社会の変化

ニュー・ノーマル④

教育におけるニューノーマルの6つ目は「学習評価を学習の改善に活用する」です。これまでにもあったように、非線形の発達モデルであったり、学習到達度だけではなく、プロセスまでも評価に入ってくるのであれば、これまでの評価というものが大きく変わらざるを得なくなっています。ニュー・ノーマルでの教育においては、評価はより多様な観点から行われるようになるといわれています。

 

たとえば、「学習の評価」「学習のための評価」「学習としての評価」として捉えるような考え方があるといわれています。「学習の評価」は生徒の学習状況について評価するものです。「学習のための評価」は学習改善につなげるための評価で、形成的評価につながる考え方です。「学習としての評価」は自分の学習状況についてメタ認知(思考を思考する)して次の学習につなげるものであり、自己評価することが学習につながるということです。「評価」の在り方がこれまでのように「単なる評価」ではなく「次につなげ、学習の改善をどうしていくか」ということもポイントになってくるのです。こう考えると実に実践に即した評価に変わってくるのかということが見えてきます。

 

7つ目は「システム改善の視点から建設的・双方向的なアプローチを行う」ということです。これまでの教育では、学校は一定の目標(例えば標準化されたテストにおける一定レベルの成績の達成)のために、保護者や生徒に対する説明責任を果たしていたり、法令や各種のルールを守っているかというコンプライアンスの対応に追われがちでしたが、ニュー・ノーマルの教育では、結果を追うよりも、システム全体をどのように改善し、フィードバックを重視し、より建設的・双方向的なアプローチをするかということが重視されます。

 

つまり、結果よりも改善であったり、自己評価ということが重視されるといった建設的なアプローチが重要視されてくるということです。これらのことを考えてみても、これからのニュー・ノーマルな教育においては、生徒に何を学ばせ、どう学んだかではなく、生徒がどう学ぶかという結果ではなく課程の部分に目が向き、より生徒主体に教育が変わってくるということが見えてきます。

 

それが最後の「生徒の能動的な学習への参画を重視する」ということです。従来の教育では「教師は生徒に指示し、生徒は教師の指示を受ける」という関係が強く、生徒は受け身の存在になりがちであったところから、生徒がエージェンシーを発揮し、教育に積極的に参加し、教師と協働する存在として期待されることになると考えられています。教師の一方的な指導であったり、自分本位な授業の展開ではなく、生徒の意見に耳を傾け、改善をしていくことの方が、教師の指導力向上にもつながるのではないかというのです。そして、こういった教師と生徒が協働することで、学校や授業がより良いものに変化していくことを期待されているのです。

 

こういった流れがニュー・ノーマルな教育の中に含まれていくのです。先ほども書きましたが、これからの教育は教師や学校だけが主体になって生徒に教育を「施していく」というのは出なく、生徒自らが主体となって教育を「進んで学ぶ」ようになっていく環境に変わっていくといえます。こういった教育環境になっていく中で、保育においても、この流れは無視できないものになってきます。それは保育においても、こういった学校教育における土台となる力を作っていかなければいけません。それは先取りといった意味ではなく、しっかりと土台を作っていく必要があるのです。

ニューノーマル➂

次に教育のニューノーマルとしてあげられるのは「プロセスを重視して学習の評価・改善を行う」です。これまでの教育では教育の中心は学習達成度であり、生徒の成績を通して、教育システムの評価や改善を行っていました。ニューノーマルの教育では、学習のプロセスについても、固有の価値を持つものとして認識されます。つまり、成績だけではなく、過程においても評価や改善が求められるのです。

 

このことは日本の教育システムにおいて非常に大きな問題かもしれませんね。問題は評価がどのようにされるのか、「プロセス」といってもどういったように考えていけばいいのかということです。これは今の日本においては考え方を大きく変えていかなければいけないところであると思います。何をもって「評価」が変わっていくのならば、『入試』や『試験』といったものも変わってくるのかもしれません。よく日本は受験においても「入りにくく、出やすい」と揶揄されることがあります。逆に海外は「入りやすく、出にくい」といわれます。学校で何を成したかということが今後求められてくるのではないかと私は感じているのですが、果たしてどうなってくるのでしょうか。

 

次は「非線形の発達モデルを想定する」です。まず初めに「非線形」ではなく「線形の発達モデルとはなにか」ということですが、これはいわゆる今行われている年齢に着目し標準化された内容のものを指しています。年齢によって、自動的に、ベルトコンベア式に進んでいくということがデフォルトである発達モデルです。これに対し「非線形の発達モデル」は「生徒一人一人にそれぞれの学習経路があり、学校に入る段階や家庭環境による違いによって、既に知識やスキル、態度などが異なっていることは当然であり、こういった違いを前提にする」ということです。つまり、それぞれの特性であったり、それぞれのスキルやパーソナリティを前提としたものがニューノーマルな教育では求められるというのです。

 

これは教育であると少し考えづらいですが、保育現場で考えると分かりやすくなるかもしれません。年長・年中・年少と年齢によって行う活動を設定すると、月齢によってはできる子・できない子が出てきます。このできる・できないというのは発達的なものもあれば、得意・不得意というものもあります。日本は年齢別で行うので、そういった子どもたちにも手伝ったり、励ましたり、何とかして活動を遂げることが出来るように保育士は指導します。しかし、苦手な子どもたちからするとそれは負担でしかなかったりします。結果的に子どもたちにとっては「できない」という意識しか残らなかったり、場合によっては劣等感や苦手意識を持つと余計に活動において消極的になってしまうかもしれません。決してこれは活動を否定することではなく、その子ども「それぞれに合った活動を用意する」ということが目的としてあるということでう。日本の場合、教育は平等であるといいますが、その「平等」というのは「公平」ではないのです。だからこそ、学校教育においても、ドロップアウトしてしまう子どもが出てしまいます。こういったことがニューノーマルな教育では起きづらくなるでしょう。

ニュー・ノーマル②

これからの教育における「ニュー・ノーマル」と伝統的な教育の違いの次にあげられているのは「開かれた意思決定を行う」です。これまで、教育政策における意思決定や学校での判断は、たとえば政治家や行政官、教育学者、あるいは校長や各授業を担当する教師といったような限られた人によって行われる傾向がありました。それはたとえば、カリキュラムの大枠は国が決めて、具体的なカリキュラムの内容は学校が決めるといったことがあげられます。しかし、こういった場合、個別の意思決定の妥当性に関しては、決定を行った国や学校の責任ばかりがクローズアップされます。つまり、生徒がついていけなかった場合は国や学校のせい考えられます。そうなると、結果的に意思決定に対する責任を追及しても、それが次の改善につながらないことも多く、生産性とは言えません。そのため、これからのニュー・ノーマルの教育では、限られたひとだけが意思決定するのではなく、雇用者や保護者、生徒や地域の人々など多様な関係者が意思決定に関わることで、責任を共有していくことが重要になるのです。多様な目線を通して、よりその子に応じた教育の設定ができるように考えていくということはとても理解度やその子どもにあった環境作りにおいても大切であると考えられるのですね。

 

以前、ドイツの教育形態を見に行ったときに、小学生の進級に対して、その決定は低学年であれば保護者が決め、生徒にも進級や留年が決めることが出来ることが紹介されていました。日本の場合は進級は基本的に年齢と学年によって自動的に行われます。理解度や発達理解によって行われるのではないので、その分野が分からない生徒は分からないまま進級することになるのです。結果的に生徒によっては授業に苦手意識が生まれたり、勉強についてこれないことで学校に行くことに対して嫌気がさしてくるのです。以前紹介した「ケーキの切れない非行少年」でも同じようなことが書かれていました。ここで言われる「ニュー・ノーマル」な教育現場では様々な人が意思決定を行うことで多角的に子どものこと見守り、それぞれの子どもたちに適した環境作りをしていくことを目的としているのですね。

 

三つ目は「1人1人の教育に(生徒自身も含めて)皆が責任を持つ」ということでした。従来の教育では、学校に関わる管理職、教師、生徒などのそれぞれの役割が明確であった。これは例えば、校長などの管理職は全体の管理を行い、教師はそれぞれの担当する教科を教え、生徒は授業を受けるといった形でした。これに対し「ニュー・ノーマル」では、生徒の学習について、管理職や担当する教師、保護者も含め、みんなが共同して取り組み、その責任についても共有していくことが考えられています。また、従来の役割分担の中では、学校や教師の責任が問われることが多いが、学習における生徒の責任という観点は希薄であった。そのためニュー・ノーマルな教育においては、生徒自身も自ら教育に責任を負うことになります。

 

これは前述の意思決定と共通することであると思います。日本の教育の場合、教育を得るという事に対して、受動的に受けていることが多いように思います。よく自分自身も「なぜ勉強しなければいけないのか」と思うことがありました。これは教師や保育士側にも言えることで、「なぜ、それをしなければいけないのか」という教育を子どもたちに行う原理原則よりも「何をするか」ということばかりに目が行きがちです。そのため、本質よりも、マニュアルや型に走ってしまうことがあるように思います。受ける側においても、提供する側においても、「社会的責任」であったり、自分自身が受ける責任においても今一度考えなければいけないように思います。そのためには教育や保育現場においてももっと社会に興味を持ち、それが今の仕事につながっているという実感を持つ必要があるのであろうと思います。

ニューノーマル

これからの社会では、前回までに紹介したような、様々な変化が起きるようになります。そのような世の中で「ニューノーマル」ということが様々な領域で使われています。これは教育分野においてもどうようで、これまで「ノーマル」とは考えられなかったものが急速な社会変化に伴って「ニュー・ノーマル」となったことが想定されています。そして、この教育分野における「ニュー・ノーマル」では伝統的な教育と比較すると8つの異なる違いが見られるそうです。

 

8つの違いの内、一つ目は「教育の制度をエコシステム(生態系)の視点からとらえる」ということです。このエコシステムとして捉えるということですが、これまで教育は教育制度を単体として考えられがちでありました。しかし、教育は社会にも通じたものであり、経済のあり方や技術革新の進展、グローバル化などにも関連しています。つまり、教育をそれ単体での要素として切り離すのではなく、教育自体もエコシステムにおける一つの要素と位置付けることで、より広い視点からとらえるということが必要になってくると考えられるのです。ここで例に挙げられているのは家庭のあり方、国民の意識、経済や財政の状況、都市化や過疎化の進行など、様々な要因をふまえた上で、教育制度について考える必要があるといっています

 

このことは教育や保育を行う上で、意識しなければいけないことかなと思います。私もあまりこういった社会と保育をつなげて考えるということを考えたこともなかったですが、これからの社会を作っていく人材を育成するというのは教育基本法にも書かれている通り、大きな目的ともなっています。また、成績や学歴というものが未だに重視されているということは社会での必要とされる力が未だに成績や学歴であると意識されているからではないかと思います。実際、就職に重視されるのは筆記や学歴ではなく、面接であったりすると聞きます。いくら学歴が高くとも、人との関わりやコミュニケーションが取れないと、新しい価値を見出すことやイノベーションを起こしていくことにはつながりません。そのため、学歴や成績では測れない部分が多分に出てくるのだろうと思います。そして、その部分こそがこれまでにもあったような「非認知スキル」といった数値によって測ることが出来ない力であると思います。こういった能力を教育や保育の中で考えていくためには、それが一体どのような力で社会に通じた力であるのかという事を意識されていなければいけません。こういった意味において、教育に携わるものはもともとある目的というものをしっかりと見据える必要があるのだろうと思います。

個人レベルでの変化

最後の3つ目の変化が「個人レベルでの変化」です。これは家族の形態の変化、肥満や自殺の増加、社会への参加のあり方の変化が挙げられています。

 

一つ目の「家族の形態の変化」ですが、これは社会全体における「高齢化」が挙げられています。社会における高齢化は1950年~2010年にかけて急速に進行しているようです。そのため、経済や社会福祉を今後どのように維持していくかということが問題に挙げられています。また、それ以外に、女性の社会進出と結婚率の低下もあげられており、OECD加盟国のほとんどの国において、女性労働者の割合が上昇しています。しかし、この現状が女性労働者において、必ずしも平等な機会が与えられていることを意味しているわけではないようです。実際の問題として、家庭と仕事の両立にはいろいろと困難がありますし、管理職や起業家などについてみると女性の割合は今なお低く、賃金についても未だ男女間での格差は見られています。IMF(国際通貨基金)によると、労働市場において男女間の格差が生じていることによって、地域によって最大で一人当たりGDPの27%分もの損失につながっているそうです。

 

また、女性の社会参画はそれに伴って出産年齢が上昇することがあり、保育サービスの必要性も高まってくるといった社会的な変化が生じてきます。そのため、今後はより多様な家庭のあり方や労働市場に対する新たなルール、福祉制度を模索する必要がでてきます。その一方で、結婚する夫婦の割合の減少、離婚率が増大したり、あるいは制度上の結婚という形にとらわれず従来とはことなる形の家族で育てられた子どもも増えてくることが見込まれます。

 

次に「肥満や自殺の増加」です。子どものときの肥満は大人になっても続く傾向にあり、心血管系の疾患や糖尿病、癌、変形関節症などの病気のリスク要因でもあり、生活の質(QOL)を下げ、若年での死亡につながったりもするそうです。世界保健機構(WHO)によると2020年に世界全体での肥満は1975年から3倍になっています。また、「自殺」も大きな社会問題です。世界中では年間約80万人もの自殺者が出ていると推計されており、その原因はうつ病や双極性障害(躁うつ病)、統合失調症などの精神疾患や所得の低さや失業、アルコールや薬物、社会的孤立なども原因になっています。

 

最後に政治への市民参画の低下です。社会の変化の中にもあったように政治への信頼に低下が見られているが、議会選挙に際して投票率という形で政治への市民参画の指標としてみていると、OECD加盟国において、投票率が顕著に低下していることが見られたのです。投票は市民が社会をかえるための重要な行動であると考えると、そこ機会を活用せずに放棄している層が多いことが見えてきます。

 

これらのことが世界的に見たメガ・トレンドであり、社会経済的に変化が起きているといえるのです。そのため、2030年において、必要となるキー・コンピテンシーはこれらのことをふまえて、未来の予測を通して、将来起こりうる状況を可能な限り想定し、様々な問題を防ぐために必要なコンピテンシーを備えていけるようにしなければいけないというのです。