藩校の始まり

庶民の中で広がってきた寺子屋文化においても、武家の中で行われてきた教育においても、そのどちらも寺院教育から始まりました。しかし、武家の教育においては寺院教育からの朱子学から孔子など中国の儒者たちを祖とする儒教が始まり、今度は孔子などの儒者から日本の菅原道真などを中心とした学神へと学びの体型も時代により、大きく変わっていきます。そして、その目的は平安時代から戦国時代においては、自身の領地を守るために、それぞれの大名の国での独自での教育がありました。その後、天下統一が果たされ、今度は中央集権の政治統制が取られるようになり、徐々に教育がまとまってきます。これが儒教などの学校につながっていったのです。そして、中央で学んだことを各藩に戻って教授として教育を施すことが出てきました。

 

「藩」というのは、徳川幕府では全国を276の藩にわけ、徳川家の親戚筋にあたる新藩、関ヶ原の戦い以前からの徳川家の家臣である譜代、そして、関ヶ原以後徳川家に恭順の意を示した外様の三種類からなる大名を各地に巧妙に配置し、武家諸法度や参勤交代制度などで厳しく、その動静を監視しながら相対的な判断をしていたと沖田氏は言っています。

 

しかし、こういった各藩における統制は厳しいものであったが、教育に関しては各藩の自由な裁量にゆだねられていたようです。そのため、この頃においても、今の時代のように中央で決まった教育施策が全国に降りていったというよりも、各藩の教育政策は藩主や藩の首脳部の興味や関心によって大きく左右されたのです。その後、藩政改革とそれを遂行する人材確保のために人材教育の必要性が高まってくるにしたがい、学校の開設が不可避となりました。藩校は276ある藩の中で、255の藩が藩校を設置し、そのうち、187藩が宝暦期から慶応期のいわゆる藩政改革が行われた時期に藩校を開設しています。

 

この藩校の登場から教育の考え方が、これまでの伝統や文化といったものを伝える意味合いのものから政治に関わるもの、政治的課題として認識されるものへと進化していくことになります。

 

これまでの経緯を言うと、もちろん、自身の領地を守るといった意味での政治的な意味合いはありました。しかし、そのことにおいても、内容は実務的な内容を含んだものというよりは、リーダーシップやマネジメントといった人格形成に多くの意味があったように思います。どちらかというと自己啓蒙ですね。そこから、今の知事のようにその地域の施政を司るという意味では実務的なものも含まれたものとなり、より複雑であり、より実践的な意味合いへと変化してきたのだろうということが分かります。

 

時代の変容と共に、教育のありかたが変わっていくのは常ですが、こういったことから、時代は大きな変革を起こしていくのです。