ニューノーマル➂

次に教育のニューノーマルとしてあげられるのは「プロセスを重視して学習の評価・改善を行う」です。これまでの教育では教育の中心は学習達成度であり、生徒の成績を通して、教育システムの評価や改善を行っていました。ニューノーマルの教育では、学習のプロセスについても、固有の価値を持つものとして認識されます。つまり、成績だけではなく、過程においても評価や改善が求められるのです。

 

このことは日本の教育システムにおいて非常に大きな問題かもしれませんね。問題は評価がどのようにされるのか、「プロセス」といってもどういったように考えていけばいいのかということです。これは今の日本においては考え方を大きく変えていかなければいけないところであると思います。何をもって「評価」が変わっていくのならば、『入試』や『試験』といったものも変わってくるのかもしれません。よく日本は受験においても「入りにくく、出やすい」と揶揄されることがあります。逆に海外は「入りやすく、出にくい」といわれます。学校で何を成したかということが今後求められてくるのではないかと私は感じているのですが、果たしてどうなってくるのでしょうか。

 

次は「非線形の発達モデルを想定する」です。まず初めに「非線形」ではなく「線形の発達モデルとはなにか」ということですが、これはいわゆる今行われている年齢に着目し標準化された内容のものを指しています。年齢によって、自動的に、ベルトコンベア式に進んでいくということがデフォルトである発達モデルです。これに対し「非線形の発達モデル」は「生徒一人一人にそれぞれの学習経路があり、学校に入る段階や家庭環境による違いによって、既に知識やスキル、態度などが異なっていることは当然であり、こういった違いを前提にする」ということです。つまり、それぞれの特性であったり、それぞれのスキルやパーソナリティを前提としたものがニューノーマルな教育では求められるというのです。

 

これは教育であると少し考えづらいですが、保育現場で考えると分かりやすくなるかもしれません。年長・年中・年少と年齢によって行う活動を設定すると、月齢によってはできる子・できない子が出てきます。このできる・できないというのは発達的なものもあれば、得意・不得意というものもあります。日本は年齢別で行うので、そういった子どもたちにも手伝ったり、励ましたり、何とかして活動を遂げることが出来るように保育士は指導します。しかし、苦手な子どもたちからするとそれは負担でしかなかったりします。結果的に子どもたちにとっては「できない」という意識しか残らなかったり、場合によっては劣等感や苦手意識を持つと余計に活動において消極的になってしまうかもしれません。決してこれは活動を否定することではなく、その子ども「それぞれに合った活動を用意する」ということが目的としてあるということでう。日本の場合、教育は平等であるといいますが、その「平等」というのは「公平」ではないのです。だからこそ、学校教育においても、ドロップアウトしてしまう子どもが出てしまいます。こういったことがニューノーマルな教育では起きづらくなるでしょう。