7月2021

功利主義と義務論

乳幼児期の道徳観の原点に功利主義と義務論という倫理学を二分する理論があります。この功利主義というのは手段を問わず、最大多数の最大幸福を達成することです。そして、これに対し、義務論は、ある行為にはそれがどんな結果をもたらすかに関わりなく、本質的な善悪があると主張しています。この二つの立場を対比するため、よく引き合いに出されるのが「トロリー問題」です。

 

この問題では「あなたの目の前でトロリー電車が壁に向かって突進しています。衝突すれば乗っている5人全員が死ぬでしょう。でもあなたには、切り替えスイッチを操作し、電車を別の線路に引き込むことが出来ます。その場合、そちらの線路に居る別の1人がひかれてしまいますが、乗っている5人は救えます。あなたはどうするべきでしょうか」という問題を出題するのです。つまり、最大の幸福を求めるなら一人の犠牲には目をつぶるということになり、ほとんどの人がこの質問に対し、1人の犠牲が出ることを選択するようです。そして、これが功利主義的な考え方です。

 

これとは別のバージョンの問題があります。「あなたは暴走中のトロリーの前方にかかった架線橋に、大柄な男が立っているのに気が付きました。もしあなたがこの男を線路に突き落とせば、男の巨体で電車を止め、乗っている全員を救えます。(あなた自身が橋から飛び降りても、あなたの体では電車は止まらず。男の巨体でならとまる)あなたはどうするべきでしょうか。」こちらの問題では、多くの人が直感に頼り、見ず知らずの人を橋から突き落として殺すのはどんな理由があろうと許されないと判断します。これが義務論的な判断です。

 

こういった功利主義と義務論の論争は歴史が古く、哲学、心理学だけではなく、神経科学の分野でも膨大な論文が書かれているようです。この判断においては哲学者は立場をはっきりとさせたがりますが、一般人はこの問題に関して、ケースバイケースで時に功利主義者となるときもあれば、義務論者になる場合もあるのです。そして、その決定に関わるものはちょっとした要因によって変わります。

 

ただ、子どもの視点からすると、功利主義も義務論も根本的な違いではないようです。というのも、これらの大元にあるのは乳幼児が他人に対して抱くのと同じ、他者への共感だからです。ゴプニックはそもそもなぜ、私たちは他人の利害を気にかけるのか?と問いています。功利主義のスローガン「最大多数の最大幸福」と義務論者の「他人に危害を加えてはならない」というのは根本的に他人を幸せにしたいという思いが中心にあります。それは他者への情緒的共感を大前提に置いているからではないかというのです。そして、つまりはこういった感情の根底にあるのは幼いうちから人間に備わっている共感に基づく道徳観から始まっているのではないかというのです。人がもつ道徳観は乳児期から始まり、この根底は変わらず大人になってもその基軸となるもとは変わっていないのではないかとゴプニックは言っています。

サイコパス

人の道徳性というのは乳児期の子どもでも持ち合わせている能力であるということが分かってきました。ただ、世の中においては、サイコパスのように道徳的判断ができない人もまれにいます。このことについてゴプニックが紹介しています。サイコパスは「反社会性人格障害」と言われ、他人に直接共感することがありません。神経科学者ジェームズ・ブレアは、凶悪犯用刑務所にいる囚人で研究を行いました。殺人犯や強姦犯の中には、はっきりと違いがあり、熱情や誘惑にかられ衝動的犯行に走った人たちと、もともと罪悪感がないサイコパスに分かれていたのです。サイコパスはうわべは魅力的で口達者、人を操るのも巧みですが、他人を思いやらなければいけないことが分からないのです。

 

ブレアの研究ではサイコパスの大人であったり、そういった傾向がある子どもは平均的な人と比べ、恐怖や悲しみの表情を見ても動じないというのです。それでいて、怒りや軽蔑の表情はほぼ間違いなく認識できるというのです。そして、それは彼らの脳の反応を見てもあきらかで、ほとんどの人は恐怖や悲しみの表情を見ると、脳の中にある扁桃体問う部分が活性化されます。しかし、サイコパス傾向を持つ子どもは、平均的な子どものような反応的攻撃性を示さず、脅威を感じても食ってかかったりしません。いきなり冷淡に暴力をふるうというのです。彼らは赤ちゃんでさえ抱く他人への情緒的共感がないといえるとゴプニックは言います。しかし、それは他人を理解できないというというわけではありません。彼らは他人の願望や信念を言い当てる心の理論の課題はうまくやり遂げます。むしろ、この種の知識を利用し、人を巧みに操ろうとします。彼らができないのは、他人の恐怖や悲しみを取り込み、自分のものとして感じることが出来ないのです。そのため、普通の人ができる道徳的判断ができないのです。

 

こういったサイコパスの人間はある種の成功を収めるということも聞いたことがあります。冷淡で冷静な判断ができるからこそ、成功するケースもあるのです。海外サイト『The Conversation』にサイコパスに関する記事を掲載した、米エモニー大学のスコット・リリエンフェルト教授によるとサイコパスの人は「パッと見は大胆で魅力的だが、徹底的に不誠実で、冷淡、罪の意識に乏しく、衝動をうまく抑制できない」と定義されているといっています。そして、「冷血な人間や殺人鬼は、ほとんどいません。彼らの多くが、普通の人々に混ざって生活しており、他人を犠牲にするなど、自分の特色を生かして社会的成功を収めているのです」と話しています。

 

1940年 精神科医のハーヴェイ・クレックレーは「サイコパスの中には“普通の人間”の仮面をかぶり、感情的欠落や神経症的な部分を隠しながら、社会的に成功する者もいるだろう」とはなしていて、たとえば「凄腕のセールスマン」「街一番の美女と結婚する人」「政治的な成功者」を挙げたそうです。ある意味で、冷徹な判断を行わなければいけないといったときに躊躇なくできるということが特性としてあり、サイコパスの人はそういった特性を生かしたときに成功者としてなるというのでしょう。しかし、道徳的判断ができないということが凶悪な犯罪者を生むのも確かです。

 

ゴプニックは赤ちゃんは他人の恐怖や悲しみを自分の恐怖や悲しみとし、喜びも同様であり、少し成長すれば、他人の恐怖や悲しみを取り除こうとしたり、欲しいものを取ってあげようともします。このように相手の心情を理解するために、因果関係を理解することが重要になってくると言っています。

元々持っている道徳性

ゴプニックは赤ちゃんが利他的な行動をとることを自身の研究とフェリックスの研究を通して紹介していました。それと同時に幼い子どもにも純粋な道徳的判断ができるという事を示すために、ジュディス・スメタナの研究により示しています。彼女は2歳半の子どもに、日常生活の中の二種類の場面を示しました。その一つは、子どもたちが幼稚園のルールを守らないこと。たとえば、上着を決められた場所に置かない。お昼寝の時間におしゃべりをしているといったようなこと。それともう一つ、他の子どもにぶつ、からかう、おやつを盗むなどの身体的、心理的な危害を加えるものといった2つの場面を見せました。その後で、子どもたちにルールを破ることはどうして悪いのか。ルールを違反した子どもには罰が必要かと尋ねました。さらに、もしこういうルールがなかったら、あるいは、こういうルールの無い幼稚園でなら、同じことをしても良いのかと聞きました。先生がいいですよと言ったら、お昼寝の時間に喋ってもよかったり、他の子をぶってもいいのかと質問したのです。

 

すると、一番幼い子どもも含め、子どもたちはみな、ルール違反も他の子に危害を加えることも悪いことであると言ったのです。そのうえ、ルール違反よりも、他の子に危害を加えるほうがずっと悪いとも思っていたのです。ルールは変えられるし、よその幼稚園は同じルールではないかもしれないというのです。そして、どちらにしても、危害を加えるのは悪いことで、それはルールとは関係ないというのです。このことはどの幼稚園でもそれは同じだというのです。

 

これは仮定の話だけではなく、実際に起きた出来事についても、同じように子どもたちは判断しました。他の子に危害を加えることと、ルールを破ることとは違った反応をしたのです。これは実験をしたアメリカだけではなく、どの国でも子どもたちの反応は同じだったようです。そして、国だけではなく、親から虐待した子どもでも、他人を傷つけることは本質的に悪いことだと考えていたのです。そして、それが仮に実の親であっても、悪いことは悪いと判断しました。

 

ゴプニックはこのような判断が起きたのは他人への共感や利他的行動がごく早期から発達することと符合しているからだと言っています。子どもは1歳半から他人の痛みを自分の痛みのように感じ、和らげようとします。だから、この逆の行為である誰かを傷つける行為はどんなことをしてもよくないことだと分かっているのだというのです。

 

幼い子どもでも相手に危害を加えるということはいけないことであると分かっているのですね。この研究は2歳半の研究ということであり、これによると2歳半頃であれば、危害を加えることがいけないことであるということが分かっているという事になります。とするのであれば、2歳頃の子どもたちの関わりにおいて、叩くことや噛みつくということは意図してではなく、衝動的な行動であるのかもしれません。以前、DVを犯す人は叩こうと思っていなくて、気づけば手が出ているということを聞いたことがあります。自分が「叩いてやろう」と思わなくても、気づけば手が出ているというのは恐ろしいことですが、そういった衝動性によってではなく、冷静になるための心持が子どもにも重要な力になってくるのですね。この衝動性は非認知能力とも大きく関わってくるのだろうと思います。

赤ちゃんの利他的行動

ゴプニックは道徳において「共感」は大切であるといいながらも、それだけでは足りないと言っています。考えてみたらわかることではありますが、いくら相手に共感したとしても、それが相手にとって苦痛を取り除かなければ、何の解決にもなりません。つまり、利他主義の本質は、共感できなくても、相手が苦痛を感じているのであればそれを取り除こうとするところにあるのです。そして、その力は乳児の頃から宿っていると言います。

 

ブロッコリーとクラッカーの実験で、生後14カ月の赤ちゃんは相手と自分とが同じものが好きだろうと考え、自分の好きなクラッカーをあげました。ところが1歳半の子どもは、相手の感覚や願望は自分と違う場合があることを理解していて、相手がブロッコリーを好きならブロッコリーを、相手がクラッカーが好きならクラッカーを渡しました。つまり、利他主義の行動であると14カ月の子どもでも差し出すことをしますが、相手が何が欲しいのかを理解し、それが手に入るようにしてあげること、相手の表情を読み、欲しいものをあげるということは1歳半の子どもたちはできることを示しています。そのうえ、14ヶ月の赤ちゃんとは違い、相手が欲しいものが仮に自分が嫌いなものであっても、相手が欲しているものを差し出すという高次のやり取りをしているのです。

 

この実験とは別にフェリックス・ワーケネンが行った実験で、14ヶ月の赤ちゃんが必死で他人を助けようとした実験がありました。その実験では、実験者が届かないところにあるペンを取ろうとしているところを見た赤ちゃんが、部屋を横切ってクッションを乗り越えてまで助けに来たのです。また、誰かがいたそうにしている様子を見ると、おろおろするばかりではなく、何とか痛みを取ってあげようと、撫でたりキスしたりするのでした。

 

こういった行動を赤ちゃんが起こすのは、持ち前の因果的推論により、相手の気持ちを予測し、反実仮想の能力を使い、「こうなったら、こうなるだろう」といった見通しを持つことで、他人を幸せにしようとするのです。ゴプニックの行ったブロッコリーとクラッカーの実験では、1歳半になると相手がブロッコリーをあげると喜ぶことを理解していました。フェリックスの実験では、14ヶ月の赤ちゃんは相手がペンに手を伸ばしていれば、その人はペンを欲しがっているということ、その人がペンを手に入れるには、部屋のこっち側にいる自分がクッションを越えて向こう側へ行かないといけないことを理解していたのです。

 

保育をしていても、よく見る光景ですし、家庭の中でもよくある光景です。しかし、この光景の中で行われていることがどれだけ高次元のことを行っているかという事を考えてみたことがあるでしょうか。自分自身、こういった研究の内容を見ていく中で、改めて赤ちゃんとはかなりすごい存在で、思っている以上に世界に働きかけているという事を感じます。かなり能動的に働きかけていくことで、世界を理解し、物事を理解し、知識として蓄えていく様子を見ていると、赤ちゃんとの関わり方もおのずと「してあげる」ことから「できる環境」を用意する必要があるという事を感じます。

共感の影響

子どもがもつ共感や模倣を通して、自分の心も他人の心も仕組みは同じであるということを理解していきます。そして、そういった関係性の中で、道徳性も得ることになっていくとても重要な能力です。しかし、この共感や模倣は好ましい反応ばかりではなく、困った反応を呼び起こともあるとゴプニックは言います。「自分の心も他人の心も仕組みは同じである」ということは、喜びは喜びを生むというポジティブな反応もあれば、それとは逆に、悲しみが悲しみをよび、怒りは怒りを呼び起こすことにも繋がってしまうのです。喜びを分かち合うのが博愛への道なら、怒りの連鎖は暴力への道です。幼児期の攻撃性のほとんどは、このような「反応的攻撃性」であり、他人から受けた脅威に対抗して起こる攻撃や怒りであると言っています。それは時に暴力の形をとることもあるのです。

 

ゴプニックは攻撃的な子は、他人の怒りに非常に敏感だと言っています。混みあった運動場で子ども同士がぶつかっても、平均的な子どもは不運な事故だと思います。ところが、反応的攻撃性の強い子は、相手が自分をつけようとしてわざとぶつかったと思いがちです。このような子は相手から怒りをぶつけられたと考え、自分も怒りや威嚇で応じます。しかし、当人からすれば、自分は何も悪くなく、悪い相手に対抗しているにすぎないのです。

 

こうした相互作用はたちまち悪循環を生みます。怒りに怒りで答えるのは、幼児に近い共感反応のようです。小学生の研究で、ある子どもが意地悪かどうかをものの数分で判断することを示した研究があります。その子どもが意地悪であると判断されたら仲間からイジメられる傾向があるようです。その理由は「あっちがひどいことをするから、こっちはそれに対抗しているだけ」という、攻撃的な子どもの言い分と同じことが起きていました。それでも幼いうちはまだ、物理的に大きな危害を加えることはできないのですが、子どもが青年期を迎え、反応的攻撃性に大きな体、不安定なホルモン分泌、未完成の前頭葉、そして簡単に手に入る武器が加われば、自己破壊的な暴力衝動の爆発が起こりかねないというのです。このことはアメリカのハイスクールにおいても起きていることのようです。また、こういった行為の先にたとえば、バルカン半島から中東に及ぶ恨みと報復の連鎖まで、そう遠い距離ではないというのです。道徳的に最善の衝動が、相手の情緒を真似ることから始まるなら、最悪の衝動も同じなのだろうとゴプニックは言います。まさに「目には目を、歯には歯を」ですね。

 

こういった衝動は誰しも経験したことであると思いますし、どこかでそれだけの痛みを与えないと事の重大さを伝えることはできないと思っているかもしれません。これは保育において、保護者のクレームにおいて、最近感じるところでもあります。園長と保育者の関係、保育者同士の関係と同じようなことが保護者関係にもつながっていたり、影響していたりするように思います。園の文化や雰囲気、風土といったものは保護者にも伝わってしまっているように思います。特に保育というものは人間関係でなりたっています。人と人との関係が非常に重要でもある仕事です。だからこそ、マネージメントする側はそのことに気を配らなければいけません。どういった環境でどのように関わりをもつことが出来るのか、それは結果として、様々なところに影響が出る内容であると感じられます。