自己認識と集団

宮口氏は非行少年たちが自分が変わることができたきっかけとして挙げられるのは「自分への気づき」と「自己認識の向上」であるということを言っています。そのため、学校などでは、先生が「君を見ているよ」というサインを子どもに送ることや少人数のグループワークをすることで子ども同士お互いを観察し合うことを行っていたりします。もちろん、平成から大人が見本となり、そもそもの「正しい規範」を子どもに見せることは言うまでもないといっています。自分が変わるためには、自分に注意を向け、見つめなおすことが必要なのです。

 

非行少年たちが変わろうと思ったきっかけに共通しているのは、これまで社会で失敗し続けて自信をなくしてきた彼らが、集団生活の様々な人との関係性の中で、「自己への気づきがあること」そして、さまざまな体験や教育を受ける中で「自己評価が向上すること」の2つなのです。特に自己への気づきについては、押し付けでなく少年自身が自ら「気づきのスイッチ」を入れねばなりませんので、少しでもこういった気づく可能性のある場を提供し、スイッチを入れる機会に触れさせることが大切になってきます。

 

これらは学校教育においても全く同じことがいえます。宮口氏は矯正教育に長年携わってきた人の言葉をかりこう言っています。「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」つまり、子どもの心の扉を開くには、子ども自身がハッとする気づきの体験が最も大切であり、我々大人の役割は、説教や叱責などによって無理やり扉を開けさせることではなく、子ども自身にできるだけ多くの気づきの場を提供することなのです。子どもが大人と1対1で向き合って得られる気づきよりも、同級生に言われて得られる気づきが大きいこともあり、グループでの様々な活動も欠かせないというのです。

 

まさに今回の内容は「子どもの主体性」の重要性に触れた内容だと思います。大人がどれほど、子どもたちに手を掛けたとしても、子ども自身が気付くことがなければ、身についたとは言えないのです。そして、意外にも大人が子どもに対して言うよりも、子ども同士の関係性の中で話をさせたほうが、すんなりことが運ぶことも保育の中では多々あります。また、子ども同士が関わる年齢の幅も大きな意味があるようにおもいます。ここでは「気づく可能性のある場」ということを言われていますが、私はその「場」というのは「異年齢」にあるように思います。赤ちゃんを見ていると思いますが、赤ちゃんが真似をするのは、大人ではなく、近くにいる赤ちゃんです。大人では発達が違いすぎて真似ができません。もう少しで「できるかも」という自分の認識が「やってみようとする心情」を生むのです。つまり、少し先の発達に触れることの重要性があるのです。これは大人がいくら教え込むよりも、影響があるということが子どもの姿を見ていると感じます。家庭でも親の影響以上に、きょうだいの影響を強く受けるのもこういった発達が近いということが要因にあるのだろうと思います。とすると、こういった非行少年たちの持っている心情というものは生まれたときからあり、こういった子ども同士の関係性のある環境の中で起きる経験値の積み重ねが少ないのかもしれません。これは少子化による大きな影響が出ているのかもしれません