学ぶ意味

武士の社会において、学問はどのような位置づけであったのでしょうか。近世初期においても藩主や上級武士を除いて、武士が学問をすることはそれほど一般的な現象ではなかったそうです。かならずしも、学問が武士に必須の条件とは言えませんでした。むしろ、薩摩藩では武士が「寺入り」を命じられることは、罪を犯した青年若しくは成人の謹慎または教誨(きょうかい:おしえさとす)を意味していました。他にも、青年武士が乱暴狼藉を働いたことに対して、遠島処分を申し付けているが、その際にも四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)を与えて、一定の自己教育による反省の期間をおいて、再度呼び戻し、家老立合のもと四書を読ませています。学問はこの頃からすると、教育を日常的にうけるものというよりは、罰に近い意味合いを持っていました。

 

徳川幕府の統治体制により、戦争の可能性が少なくなってくる世の中において、武士の職分は戦闘者から官僚といった意味合いが強くなります。そのため、領国経営に必要な官僚としての資質と能力が必要とされるようになりました。そのため、儒教や中国宋代に官僚を目指す士大夫階層(支配者層)に必要な教養として生まれた朱子学は、こうした日本の封建官僚のあいだでも教養ベースとして学ばれるようになりました。

 

藩校にはそこに仕える藩士のためを目的としたものであったものでありましたが、岡山藩のように庶民の通学を許した藩もあったようです。特に幕末に近づくにつれて、武士・庶民の共学を認める藩が増えてきました。これは、藩の政策を行うために、藩士だけではなく、地方役人として藩政の末端機能を担う上級農民や上層町民からも有用な人材を育成する必要があることや、一揆や逃散などに対する秩序意識を再編しようとする意味合いもありました。ただ、こういったことは全国の藩が全体で行っているということではなく、中期以降でも、武士・庶民の共学を分離して、藩士に教育を強制する藩校もあったのを見ると、各藩において、その取り組みは様々であったといえるでしょう。

 

このように見ていくと、中央集権で全国的に統一された教育政策ではなかったため、各藩における教育は様々であったようですね。領地を治めることにおける教育はそこの地域にかかっているわけで、それぞれの地域に根差した教育が考えられてきたのでしょう。また、そもそも学問を知るということが罰の一種であったということです。今でいう「補習」のような意味合いもここにはあるというのは、今の時代においても、近世の時代においても共通するところなのだろうと感じます。

 

教養を得ることは官僚意識を持ち、統治することに役に立つということも言えるのでしょう。そういった意味では、それぞれに学ぶ目的というものが今以上に意識されてきた時代であることが見えてきます。