5月2020

自己認識と集団

宮口氏は非行少年たちが自分が変わることができたきっかけとして挙げられるのは「自分への気づき」と「自己認識の向上」であるということを言っています。そのため、学校などでは、先生が「君を見ているよ」というサインを子どもに送ることや少人数のグループワークをすることで子ども同士お互いを観察し合うことを行っていたりします。もちろん、平成から大人が見本となり、そもそもの「正しい規範」を子どもに見せることは言うまでもないといっています。自分が変わるためには、自分に注意を向け、見つめなおすことが必要なのです。

 

非行少年たちが変わろうと思ったきっかけに共通しているのは、これまで社会で失敗し続けて自信をなくしてきた彼らが、集団生活の様々な人との関係性の中で、「自己への気づきがあること」そして、さまざまな体験や教育を受ける中で「自己評価が向上すること」の2つなのです。特に自己への気づきについては、押し付けでなく少年自身が自ら「気づきのスイッチ」を入れねばなりませんので、少しでもこういった気づく可能性のある場を提供し、スイッチを入れる機会に触れさせることが大切になってきます。

 

これらは学校教育においても全く同じことがいえます。宮口氏は矯正教育に長年携わってきた人の言葉をかりこう言っています。「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」つまり、子どもの心の扉を開くには、子ども自身がハッとする気づきの体験が最も大切であり、我々大人の役割は、説教や叱責などによって無理やり扉を開けさせることではなく、子ども自身にできるだけ多くの気づきの場を提供することなのです。子どもが大人と1対1で向き合って得られる気づきよりも、同級生に言われて得られる気づきが大きいこともあり、グループでの様々な活動も欠かせないというのです。

 

まさに今回の内容は「子どもの主体性」の重要性に触れた内容だと思います。大人がどれほど、子どもたちに手を掛けたとしても、子ども自身が気付くことがなければ、身についたとは言えないのです。そして、意外にも大人が子どもに対して言うよりも、子ども同士の関係性の中で話をさせたほうが、すんなりことが運ぶことも保育の中では多々あります。また、子ども同士が関わる年齢の幅も大きな意味があるようにおもいます。ここでは「気づく可能性のある場」ということを言われていますが、私はその「場」というのは「異年齢」にあるように思います。赤ちゃんを見ていると思いますが、赤ちゃんが真似をするのは、大人ではなく、近くにいる赤ちゃんです。大人では発達が違いすぎて真似ができません。もう少しで「できるかも」という自分の認識が「やってみようとする心情」を生むのです。つまり、少し先の発達に触れることの重要性があるのです。これは大人がいくら教え込むよりも、影響があるということが子どもの姿を見ていると感じます。家庭でも親の影響以上に、きょうだいの影響を強く受けるのもこういった発達が近いということが要因にあるのだろうと思います。とすると、こういった非行少年たちの持っている心情というものは生まれたときからあり、こういった子ども同士の関係性のある環境の中で起きる経験値の積み重ねが少ないのかもしれません。これは少子化による大きな影響が出ているのかもしれません

自己評価の大切さ

宮口氏は非行少年たちから学ぶ子どもの教育を挙げています。その内容を見ていると決して特別なことではありません。しかし、我々保育者や教育者から見ても子どもたちに向き合うときによく考えなければいけない内容でもあるように思います。

 

宮口氏は非行少年によっては入院後8か月ごろから大きく変わり始める少年たちがいると言います。彼らは「少年鑑別所や少年院に入ったときは、反省しているように見えたけれど、今は違う、本気で変わるのは今しかない」と述べ、犯罪を行った頃の自分がいかに馬鹿なことを思っていたり、言ったりしていたかを客観的に分析できるようになるのです。そして、この「変わろうと思ったきっかけは何か?」ということは学校教育へのヒントになると言っています。その理由はもちろん、「家族のありがたみ、苦しみを知ったとき」や「被害者の視点になったとき」などがあります。ほかには「将来の目標が決まったとき」や「信用できる人に出会えた時」「勉強が分かったとき」「人と話す自信がついたとき」など、理由は様々ですが、ここに大きく共通するのは「自己への気づき」と「自己評価の向上」です。

 

人が自分の不適切なところを何とか直したいと考えるときは「適切な自己評価」がスタートとなります。行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気づくこと、そして自己洞察や葛藤を持つことが必要です。適切な自己評価ができるからこそ「悪いことをする自分」に気づき、「また悪いことをやってしまった。自分ってなんてダメなやつなのだろう。」「いつまでもこんなことをしていられない。もっといい人になりたい」などといった自己洞察・自己内省が行えるのです。そして、理想と現実の間で揺れ動きながらも、自分の中に「正しい規範」を作り、それを参照しながら、「今度からがんばろう」と努力し、理想の自分に近づいていくのです。そのためには自己を適切に評価できる力、つまり、「自分はどんな人間なのか」を理解できることが大前提なのです。

 

少年院では集団生活が強いられ、教育ではとことん自分に注意が向けられます。これまで好き勝手に生きてきて、自分を顧みず、何かあっても他人のせいにしていた彼らが、自分はこれまでどう生きてきたか、どれだけみんなに迷惑をかけてきたか、支えられてきたかを、振り返らされます。このように自己に注意を向けることで自己洞察や自己内省が生じる背景に、自覚状態論というものがあります。

 

これは自己に注意が向くと、自分にとってとても気になっている事柄に強く関心が向くようになります。その際、自己規範に照らし合わせ、その事柄が自己規範にそぐわないと不快感が生じます。この不快な感情を減らしたいという思いが、行動変容するための動議付けになる、というのです。

 

たとえば、万引きをしようとする少年が、自己に注意を向ける機会があると、万引きという行為自体についても関心を向けるようになります。そして、「万引きはわることだ」といった規範をその少年がもっていれば、そんな自分を不快に感じ、万引きをやめるきっかけになるというのです。

 

自己に注意を向けさせる方法として、他人から見られている、自分の姿を鏡で見る。自分の声を聴く、などがあります。かつて飛び込み自殺が多かった札幌の地下鉄では鏡を設置したことで、自殺者が減ったといった報道がありました。事実関係を直接調べたことはないと宮口氏は言いながらも、これは鏡で自分の姿を見ると自己に注意が向けられ、「自殺は良くない」という自己規範が生じたからではないかというのです。

 

つまり、この理論を通して見るのであれば、学校においても、先生は生徒に「君を見ているよ」というサインを送るだけでも効果があるのではないかというのです。そして、週人数のグループワークではメンバー同士であれば、お互いを密に観察するので、それだけでも効果があるというのです。

 

 

知能検査では見えないもの

つぎに宮口氏は医療や心理分野の支援に対する軽度知的障害や境界知能への支援の弱点を話しています。まず、医療においては、これらの子どもたちはADHDや自閉症スペクトラム障害の子どもたちは病院にも多くの方が受診しに来ます。そのため、それらにおける診断や投薬治療に関しても、医師の経験は多く長けています。そして、例えば、子どもにADHDなどがあって、多動、不注意が目立ち日常生活に支障をきたしていれば、医師はメチルフェニデートといった中枢神経刺激剤を処方することで、個人差はありますが、そうした薬の投与で多動や不注意といった症状を抑えることは可能になります。しかし、その一方で、同じ発達障害である学習障害(LD)や軽度知的障害、境界知能の子どもが、多動や不注意によって日常生活に支障があったとしても、病院に受診することは稀です。これらは病気というより、勉強ができない、といった困りごとになるので、医療ではなく教育分野の話になってくるのです。そもそも病院にはこういった子どもたちは来ないので、医師も慣れておらず、彼らがどんな特徴を持っているのか、どう対処すればいいのか分からないことが多く、「医療的には問題ありません」「様子を見ましょう」で終わる可能性があるのです。

 

では、心理士であればどうでしょうか。宮口氏は心理士でも、なかなか具体的な支援をするのは難しいと言っています。なぜなら、心理士は教育の専門家ではなく、心の問題の専門家だからです。カウンセリングなどを通して、軽度の気分障害、自閉スペクトラム症、ADHD、不登校、イジメ、思春期の問題などには対応できても、学習の問題に具体的にどう対応したらいいかといった具体的なイメージは持ちにくく、したがって、具体的な方針を提示することも難しいのです。発達の程度を見立てることは可能でしょうし、知能検査をして、例えば、ワーキングメモリー(脳のメモ帳とも呼ばれ、一時的に情報を頭にとどめておく機能)が低いという結果が出たら、それを保護者や教師に伝えることも可能なのですが、それだけでは教師の側は具体的にどう対処すればいいのか、なかなかわからないというのです。心理的検査の所見を説明されたところで、それをどう教育に生かせばよいかの具体的イメージが持てないのです。

 

さらに宮口氏は知能検査においても、話しています。一般的に発達相談などにいった場合、知能検査(小学生以上であればだいたいWISC検査)を受けることがあります。そこでIQが図れますが平均は100になります。例えば、そこで知能の値が98と出ます。これだと平均に近いので問題ないと思われがちです。しかし、困っている子どもはたいてい、10個の会検査の値に大きなばらつきがあります。たとえば、他の値は平均的または優れているのに、語彙力を調べると「単語」や社会的なルールの理解力を調べる「理解」といった検査値だけとても低い、いった場合です。この場合、言語理解や聞く力の弱さなどが推定されています。その他にも暗算などで必要な、一時的に情報を記憶するワーキングメモリーという力だけが弱い、といったように見られます。知能指数は、その子どもが困っているところを見つけるのに役に立ち、その結果を支援のヒントとして利用することができます。

しかし、一方で知能の値が90以上であり、10の下位検査でどこも低いところが見つからなければ、「知的に問題がない」となります。学習上や行動上で何らかの困った様子があるのにです。

 

宮口氏はWISCという検査は、子どもの能力の一部しか見ていないと言っています。なぜなら、たった10個の検査項目で子どもの知能を図っているからです。検査を見てみると、一方的に問題を与えられてひたすら答える、時間内にできるだけたくさん取り組む、といった課題ばかりで、絵を写すなどの再現力や描写力を測るような検査もなければ、答えのない問題に取り組ませて思考の柔軟性を見るような検査はありません。つまり、社会で必要とされる柔軟性、対人コミュニケーションの能力、臨機応変な対応などはWISC検査では測れないのです。IQは高いが融通が利かない、IQは低いが要領が良い、といった子どもたちの問題や特徴は見落とされがちなのです。

 

WISCなど現在主流の知能検査は大雑把に知能の傾向を把握するにはとても役に立つが、このようにそこで拾えなかった躓きを併せて調べて見ないと「知能には問題ない」で負われいなっていますのです。

認知能力への支援

宮口氏は学校は教科教育以外がないがしろにされていると言っています。そして、学習においても具体的に示しています。宮口氏はある市で、教育相談を行っているのだそうですが、そこには各学校から、勉強についていけない、授業に集中できない、漢字を覚えるのが苦手、黒板が写せない、計算が苦手といった子どもたちが母親に連れられて相談にきます。そして、その多くはやはり境界知能や能力の偏りがあるということがWISCという知能検査からわかります。

 

そして、そういった子どもたちに対して、コグトレ(認知機能強化トレーニング)のワークシートの中にある「点つなぎ」(点でつながった上の図を下に写す)ものや「形探し」(点々の中から正三角形に配置されているものを探し出して線でつなぐ)、「まとめる」(無造作に並べられた☆を5個ずつ囲む)といったシートをさせてみます。すると、漢字が覚えられない、黒板を写せない、計算が苦手といった子どもはいずれのシートもうまくできないのです。

 

簡単な図を見ながらそれを正確に写すということができなければ、漢字など覚えられないのです。漢字はワークシートで使う図よりも、もっと複雑で難しい形をしています。漢字が覚えられないというのは、形を認知する力が育っていないからです。

 

つぎに点々の中から正三角形を見つけることができない場合、場所や大きさが変わってもある形を認識できる“形の恒常性”という力が育っていないと考えられます。“形の恒常性”が育っていないと、黒板に大きく書かれたことをノートに小さくして写す、ということができません。

 

☆を5個まとめて囲む力がなければ、繰り上がり計算の際に必要となる「数を量として見る力」が育っていないため、計算が苦手になってしまいます。こういった写す、見つける数えるといった基礎的な認知能力の弱さが背景にあれば、どうしても勉強についていくというのは難しくなるのです。

 

しかし、学校では、漢字ができなければ、漢字の練習をさせる。計算ができなければひたすら計算ドリルをやらせるといったように、できないことをやらせようとしてしまいがちです。計算や漢字といった学習の下には「写す」「数える」といった土台があり、そこをトレーニングしないと子どもは苦しいだけなのです。そして、そこをクリアしていなければ、国語の文書問題をさせても平仮名や漢字が読めず、回答できないのです。そして、算数で面積を求めるような図形問題を解くには、足し算や掛け算、割り算ができることが前提であるため難しくなるのです。こういった前提である平仮名や漢字、四則演算ができないのに、文章問題、面積の問題をひたすらやらせると、ますます勉強嫌いになっていくのも同様なのです。そして、今の学校では、こういった学習の土台となる基礎的な認知能力をアセスメントし、そこに弱さがある児童にはトレーニングを指せるといった系統的な支援がないのです。これは非行少年たちも同様であり、簡単な図も写せず、短い文章の復唱もできない。そんな状態のまま小学校、中学校で難しい勉強にさらされるのです。そして、ついていけなくなり、勉強嫌いになり、自身の喪失や怠学に結びつき、非行にもつながっていくのです。

 

こういった支援が学校にはないというのが宮口氏の意見ですが、私はこのことを受けて、これは保育の責任かもしれないとも思うのです。ここで出てくる「支援」というのは認知能力のことを言っていますが、ここで学ぶ意欲であったり、粘り強く物事に向き合うといった非認知能力は乳幼児から始まっているということとともに、ここに出てきた支援の具体例は幼児の部屋においても環境に用意できるからです。点つなぎはそういったワークシートがあります。「形探し」というのもそういった遊びのおもちゃがあります。「まとめる」といったことも活動や友だちとの関わりにおいてもこのことはあるでしょう。つまり、ここでテストでやることやそこに通じる支援の環境というのは保育の施設においては比較的に置かれているものなのです。しかし、子どもたちはそれで十分に遊ぶのではなく、行事に追われたり、活動に追われたりとカリキュラム至上主義的で系統的な保育によって遊び込むほどんど時間も取られていないかもしれません。こういった境界知能の子どもたちはもしかすると、小学校以上ではなく、保育にこそ問題があるのかもしれません。

社会面への支援

ここ宮口氏は日本の教育現場における一番重要なところを指摘しています。まず、初めに子どもへの支援は大きく分けて、学習面、身体面(運動面)、社会面(対人関係など)の3つになると言っています。ほかにも保護者支援などもありますが、子どもたちへの直接的支援としては、これら3つです。宮口氏は自身の講演会で学校の先生方にこれら3つのなかで最終的に子どもに身につけてほしいためにために行う支援は何かを時々質問するそうです。そうするとほとんどの先生は「社会面」と答えます。そこで続けて「では、もっとも大切と思われる社会面の支援について、今の学校では系統的にどんなことをされていますか?」と質問すると、ほとんどの先生が「何もしていない」と答えます。中には「子ども同士の間でトラブルになったとき、その都度指導している」と答える先生もいます。

 

しかし、ここで考えてみると小学校なら、国語、算数、理科、社会といった学科教育でびっしりと時間割が埋められ、週にわずか1週間、道徳の時間があるだけです。では、道徳の時間で社会面の支援をしているか?というとこれも否です。また、「トラブルがあったとき、その都度指導している」だけでは、社会面の支援は偶然に必要性があって生じた程度にすぎません。つまり、今の学校教育には系統だった社会面への教育というものが全くないのです。

 

では、社会面の支援とはどういったものなのかというと、対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決能力といった、社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身につけさせることです。これらのどれ1つでもできていなければ、社会ではうまく生活していけないのです。そういった最も大切な社会面の支援が、学校教育で系統立ててほとんど何もされていないということが、どうも理解できないと宮口氏は言います。そのため、学校教育で何もなされていないので、少年院に入ってきた少年には、1から社会面について支援していかないといけないのです。

 

これらの社会面は、集団生活をとおして自然に身につけられる子どもも多いですが、発達障害や知的障害を持った子どもが自然に身につけるのはなかなか難しく、やはり学校で系統的に学ぶしか方法がないというのです。それが学べないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化していくリスクも高まるのだと言います。

 

学校教育においてはこういった社会面への支援が少ないというのは私も同感です。どうしても、画一的に先生から子どもへの投げかけが多いのです。これは乳幼児教育においても同様のことが言えるでしょう。非行少年たちに限らず、最近の若者たちはコミュニケーション能力や問題解決能力に問題を抱えているひとが多いというのは度々注目されています。それはこういった大人から子どもへの関わりばかりが重要視される教育のあり方に問題があるように思います。子どもたちが自分で考え、自分で選択することの重要性は保育をしていく中でとても考えさせられます。また、発達における幅を持たせることも重要であるのではないかと思います。どうしても4月で区切られた年齢別での教育では4月と3月生まれでは1年のハンデを持ったまま、教育を受けることになります。しかも、先生からの一方的な教育においてであり、それではついていけないこどもや分からないまま進んでいってしまう子どもが出てくるのも容易に想像がつきます。ある一定の幅のある発達によって子どもたちを見ていく必要があるのではないかと私は思います。自分の発達にあった子ども集団の中で、生まれてくる関わりが社会面を培うことにつながるのではないかと私は思うのです。