8月2021

言葉を獲得する基盤➁

前回、言葉の獲得の基盤となる1つ目の基盤「音声知覚」を紹介しました。まず「聞く」ということですね。その次となるのが「音声表出」です。つまり今度は「音を発する」ということです。発話には聴覚機能の発達とともに、音声器官の発達が不可欠になってきます。でなければ、言葉を使って関わることができません。乳児はこの音声器官における構造は未発達です。そのため、段階を踏んで発達していきます。

 

初めの誕生から2か月くらいまでは不快な状況での反射的な泣き(叫喚)、げっぷ、しゃっくりを発するくらいで、発声できる態勢にはなっていません。それから音声器官の発達とともに、「クー」や「アー」といった母音を中心とした音声を発するようになります。これがクーイングです。4か月ごろになると喉の構造が変化し、声を上げて笑うようになり、まわりの大人との心の交流を図り始めます。5カ月ごろになると、不明瞭ながらも母音と子音の組み合わせの音声を発するようになり、喃語が始まります。6か月頃になると「バババ」といった子音と母音をからなる音声を繰り返す反復喃語が多出し、1歳前後に初語の獲得時期を迎えます。「マンマ」など、一語文で、意味のある言葉を発するようになります。2歳前後になると、発語はより明瞭になり、2語文の発話がなされ語彙が増加していきます。このとき、助詞も使い始めるようになります。

 

この二歳児の頃の発話の爆発的な増加は保育をしていると非常によく感じます。2歳児なので実際のところは1歳児クラスの子どもたちです。では、その子どもたちは2歳になったからといって、必ずそういったそういった発達がおきるのでしょうか。ではなぜ、個人差が生まれるのでしょうか。このことに影響してくるのが3つ目の基盤「コミュニケーション」です。そして、前回紹介した中で3歳児入園の子どもたちの語彙が乳児から入ってきた子どもとに差があるのも、これに関係しているのではないかと思います。

 

このコミュニケーション(対人関係)において、赤ちゃんはもちろん小さい頃は言葉を発しません。しかし、赤ちゃんの前言語期においてでも、表情や視線、音声、身振りなどを用いて自分の欲求や意志を示し、他者とのコミュニケーションを図ろうとします。それは新生児でも、母親や周囲から発せられる育児語に同調するかのように手足を動かして反応します。このようなことから人が「人と関わる」ということは後から身につく能力ではなく、生得的な能力であると考えられています。

 

では、このコミュニケーションは赤ちゃんの活動において、どのように変化していくのでしょうか。

言葉を獲得する基盤➀

以前、学会での発表で、3歳から幼稚園に入園した子どもが1歳から入園した子どもたちに比べて、語彙が少ない印象があるという事を発表しました。ただ、これはあくまで自園の職員に聞いた感覚的な印象であるため、証明されたわけでもなく、3歳から入園したからといって語彙の獲得ができないというものではありません。では、子どもたちはどのようにして語彙を獲得していくのでしょうか。

 

子どもの言語の獲得は1歳前後から2半ごろまでといった非常に短い期間の中で獲得していきます。そして、語と語を一定のルールに従って結合し、構造化された発話をするようになります。3~4歳になるとどの子どもも、まわりで話されている言語の主な要素を獲得するようになります。この言語の習得ですが、これには生まれ持っている能力を基盤とすることと、環境からの要因によって発達していきます。つまり、環境からの働きかけがなければ発達していかないと言われています。そして、言葉の獲得のために、前言語期の重要性があげられています。

 

この前言語期は「意味のある言葉を発するのではなく、他者の言葉に敏感に反応したり、五感を通じて物や人と関わったりするなど、言葉を獲得するための準備期間」にあたる期間のことを言います。そして、その前言語期において言葉の発達を支えるものに4つの基盤があるといわれています。

 

その一つが「音声知覚」です。これは簡単に言うと「音を聞く」といことです。赤ちゃんは生まれながらこの音声知覚を持っていると言われており、様々な音の中から音を聞き取る能力や聞き分ける能力は乳児期の早い段階から発達していると言われています。たとえば、生後間もない赤ちゃんに人の話す言語音と機械音を聞かせると赤ちゃんは機械音よりも、人の話す言語音の方をより長く注意を向けることが知られています。ほかにも母親の声と他の女性との言葉を聞き分けて、母親の語りかけに対して手足を動かして反応します。

 

子どもは当初母語に依存しない音声知覚能力を持っていると言われています。その一つがたとえば赤ちゃんは生まれた直後は英語の「L」と「R」の違いが分かるとされています。しかし、意味のある言葉を発するようになると母語に存在しない音韻の違いは聞き分けられなくなり、母語の言語体系に適した音声知覚能力となっていくのです。

 

赤ちゃんは生まれた直後から決して、受動的に存在しているのではなく、常に頭の中をフル活動して、周りの音を聞き分けながら、音韻や音節を聞き分け、自分が環境の中に適応していくために、様々なことを取り入れようとアンテナを張っているということが分かります。では「音声知覚」の他にどういった言語を習得するための基盤があるのでしょうか。

教える中で

先日、ある大学で、新型コロナウィルス感染症のため、幼稚園の保育実習を断られた生徒の代替授業の講師として、2限分の授業をさせていただきました。ほとんどが自園の紹介をもとに今自園で取り組んでいる保育内の意図と理由を中心に授業を展開させていただいたのですが、生徒に話していくと、自分としてもまだまだ、説明がうまくできない部分ができてきます。結局のところそういったところは自分自身「知った気になっている」ところなのだということを痛感します。

 

よく「人に教えるということは自分が教わるよりも3倍勉強する」ということを言われます。これは自分自身当てはまることも多く、確かに「誰かに何かを教える」ということはそのことをちゃんと知っていないと教えることはできません。出なければ、自分の口から出てくる言葉は内容が薄っぺらいものになってしまってしまうように思います。その説明の難しさを改めて考える機会となりました。

 

こういったことは保育においても、もっと意識されるべきだと思います。いま、自園で職員と話している内容の中に「伝承」ということがあります。このことは正に字のごとく、これまで子どもたちが経験し身についたことを今度は年下の子どもたちに教え伝える機会を持たせることが重要になってきます。そこで起きたやり取りが子どもたちの自信になり、次のモチベーションにもつながってほしいものだと思います。

 

異年齢保育をしているとそういった姿に出会うことが多いです。自由遊びにおいては多くの場面では子どもたちは自分の発達にあった子どもと遊ぶので、多くは同年齢のクラスの子どもたちと遊んでいます。時に異年齢で遊んでいることもありますが、よく見るとやはり月齢が近い子ども同士で活動していることがほとんどです。しかし、時に、年長児と年少児が遊んでいることがあります。その様子を見ていると、遊んでいるのではなく、何かを教えている様子であったりします。つまり、遊ぶときは自分の発達にあった子ども、何かを教えるときは自分より年少の子どもとその場面によって関わる人が子どもによって違うのです。

 

こういった姿を見ると、大人も子どももそのやりとりの中心となるものは変わらないのだということが分かります。そして、教えている子どもは自分なりの関わる力を総動員してどうやったら、相手の子どもに伝わるのかを試行錯誤しているのを見ていると、「教える」という行動の裏には非常に多くの学びがあるということが分かります。そこにはただ、知識を定着させるだけではなく、もっと深い学びがそこにはあるのです。

 

私自身も眠そうにしている学生にどうやったら楽しく聞いてもらえるのか、それを「生かしてみたい」と感じれるように話をするにはどうしたらいいか試行錯誤の連続でした。こういったやりとりは単純に自分だけの活動を通すだけよりも、もっと得るものが多いだろうことは目に見えて子どもの姿を見ていると感じます。こういったやり取りの深まりをどう保障し環境を作ることが出来るのか、まさにそれが保育の専門性であるのだと思います。

指導力

東洋経済オンラインの6月1日の記事に横浜DeNAベイスターズファーム監督の仁志敏久さんの記事で「『うさぎ跳びを選手に強要する』指導者の無教養」という記事が載っていました。そこには野球の指導者が「意味のない練習をさせること」や「指導者の思い付きや一方的な解釈の押し付けは絶対にさけなければならない」ということを言われています。代表されるものが「うさぎ跳び」であり、仁志さんからするとうさぎ跳びは「何を鍛えているのか?それによって鍛えられたものはどんな時に役に立つのか?おそらくですがきついからやらせていたのだと思います。選手がヘロヘロになって、転びそうになると『さぼるな!』という罵声が飛び、クタクタになった姿を見て指導者は満足をする」のではないかと言っています。

 

また、その他にも「きついことをとりあえず一度はやっておかなければいけない」という趣旨もあるのではないかとも話しています。きつい練習が「レギュラーになるために乗り越えなければならない壁」というように選手に言いますが、果たしてそうなのだろうかというのです。それを乗り越えることでそれまでの自分を越えるような変身ができるのだろうかと、これはやらせる側の一方的な満足で終わり、選手の成長や技術の向上にはあまり役に立っていないということが言えるのではないかというのです。

 

しかし、その一方で、きつい練習がダメだと言っているわけではないと言います。楽な練習はないですし、向上するには労力が必要であり、意味のある練習ほど、きつくつらいものだというのです。しかし、そこに労力を費やす意味があるからこそ、選手はその練習に取り組み、つらい変えを乗り越え、その練習に納得するから継続もできると仁志さんは言っています。つまり、その練習が誰にとっていい練習だったのかを問わなければいけないというのです。

 

こういった一連の考え方は何も野球だけに言えることではなく、学習や勉強、保育においても、同様なことが言えます。よく保育の中で「これまでそうだったから」と言われることがあります。しかし、その始まりの年のクラスの子どもたちにはあっていても、それが今のクラスの子どもたちにとって、良いことであるとは限らないのです。子どもは常に違いますし、それぞれの発達も違います。そのため、今の最適のものを子どもたちに提供していかなければいけないのです。そうすることで、時代や社会に合わせた教育形態を作ることが出来るのです。今の保育業界や教育業界においても変化があまり起きていないことが多く見られます。それというのも、「これまでそうだったから」ということが多いからなのだろうと思います。それがいったい「誰のためのものなのか」ということを考えていくと、教育や保育においては「これからの社会に生きる力を子どもたちに与えるためには」を中心に添えると、「これまでそうだったから」というだけでは、変化のある社会に対応することが出来なくなります。だからこそ、保育において「ねらい」を大切にする必要があるのです。勉強や学習においても、ただ漠然とするのは「うさぎ跳び」をするのと対して変わらないことなのかもしれません。それが何のために必要で、どういったことに意味があるのかが分からなければ、身につくものでもないのだろうと思います。

 

何かを誰かに教えるときにその「意図」と「意味」がなければ、モチベーションは上がっていかないのはどの分野でも、どの年代であっても、同じことであるのだろうとことが分かります。

支援の在り方

先日、大学院の授業の中で、小学校の学級についての話が出ました。現在、私のいる園でも療育を必要とする子どもがいます。そして、その子どもたちは3歳児検診や5歳児検診といった検診を行う中で発達の遅れが見えてきたりします。もちろん、普段の保育の中で、手がかかることや他の子どもと比べて生活の様子が違うことから、検査に行ってもらうこともあります。こういった子どもたちが小学校に行った時に入る学級が支援学級であったりします。

最近では、その支援学級にかかる子どもたちが増えているという問題があるようなのです。実際小学校での支援学級というものがどういったものなのか私は詳しくは知らないのですが、日本における支援というもののあり方が変わっていく必要があることを感じました。支援に今後課題がある理由が、一つは支援が必要な子どもが増えたということ、もう一つがそれに伴って、先生の手が足りないという事でした。いくら支援をしたくても、子どもに対して手が足りないのです。様々な取り組みは行われている中で、この課題は非常に大きな問題を起こしています。

ただ、私の実感として、そういった教育において「異年齢」のあり方というは今後の教育の中に非常に大きな意味を投げかけるのではないかと感じています。実際、今私が働いている園では異年齢で子どもたちが過ごしています。3~5歳児の子どもたちが同じ環境の中にいます。心理士さんによっては、もう少し少人数の中で子どもが生活した方が落ち着くのではないかということを言われることがあるのですが、実際の子どもの様子を見ていると、子どもは自分の発達に合わせた子ども同士で遊んでいるのが分かります。そうした場合、発達が進むにつれて子どもたちが落ち着いていっている様子が伺えるのです。

たとえば、5歳児の子どもの中で発達検査をすると3歳児の発達段階の子どもがいます。おそらく、5歳児クラス単体の担当クラスであったら加配は割とべったりとついている必要があるでしょうが、異年齢であれば、割とその5歳児は胃年齢クラスの3歳児と遊んでいることが多いのです。このように子どもは自分の発達に合わせて遊ぶ相手を選んでいることが多いのです。また、これは支援が必要な子どもだけではなく、健常な子どもにとってもそうであることが多くあります。低月齢の子どもにとっては異年齢であることが救いであったり、逆に高月齢の子どもであったらより進んで遊びを発展出来たりします。

異年齢というのは子どもの主体性にとっては大人が意図しなくても子どもの発達に合わせた環境につながるということが見ているとよくわかります。そう思うと、異年齢の環境を用意することは今問題とされる支援における大人の手という問題が解消されたり、かえって支援を必要とする子ども自体が目立たない環境になるかもしれません。

そう考えていくと今の教育環境において、もう少し発達に沿った環境作りという事をもう少し意識する必要があるように最近感じます。今ある「年齢別」というクラス区分に対して、困っている子どもたちが多いのかもしれません。以前、紹介した「ケーキの切れない非行少年たち」を著した宮口幸治氏も同様にこういった子どもたちの環境に言及されていました。様々な形態が教育においてもあるのでしょうが、未だ昭和時代から変わっていない教育現場を変えていく必要がこれからの時代必要な気がします。