戦国時代から江戸時代へ

戦国時代から各地域が平定され平和な社会が訪れた江戸時代、それまで各大名において寺院教育や家臣の教育掛からの家訓を用いた子弟教育から、少し教育の形態が変わってきます。それは武士の生活とも大きく関わってきます。徳川家康が全国統一をしていく中で、武士を対象とした意図的・組織的な教育が登場してきました。

 

新興の戦国大名は早くから、新しい儒学である朱子学を研究する学問僧を保護してきました。相国寺で朱子学を学び、のちに京学派の朱子学の祖とされた藤原惺窩(ふじわらせいか)(1561~1619)も家康に招かれ講義をしています。家康は権力の掌握とともに、古文献の収集保存に努めました。そして藤原惺窩から講義を受けた『貞観政要』『孔子家語』といった書物の印刷を命じるなどの文化事業に着手しました。また、伏見に円光寺学校を創設し、足利学校の閑室元佶(かんしつげんきつ)(1548-1612)を迎えて校長に任じています。

 

一般的に、家康の時代では朱子学の思想的な特質に着目し、藤原惺窩の弟子林羅山(はやしらざん)(1583~1657)を招聘して幕府の封建イデオロギーの基礎としたというように解釈されているが、家康の文献政策には儒学を幕府教学の理念としようとする積極的な姿勢はみられていないようです。家康の側近には南禅寺の金地院崇伝(こんちいんすうでん)(1569~1633)や天海(?~1643)などの僧侶が権勢をふるっており、羅山が家康の御伽衆の中心的存在として関わったようには見られないようです。そもそも朱子学自体が仏教を対抗思想として厳しい思想的対立を経て確立してきたこともあって、その内部には激しい仏教批判を有していました。結果、羅山が幕府の文教政策に力を発揮するのは家康の死後であったのです。

 

家康においては、統一事業において、これまでの戦闘者としての武士から、封建官僚としての才能が要求される武士へとあり方が変わっていきます。山鹿素行(やまがそこう)(1622~58)は武士の存在を「農・工・商」の三民の道徳的なモデルととらえ、社会秩序の体現者となるべきであると士道論を説きました。下剋上を克服するためにも、幕府をピラミッドの頂点として、圧倒的な経済力と軍事力を集中し、それによって構成される階層秩序を盤石なものにすることが何よりも優先されたのです。そのため、個々の武士を構成員の一員として組み込むために、新たな思想を必要としたのです。つまり、ここに武士教育の必要性が生まれたのです。

 

幕府の中で出世し、家を盤石なものにするためには武士としての教育をしっかりと納めていなくてはいけなかったのです。ここに新しい、これまでとは違った国をまとめた教育というものが始まっていったのです。また、戦闘者から封建官僚といった必要とされるスキルの変化も大きかったのでしょう。国の中でどういった資質が求められるのか、その部分が大きく変わってきたのが家康が開いた江戸幕府の時代なのです。これまでは自分の領地をまとめることや守ることに視点が置かれていたところから、幕府というものを守り、繫栄させることに視点が変わってきます。自営業と雇われ社員との違いのようにも見えますね。そうすると求められる資質は変わってくることであるのは明白です。では、その時代の学校とはどういった教育がおこなわれていたのでしょうか。