神聖さ

釈奠(せきてん)行事は学問や教育に「神聖」な意味をあたえ、学校を主宰する為政者の徳をさらに権威づける機能もはたすようになります。1872年に公布された学制では、取り立てて中心となる学校儀礼は規定されていませんでしたが、小学校では天神信仰や七夕など、近世庶民の寺子屋などで行われていた行事が素朴な形で引き継がれました。しかし、釈奠のような行事は定着することはありませんでした。

 

今のような教員と生徒の参加を矯正して学校行事として行われるようになったのは明治二四(1981)に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」によって明記されています。これは御真影(天皇の写真)が下賜(かし)され、教育勅語謄本が行われるのと同時期に行われた。これは学問や教育の営みそのものに内在する「神聖」なるものが、天皇と国家の権威によって外的規範として再規定されるようになったことを意味しています。

 

それから1945年を境に、戦前の教育を規定したこうした儀礼を否定することによって、教育の民主化を徹底しようと試みてきました。沖田氏はこのような流れの中で「私たちは学問や教育が本来的に有してきた『神聖』さも同時に消去してしまったのである。学問や教育を科学の領域で捉えなおし、『聖』から『俗』に転換した」とはなしており、「学問と教育の場である学校と、教師と子どもの『教え』と『学び』も日常的な『俗』の世界へと引きずりおろされた」といっています。それと同時に「学問や教育はある種の神聖さを回復させるべきである」とはなしています。

 

確かに、今の進学や就職を目的とされた教育というものに疑問は感じます。ただ、「神聖」化されたものが必要かということに関しては個人的には疑問を感じます。ただ、神聖であることで、教育というものが哲学的な意味合いを持つということには賛成です。今の時代、教育とは「なぜ必要なのか」という根本的な目的が議論されることが少ないように思います。それとは逆に「こういった教育がこどものIQを伸ばす」といったような「○○だから、××になる」といった「How To~」のようなものが注目され、成績や進学が目的になると、いつの間にか教育の「手段が目的化されている」ということに問題があると思うのです。本来教育とは「教育を受けることでどういった人生を送り、豊かにするか」が目的であるべきです。つまり、人格形成が目的であるのです。そういった意味では人の心を神秘的なものとしてとらえ、その育成こそが「神聖」であるというのであれば、そのとおりなのかもしれません。

 

明治維新時や為政者が国をよくするために家臣団や家来、民衆に至るまで教育を行き届かせようと考え、取り入れる中には活気があり、様々なイノベーティブな教育の変化が起きていたように思います。今の時代は良くも悪くも資本主義になり、個々の意見が出やすいがゆえに、まとまりに欠け、本来の意味であったり、見えない目的よりも、はっきりと分かる目に見える成果ばかりを追うことに終始しているのかもしれません。だからこそ、教育を司るものは本来の目的を見失うことがあってはいけないのだろうと思います。