9月2021

罰と責任

寺子屋の指導においては、厳しい指導もあり、体罰などの「教育的指導」というものもありました。現在の時代ではきっと問題になるでしょうね。では、どういった時にこういった罰というものが行われたのでしょうか。それは「不品行にして他人に妨害を加ふるもの」「怠惰にして学業未熟なるもの」「喧嘩争論するもの」「他人を欺き若しくは盗みするもの」という「罰」があげられています。いずれも子どもたちが成長したときに守るべき最低限度の社会性に最大の注意がむけられ、それを犯した時に罰が加えられていたようです。

 

これらの罪を犯したとき、最も軽いのは叱責または説諭です。つまり、「説教」ですね。次に「留置」です。これは放課後居残りを命じて習字等を課したりします。「補習」のようなものでしょうか。そして、「謹慎」これは師匠のかたわらで正座を命じました。ほかにも教場や便所などの掃除を命じることもありました。体罰としては、右手に線香、左手に水を満たした茶碗をもたせ正座をさせたり、竹竿で手足を打つ「鞭撻」(べんたつ)などがあります。しかし、師匠が手で子どもを殴打することはなく、ほとんどの場合、厚紙で扇子をつくり、打つ音に比べて痛みを感じさせないような工夫がされていたそうです。もし、手におえない子どもであれば、破門を命じて追放することもあったようです。

 

武家の子どもの教育においては体罰は好ましくはなかったようです。それは誇りを重んじる武家社会にあって、武士としての尊厳を否定するような体罰は、武士の尊厳を否定するものとして考えられました。こういった教育的指導としての「罰」は教育的意味をもつために、子どもと師匠との信頼関係において確立されていなければならないとされていました。

 

このようにしてみると、「体罰」とはいえ、極端な殴打が当たり前のようにあったわけではないようです。現在において「体罰」は問題になることが多々あります。どうも最近の体罰のニュースを見ていると先生と子どもの信頼関係というよりは、先生の一方的な感情をぶつけているようにすら見えてきます。また、寺子屋においてでも殴打するといった体罰はあまり好まれなかったのですね。「ハリセン」が寺子屋での子どもに与える罰の中にあったというのも驚かされます。音のわりに痛みが少ないというのは「なるほど」と考えさせられました。それと同時に「破門」という手段が最終的にあるというのも大きな意味合いがあるのだろうと思います。

 

「破門」が行われるというのは最大級の罰であるというのが分かります。しかし、それが罰でありえるというのは、やはり子どもや親にとって寺子屋で勉強することが「自己責任」であるということが言えるのでしょう。最近ではこの生徒の「自己責任」という認識があまり強く言われていないような気がします。以前、旭川での中学生が自殺したニュースがありましたが、そこで校長は「加害者にも人生がある」というように被害者よりも加害者を守るような発言がありました。確かに「人権」という意味では考慮されなければいけないところはあるのはわかります。しかし、だからといって、「責任がない」とは言い切れないのではないかというのも感じます。義務教育や少年法、そのどれもが「加害者の子どもたちを守る」ということや「更生を望む」ものであるのはわかるのですが、そこにある「責任」はやはり伝えることも重要なことであるように思います。

 

そして、それは子ども自身が自身について感じて理解しなければいけないように思います。

教師と生徒

次に寺子屋の就学時期です。これには日本のそもそもの子どもへの考え方が色濃く影響していることを沖田さんは言っています。日本には子どもについて「7歳までは神の内」という言葉があるそうです。このころは今とは違い乳幼児の死亡率というのは非常に高かったと言われています。そのため、子どもがある程度自力で生きていける力を身につけるまでは、生きるも死ぬもすべて人間の力が及ばない「神の内」に委ねられているという考え方が支配的であったと沖田さんは言っています。これは欧米社会における「子どもは未熟な大人」という児童観とは異なるようで、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手を加えないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという子ども観が日本にはあったのです。

 

現在も日本の各地にある祭りの中には子どもを中心としたお祭りが多く残っており、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからです。子どもたちは成長するにしたがって、紙の領域から人間の領域へと近づいてくるのです。それを「小児は3歳で『髪置』、男子は5歳で『袴着』、女子は7歳で『帯解』」という年祝いの行事を通して成長の節目としました。これが現在で言う「七五三」の起源だと言われています。武家社会では男子は5歳で就学年令とする風習もあったが、この年祝いが終わる7~8歳頃が寺子屋の就学年令であったようです。

 

この頃の入門は、今のように金銭のよって教育関係を結ぶといった契約ではなく、あくまでも「子弟の礼」をもって教育関係が成立するという形態でした。その後、5~6年間、厳しい封建の世を生き抜く知識と智恵、人間関係に関する礼儀作法や生活習慣などを身につけていきます。

 

「七尺下がって師の影をふまず」というのは、寺子屋で用いられたテキストの一つである『童子教』の一節が紹介されていました。この一節を読んでどう感じるのでしょうか。沖田さんは「教育が納税・兵役とならんで国民の三大義務として国家の制度によってつくられ、国民に強制されてきたときに、国家の権威を背景に新たな『教師像』が形成された。しかし、これらの権威と、庶民の間で自然発生的に登場し、学ぶ側から作られた権威では大きく異なる」と言われています。

 

師匠つまり、当時の先生と生徒との関係は今のような形としての関係ではなく、あくまで師と弟子といった信頼関係のうえに確立されたものであったということが伺えます。そのため、当時の寺子屋によって師匠はひとりであり、視床の個性が寺子に大きな影響を及ぼしていたのです。例えば「筆小塚」などは、師匠が没したのち、その教えを受けた弟子たちが師匠を偲んでつくったものもありました。

 

このように現在の教育現場とは異なり、寺子屋における先生(師匠)と生徒(弟子)の関係は今の制度としての関係性とはまた違った関係性であったことがうかがえます。確かに「人としての教え」まで教えられる寺子屋においては、「先生」というもののあり方は大きく違っているでしょうね。