制度によってつくられ、国民に強制されてきたときに、国家の権威を背景に新たな『教師像』が形成された。しかし、これらの権威と、庶民の間で自然発生的に登場し、学ぶ側から作られた権威では大きく異なる」と言われています。

 

師匠つまり、当時の先生と生徒との関係は今のような形としての関係ではなく、あくまで師と弟子といった信頼関係のうえに確立されたものであったということが伺えます。そのため、当時の寺子屋によって師匠はひとりであり、視床の個性が寺子に大きな影響を及ぼしていたのです。例えば「筆小塚」などは、師匠が没したのち、その教えを受けた弟子たちが師匠を偲んでつくったものもありました。

 

このように現在の教育現場とは異なり、寺子屋における先生(師匠)と生徒(弟子)の関係は今の制度としての関係性とはまた違った関係性であったことがうかがえます。確かに「人としての教え」まで教えられる寺子屋においては、「先生」というもののあり方は大きく違っているでしょうね。