8月2021

洋服と保育

先日、株式会社e-CHANNELが運営する保育者向けWEBメディア「ほいくis(ほいくいず)」が全国の保育者を対象に「保育園での仕事着」についてのアンケートを公式SNSで実施しました。そこでの保育士115人に「Q、園でNGな服装は?」という質問を聞いたところ、1位が「フード付きパーカー」、2位が「ジャージ」、3位が「デニム・ジーンズ」、4位が「スウェット」、5位が「キャラクターもの」、6位が「スカート」という結果が出たそうです。

 

そして、「保育をするのに適切な服装かどうかでNGな服装が決まっている」という傾向が見られました。1位の「フード付きパーカー(43票)」については、後ろから引っ張られた際に首が閉まってしまう可能性があるという安全上の配慮が主な理由です。2位の「ジャージ(41票)」については、「保育園の家庭的な雰囲気にそぐわない」など、園独自の理由で禁止されているケースもあるそうです。いずれにしても、これから園で働くという方は、は予め服装のルールを確認しておくことが必要となりそうです。

 

また、ここでは「保育者の皆さんが揃えなければならない仕事着は、保育活動中に着用する洋服だけではありません。毎日着用するエプロン、入園式や卒園式など正装が必要な行事の際に着用するスーツ、夏場のプール活動で着用する水着など、場面に応じてさまざまな仕事着が必要となります。」とあり、やはり保育者とはいえ「仕事着」という概念があるということが言えることが分かります。

 

私の園では基本的に保育中に着る服は自由にしています。また、エプロンに関しても、気なければいけないということは言っていません。では、海外ではどうでしょうか。以前、ドイツやオランダといった国の保育者の様子を見たときに驚いたのが、保育者は実に普段着で保育をしていました。人によってはハイヒールを履いている人さえいたのです。そういった着用する服について質問すると、「子どもを見ることになぜ動きやすい服がいるのですか?」と質問を返されました。どうやら、そこに「子どもを見る」という概念がどうやら日本とは少し違うものであるようなことが見えてきます。海外においては子どもが自ら動くことが多く、配膳にとっても、食事においても、子どもが自分で自分のことをします。日本のように誰かが用意するということも少ない、遊びにおいても、日本のように子どもと一緒に遊ぶということは非常にマレな姿でした。だから、「保育に適した」という考えも日本とは違うのでしょう。

 

どちらがいいとか、どちらが正解かということではないのですが、海外と日本とでは子どもとの距離感が大きく違うということはこれまで海外の保育を見ていく中で感じるところです。そして、それは保育をするときの衣服においても、その考えは影響しているということが分かります。

愛とは

子どもたちが未来を思い浮かべるときに、自分はどんな未来を実現したいのかということを判断します。その判断は、ごく幼い赤ちゃんのときから備わっている道徳的反応に従うとゴプニックは言います。そして、その道徳的反応の土台となる奥の部分は赤ちゃんと養育者の間で交わされている深い共感と、親しみと無私の思いやりであると続けています。ここに保育で言う「安心基地」の重要性が見えてきます。

 

安心基地が赤ちゃんにとって確保され、保障されることが未来へと向かう原動力につながっていくのです。そして、これは前回にも紹介したようにこういった無私の愛があることで学習に没頭することが可能になるのです。赤ちゃんを見ていても、不安があるときは親から離れようとしません。何か自分が不安になったときに必ず助けてくれるということがわかってくることで、徐々に赤ちゃんは親と離れる距離が遠くなってくるのです。それが安心基地です。愛情を子どもに与えるというのは何も過保護にすることではなく、何かあったときに逃げてこれる、逃げてきても受け入れてもらえるということが重要になってくるのです。

 

これまで「想像力は知識に依存し、知識は愛と養育に依存している」とありました。最後にゴプニックは「愛そのものも知識と想像力に依存している」と言っています。ゴプニックは周りの人に頼り切った無力な赤ちゃんにとって、愛の理論ほど大切なものはないと言っています。赤ちゃんは近くにいる養育者のすること、言う事をもとに愛の理論を組み立てます。この理論はその子が大きくなり自分の子どもをもったとき、新たな親子関係にも影響を及ぼします。

 

この愛の理論をもつことで、養育者の行動や自分の取るべき行動を考えます。当然、その際、悪い循環も生まれれば、好ましい循環も生まれるところがあります。しかし、できてしまった悪い循環から抜け出す場合には想像力が役立ってくれます。小さな証拠が一つでもあれば、子どもはそれぞれより所に新しい愛の形を思い描けるのです。そう思うと、何度でもやり直すことはできるのかもしれませんね。

 

人間は不老不死になることはできません。これは生物全部に言えることでしょう。しかし、遺伝子をのこし、未来を作ることはできます。ゴプニックは「哲学する赤ちゃん」の結びにこういった言葉を残しています。「人間は変わる、ということはつまり、今だけを見ていても人間の本当の姿は分からないということなのです。どこまでも枝分かれして広がってゆく可能性の宇宙に、目を向けなければいけないのです」と言っています。私たちは持って生まれた人間特有の未来を創造する力を駆使し、子どもたちに未来を残すことが出来ます。しかし、そして、その世界を生きる子どもたちを育てる必要があります。教育や保育、育児という、子どもたちに関わることにはこういった未来に生きる子どもたちがよりよく生きる力を見通してつけていくことが求められるように思います。

真実と想像と愛と

これまでアリソン・ゴプニックさんの「哲学する赤ちゃん」という本を追って紹介してきましたが、結びに赤ちゃんがごく早期の段階から子どもの心を変化させていく力は「学習・反実仮想・養育」といった三本の糸がより合わさって生まれると言っています。そして、これらのことは「真実・想像・愛」とも言い換えることが出来ると言っています。

 

真実は「私たちは、世界がどんなものか知るに伴い、行動を変える」ということにつながるといい。人間は他の動物よりも高い変革能力を備えています。そして、赤ちゃんは生まれつき、世界や他人についてある程度のことは知っているため、この世界やこの世界を共有する人たちについての学習は幸先よくスタートが切れるのです。そして、愛を学び、物理的な世界の因果関係を学び、心の世界までも学ぶのです。そして、他人の心を学ぶ中で、自分の心の仕組みも学習します。他人について学んだ知識をもとに自分を理解し、自分について学んだ知識から他人を理解します。そして、こういったことを通して、自分の行動を変えることを知っていくのです。自分の心がわかってくると、自分の体験を一貫性のあるストーリー、紆余曲折ある人生の物語として、統一して理解するようになります。

 

このようにして赤ちゃんは自分を理解し、知識や真実を身につけていきます。このことについてゴプニックは「真実を見出す子どもの優れた能力は、想像力と愛に依存する」と言っています。想像は心の中に因果マップを検討し、様々な予測を立てます。想像を通して真実を探るのです。そして、こういった想像を通した学習ができるのも周りの人が世話をしてくれるからであり、愛ある環境が子どもの想像における学習の土台となるのです。

 

このように「想像力は真実を見つけるのを助け、真実を知ることは想像力を育みます。」子どもの頭の中では因果マップが作られ、反実仮想が繰り返されることで理論が修正され、世界についての知識や概念が充実していきます。そして、子どもが思い描く反事実や可能性も豊かになってきます。そして、その反実仮想が目に見える形になったのが「ごっこ遊び」なのです。こういった想像力は大人になっても保たれ、世界の別のありようを思い描き、現実を変革する力になるのです。そして、想像力はこのように物理的な世界の因果関係だけではなく、心の世界においても因果マップが作られます。知識を得たことにより、別の世界を思い描くことが出来るようになった子どもたちは、空想の友だちも創造します。周囲の人との複雑な相互作用がはじまり、子どもも大人も反実仮想によって望ましい結果につながる道徳規範や社会的協定につながります。

 

このように想像力は知識に依存し、知識は愛と養育に依存します。大人に守られた子どもは自由に学習し、愛されている子どもは自由に想像力を羽ばたかせます。そして、想像力は規範意識にも影響していきます。

ルールをつくる基

新しい状況に適応できるよう人々の行動を変えたいときには、それに見合ったルールをつくることが効果的だとゴプニックは言います。確かに何か大きく変化が起きるときはそれに見合った一つの指針があると人の行動をコントロールしやすくもありますし、実際動く人自体もマニュアルのようなものがあると行動に一つの道筋ができます。ただ、そのルール自体が納得できるものかどうかが重要になってきます。

 

そのため、ゴプニックはそのルールにおいて他人への共感に根差した善悪の判断を拠り所にすれば、道徳的相対主義に陥るのを防げると言います。どの人にも共感できるような判断を下すことで、どちらか一方に偏ったものにはならないというのです。これは「世界についての理論を改良するときも基本的前提だけは変えないようにすれば判断基準を失わずに済みます。私たちは常に一定の歯止めのもとに適切なルール、適切な理論を探っているのです。」と言っています。法律や憲法に至っても、時代や社会状況によって「適切」というものが変わってきます。当然それによって改訂していくべきところも出てきます。しかし、その際に、基本的前提を変えなければその基準からブレないルールを作り上げることが出来るのです。

 

このことについて私はこの「基本的前提」をいかに自分の中にしっかりと考えるかは非常に重要な要素であると考えています。これは保育や教育にも言えることですし、政治においても言えます。人が人とつながっていくことにおいて、できるだけ理性的な関わりの社会をつくるためにはその前提となるもののとらえ方は非常に重要です。それが最近ではどうも、違ってきているようにも感じます。以前、工藤勇一先生の著書を紹介しましたが、そこに合った言葉「目的のために手段があるのに、いつのまにか手段が目的になっている」ということが最近は多いように思います。どうも本質的な原理原則から物事をみるのではなく、目の間にあるルールや規範といった手段にばかり目が行っているようにも思います。ルールやマニュアルを作ることに力がそそがれ、それがそもそも何のために必要なのかが置いてきぼりになっていることも多いのではないでしょうか。そのため、根本的に基本的前提や本質といったことを意識することから考えを巡らせるということは非常に重要で、かつ難しいことであると感じています。