寺子屋の実態

寺子屋の学習形態は今のように国が管理するというものではなく、経営者によって多種多様であったそうです。江戸時代の寺子屋教育では、毎日の課業は「7ツ習ヒ」と称して、「五ツ時」(現在の午前七時半ごろ)から「八ツ時」(現在の午後二時半ごろ)までの七時間ほどが当てられました。そして、寺子屋から帰宅する下校時間を「御八ツ」と称して、子どもたちが空腹のまま帰宅して、夕食までの間に間食をとることになり、これが「おやつ」と呼ぶ習わしとなったそうです。しかし、すべての寺子屋が「八ツ時」まで授業をしたわけではないと言います。午後からは女性であれば琴や三絃(三味線)、裁縫などを師匠について学ぶこともありました。男子の場合は午前中の「手習い」つまり読み書きのほかに、午後からそろばんの教授を行うといった寺子屋もあったようです。そのほかにも、農村地帯の寺子屋では、農繁期になると「朝習い」と称して、早朝や夜に手習いの時間を当てたところもあったようです。

 

このように寺子屋のある地域の環境によっても、学習の時間は違っていたり、それは休日もまちまちでありました。基本的に休日は毎月の朔日(1日)と「五の日」(五日・十五日・二十五日)に、または六日に一度の割合で休日を設けていました。このほかにも五節句などの伝統的な祝日も寺子屋の休業日とされていて、これらの休業日を差し引くと、少ないところで二五~六十日、多いところで三〇〇日が寺子屋の授業日数であったということになります。

 

寺子屋の学習風景に関して、高井浩氏の「天保期、少年少女の教養形成過程の研究」には上州桐生で買次商を営む田村林兵衛の妻田村梶子が文化十二年(一八一五)に開業した「松声堂」に入門した八歳の姉のいとと四歳下の弟の元次郎をとおして書いています。そこでは100名ほどの八、九歳~十三、四歳までの男女を共学で教授していました。

 

ここでは入学のことを「登山」とよび、まだ寺院教育が残っているような寺子屋です。学習の中心は「手習い」であり、和歌や和文なども教授されていた。また、いとは女性であったこともあり、行儀作法のしつけがとりわけ厳格であったことが記されてあります。また、いとの生家に残されていたテキストを見ると、それらはいずれも師匠の梶子が筆写したものであったそうです。地方の寺子屋では、必ずしもテキストがそのまま教えられていたわけではなく、寺子の生活環境に応じて、師匠がテキストを編纂していたようです。

 

いとの弟の元次郎は九歳になった天保七年(一八三六)二月に松声堂に登山しました。登山日には親子ともども晴着を身にまとい、師匠の前にでて束脩(金や飲食物)を差し出し、入門の儀式を行いました。そして、その時、師匠直筆の「いろはにほへと」の四八文字が書かれた大判の折手本を与えられるのです。このとき使われていたテキストのリストを見ていくと「古今和歌集」を除いて、そのほとんどが生活中心の実用性を重んじたものでありました。

 

また、元次郎は入門した年の十月に素読塾にも入門します。そこでは漢詩文や四書(論語・孟子・大学・中庸)を学んでいました。これは元次郎が上州桐生の裕福な商家に生まれ、一定の社会階層の師弟には、寺子屋で学ぶ実用的な学習だけではなく、それを支える教養の習得にまで務めていたことが分かります。

 

まさに、その子どもの将来に向けて、それぞれにあった教育を行っているのです。このことについて沖田氏は「近年、学校での学習についていけないいわゆる『落ちこぼれ』と称される子どもたちが問題になっている。『落ちこぼれ』か『落ちこぼし』かは議論の分かれるところであるが、いつの時代にも、子どもたちの学習の発達度の違いと、能力の差異は当然存在したと考えられる」と言っています。

 

「落ちこぼれ」という言葉は非常に問題になりますし、やはりこの言葉を見ると「ケーキの切れない非行少年」の書籍を思い出します。寺子屋は学問を教えるところですが、その学問のあり方は常に社会に向けたものという明確な目標がはっきりしているように思います。このように見ていると、今求められている「多様性」というのはこの時代には保障されていたのだろうということが見えてきます。