薩摩藩の教育変革

藩校の代表としてよくあげられるのが「薩摩隼人」です。薩摩藩の武士教育をもとに、文武両道の観念がどのような課題を担った展開したのかが注目されます。そもそも、薩摩藩の置かれる地域は古代から遣唐使派遣の発着寄港地であり、中世には中国・琉球との交通の要所となっており、中国に笑う僧侶や貿易上の交渉および、通訳に従事する学問僧が往来する場でありました。桂庵玄樹(1427~1508)を祖とする薩南学派という儒学の学派が形成されたのもこういった地理的な要因が関係しています。薩南学派の知識僧は島津一門に招聘され、交易や外交上の事務を担当する役割を担っていました。そして、それと同時に島津氏の教養形成にも貢献しています。

 

島津藩は総人口に占める武士の割合が非常に高く、多くの武士は外城に分散され、兵農未分離のままであった。そのため、近世封建官僚としての武士に必要な資質よりも、戦闘技術や尚武精神を重んじる中世的な気風が独自の士風として温存されたのです。その後、近世になり、外城の責任者に中央の上下肢の役人を派遣し、諸役人のところが得を行うといった近世的な家臣団が形成されていくことが進められたが、なかなかこういった気風は改まることはなかったようです。そのため、これを表すかのように、この時期、寛文から延宝年間にかけて、「不作法」を取り締まる布達(ふたつ)がしばしば出されます。この「不作法」は先頭集団としての武士の属性でもあったのですが、秩序の時代に変わっていくにあたって、こういった属性は家臣団を統制するなかで大きな障害となったのです。

 

その後、二つの内容はたんなる禁止事項ではなく、積極的に学問を奨励するものへと変化していきます。そして、元禄9年の大火、寛永寺の造営といった幕府からの普請による財政逼迫によって、藩は危機的状況に追い込まれます。そこで、薩摩藩は藩の綱紀刷新の一環として、幕府の法令や儒教関係の書物から武士が遵守すべき内容を取り出し、毎月一日に家臣団の単位組織である「組」ごとに、配下の武士を招集して読み聞かせる「毎朔条書」という教科政策を行います。また、青少年の自治的な集団で、本来は武士的な気風を護持する機能を持った「咄相中」(はなしあいちゅう)にもそうした影響がでました。これは享保期に「郷中」とよばれ、教育組織としての性格を強めました。

 

元禄期に入ると、江戸で学問を習った藩氏が帰藩し、「組」を単位とした「組解釈」をおこない、薩摩藩の藩校である造士館は、元禄期以降の江戸の都市文化の素養を習得した25代藩主島津重豪と江戸で室鳩巣(むろそうきゅう)の学問を受けついだ藩士によって創設されました。

 

時代の移り変わりとともに、各藩でも中央官僚になるための変革が行われ、それと同時に、学問や教育がより進められてきたのです。そして、こういった流れは全国でおこり、九州の薩摩でも同じことが起きていたのです。私も一度、「郷中教育」の展示がされているものを実際見に行ったことがあります。「薩摩スチューデント」と言われる若者たちが海外にわたり、蒸気機関の機構を勉強したり、語学の吸収力において、海外の人たちは非常に驚いたということが言われています。そして、何よりその「郷中教育」の方法は「異年齢」であり、年長者が年少者に教えるというものでした。これは今の見守る保育にも通じるところです。