目的の変化

藩校はそれぞれ全国の藩が藩政を行うにあたって、有能な人材を確保するための藩士教育を目的としたものでしたが、藩によっては武士と庶民との共学を認める藩もありました。それは有能な人材において、上級農民や上級町民といった人材も地方役人としてや藩政の末端機能を担っていたためで、それにおける人材育成や一揆や逃散などに対する秩序意識の再編といった意味合いもあったからというのが、前回の話でした。

 

では、次に藩校の入学年齢は何歳くらいだったのでしょうか。沖田氏はこのことについて、藩校も入学年齢は寺子屋と大差なく、七歳~八歳で入学するのが一般的であったといっています。しかし、このことも藩によって差はあり、御三家の水戸藩の弘道館は十五歳を以て入学年齢としていました。しかし、水戸藩の場合十五歳からだからといってそれまで教育を受けなくてもいいというわけではなく、十歳になると家塾に入学させ、読み書きなどの基礎的な学習を終了した後に藩校に入学させていました。

 

藩校では藩士教育というのが目的であったため、ほとんどの場合、就学を義務付ける強制就学という形態でした。また、丹波笹山藩などは、家督を相続するためには藩校に就学することが条件になっていたように、就学を課していたところも少なくはありませんでした。また、就学強制であるからといって、藩士全員が強制的に就学するわけではなかったようです。身分の上下、嫡子か次男以下であるかによっても強制度や就学期間は異なっていました。つまり、将来藩政を担う身分の高い武士の嫡子ほど就学が義務付けられ、就学期間も長期にわたります。藩校は本質的にはエリートを養成する教育機関であったのです。

 

また、藩校に通う期間も今の学校のような年数ではなく、例えば会津藩の日新館では長男は三十歳まで、次男は二十一歳までであったり、水戸藩の弘道館や萩藩の明倫館などは終了年限を四十歳までと定められており、武士教育が青少年の一定期間のみを対象とするのではなく、現役として藩政の一環を担っている限り教育を受ける対象とするという考えに基づいているのです。つまり、学問と政治の一体化されたものであったのです。

 

そのため、幕末の藩政改革において、藩校改革や学問刷新されたことは大きな問題となりました。それは藩校の動向が藩政の方向を決定づけるものであったからです。このように学校が藩や国家によって規定されるといった傾向によることで、そこで学ばれる学問までも規定されるという結果をもたらしていきます。これにより封建的な身分制社会の支配階級に属する武士には、教育は強制的な公務の一環として浸透していきました。そして、それが藩政の重要な位置を占めるようになり、能力主義による人材教育と結びついた結果、下級武士にとっては階級を駆け上がる手段となったのです。

 

初めの家塾であったりした時の頃と比べると、学校のあり方が大きく変わってきたのが分かります。始めは「人としての教え」であったり、「リーダシップ」であったりというものが教育の目的であったものから、藩政といった政治的な要素が色濃く学校の中に入り、藩の人材教育という側面がより強く出てきているのをかんじます。こういった藩の人材教育によってある一つの有名な藩校が生まれてくるのです。

学ぶ意味

武士の社会において、学問はどのような位置づけであったのでしょうか。近世初期においても藩主や上級武士を除いて、武士が学問をすることはそれほど一般的な現象ではなかったそうです。かならずしも、学問が武士に必須の条件とは言えませんでした。むしろ、薩摩藩では武士が「寺入り」を命じられることは、罪を犯した青年若しくは成人の謹慎または教誨(きょうかい:おしえさとす)を意味していました。他にも、青年武士が乱暴狼藉を働いたことに対して、遠島処分を申し付けているが、その際にも四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)を与えて、一定の自己教育による反省の期間をおいて、再度呼び戻し、家老立合のもと四書を読ませています。学問はこの頃からすると、教育を日常的にうけるものというよりは、罰に近い意味合いを持っていました。

 

徳川幕府の統治体制により、戦争の可能性が少なくなってくる世の中において、武士の職分は戦闘者から官僚といった意味合いが強くなります。そのため、領国経営に必要な官僚としての資質と能力が必要とされるようになりました。そのため、儒教や中国宋代に官僚を目指す士大夫階層(支配者層)に必要な教養として生まれた朱子学は、こうした日本の封建官僚のあいだでも教養ベースとして学ばれるようになりました。

 

藩校にはそこに仕える藩士のためを目的としたものであったものでありましたが、岡山藩のように庶民の通学を許した藩もあったようです。特に幕末に近づくにつれて、武士・庶民の共学を認める藩が増えてきました。これは、藩の政策を行うために、藩士だけではなく、地方役人として藩政の末端機能を担う上級農民や上層町民からも有用な人材を育成する必要があることや、一揆や逃散などに対する秩序意識を再編しようとする意味合いもありました。ただ、こういったことは全国の藩が全体で行っているということではなく、中期以降でも、武士・庶民の共学を分離して、藩士に教育を強制する藩校もあったのを見ると、各藩において、その取り組みは様々であったといえるでしょう。

 

このように見ていくと、中央集権で全国的に統一された教育政策ではなかったため、各藩における教育は様々であったようですね。領地を治めることにおける教育はそこの地域にかかっているわけで、それぞれの地域に根差した教育が考えられてきたのでしょう。また、そもそも学問を知るということが罰の一種であったということです。今でいう「補習」のような意味合いもここにはあるというのは、今の時代においても、近世の時代においても共通するところなのだろうと感じます。

 

教養を得ることは官僚意識を持ち、統治することに役に立つということも言えるのでしょう。そういった意味では、それぞれに学ぶ目的というものが今以上に意識されてきた時代であることが見えてきます。

藩校の始まり

庶民の中で広がってきた寺子屋文化においても、武家の中で行われてきた教育においても、そのどちらも寺院教育から始まりました。しかし、武家の教育においては寺院教育からの朱子学から孔子など中国の儒者たちを祖とする儒教が始まり、今度は孔子などの儒者から日本の菅原道真などを中心とした学神へと学びの体型も時代により、大きく変わっていきます。そして、その目的は平安時代から戦国時代においては、自身の領地を守るために、それぞれの大名の国での独自での教育がありました。その後、天下統一が果たされ、今度は中央集権の政治統制が取られるようになり、徐々に教育がまとまってきます。これが儒教などの学校につながっていったのです。そして、中央で学んだことを各藩に戻って教授として教育を施すことが出てきました。

 

「藩」というのは、徳川幕府では全国を276の藩にわけ、徳川家の親戚筋にあたる新藩、関ヶ原の戦い以前からの徳川家の家臣である譜代、そして、関ヶ原以後徳川家に恭順の意を示した外様の三種類からなる大名を各地に巧妙に配置し、武家諸法度や参勤交代制度などで厳しく、その動静を監視しながら相対的な判断をしていたと沖田氏は言っています。

 

しかし、こういった各藩における統制は厳しいものであったが、教育に関しては各藩の自由な裁量にゆだねられていたようです。そのため、この頃においても、今の時代のように中央で決まった教育施策が全国に降りていったというよりも、各藩の教育政策は藩主や藩の首脳部の興味や関心によって大きく左右されたのです。その後、藩政改革とそれを遂行する人材確保のために人材教育の必要性が高まってくるにしたがい、学校の開設が不可避となりました。藩校は276ある藩の中で、255の藩が藩校を設置し、そのうち、187藩が宝暦期から慶応期のいわゆる藩政改革が行われた時期に藩校を開設しています。

 

この藩校の登場から教育の考え方が、これまでの伝統や文化といったものを伝える意味合いのものから政治に関わるもの、政治的課題として認識されるものへと進化していくことになります。

 

これまでの経緯を言うと、もちろん、自身の領地を守るといった意味での政治的な意味合いはありました。しかし、そのことにおいても、内容は実務的な内容を含んだものというよりは、リーダーシップやマネジメントといった人格形成に多くの意味があったように思います。どちらかというと自己啓蒙ですね。そこから、今の知事のようにその地域の施政を司るという意味では実務的なものも含まれたものとなり、より複雑であり、より実践的な意味合いへと変化してきたのだろうということが分かります。

 

時代の変容と共に、教育のありかたが変わっていくのは常ですが、こういったことから、時代は大きな変革を起こしていくのです。

神聖さ

釈奠(せきてん)行事は学問や教育に「神聖」な意味をあたえ、学校を主宰する為政者の徳をさらに権威づける機能もはたすようになります。1872年に公布された学制では、取り立てて中心となる学校儀礼は規定されていませんでしたが、小学校では天神信仰や七夕など、近世庶民の寺子屋などで行われていた行事が素朴な形で引き継がれました。しかし、釈奠のような行事は定着することはありませんでした。

 

今のような教員と生徒の参加を矯正して学校行事として行われるようになったのは明治二四(1981)に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」によって明記されています。これは御真影(天皇の写真)が下賜(かし)され、教育勅語謄本が行われるのと同時期に行われた。これは学問や教育の営みそのものに内在する「神聖」なるものが、天皇と国家の権威によって外的規範として再規定されるようになったことを意味しています。

 

それから1945年を境に、戦前の教育を規定したこうした儀礼を否定することによって、教育の民主化を徹底しようと試みてきました。沖田氏はこのような流れの中で「私たちは学問や教育が本来的に有してきた『神聖』さも同時に消去してしまったのである。学問や教育を科学の領域で捉えなおし、『聖』から『俗』に転換した」とはなしており、「学問と教育の場である学校と、教師と子どもの『教え』と『学び』も日常的な『俗』の世界へと引きずりおろされた」といっています。それと同時に「学問や教育はある種の神聖さを回復させるべきである」とはなしています。

 

確かに、今の進学や就職を目的とされた教育というものに疑問は感じます。ただ、「神聖」化されたものが必要かということに関しては個人的には疑問を感じます。ただ、神聖であることで、教育というものが哲学的な意味合いを持つということには賛成です。今の時代、教育とは「なぜ必要なのか」という根本的な目的が議論されることが少ないように思います。それとは逆に「こういった教育がこどものIQを伸ばす」といったような「○○だから、××になる」といった「How To~」のようなものが注目され、成績や進学が目的になると、いつの間にか教育の「手段が目的化されている」ということに問題があると思うのです。本来教育とは「教育を受けることでどういった人生を送り、豊かにするか」が目的であるべきです。つまり、人格形成が目的であるのです。そういった意味では人の心を神秘的なものとしてとらえ、その育成こそが「神聖」であるというのであれば、そのとおりなのかもしれません。

 

明治維新時や為政者が国をよくするために家臣団や家来、民衆に至るまで教育を行き届かせようと考え、取り入れる中には活気があり、様々なイノベーティブな教育の変化が起きていたように思います。今の時代は良くも悪くも資本主義になり、個々の意見が出やすいがゆえに、まとまりに欠け、本来の意味であったり、見えない目的よりも、はっきりと分かる目に見える成果ばかりを追うことに終始しているのかもしれません。だからこそ、教育を司るものは本来の目的を見失うことがあってはいけないのだろうと思います。

孔子と日本の学神

前回においても、中央での教育政策が直接全国に強制力を持つことはなかったとあったように、将軍が絶対的な権力を持っていた江戸時代ではあったのですが、教育や学問に対しての統制は案外緩やかであったようです。基本的に学問や教育を政治や経済の支配下に置こうとする発想がそもそも希薄であったと沖田氏は言っています。

 

なぜ、そういった文化であったのか、それには日本における学問や教育で重視されたものが経済や政治ではなく、人間の道徳的陶冶を重視したことにあるのです。そして、その考えは「俗」を超越した「聖」なる領域に属するものという考えによっています。なによりも人の道徳的観念を大切にすることこそが、日本の文化においては重要視されるものであったのですね。こういった根底にある文化が今においても「おもてなし」であったり、「思いやり」ということに代表される文化として起きているのかもしません。また、この頃の藩校の普及において行われた「釈奠」(せきてん)の行事や寺院に類似する学校建築の様式は、学問・教育の場を非日常的な神聖な空間とみる考え方に基づいているといいます。

 

釈奠は1年に二回春と秋に行われ、孔子をはじめ儒教の先哲を祭る行事であります。日本では701年に制定された「大宝令」の「学令」に規定があり、大学寮で行われていた。元々は大学寮の衰退とともに一部の公家の私的な行事となっていたが、近年になると湯島の聖堂における将軍臨席のもと釈奠行事の挙行されたことに触発され、一般の藩校にも広がったのです。しかし、この釈奠に関しては日本においてはもともとの中国の儒教の祭礼とは大きく異なったものとなり、日本独特のものになります

 

その後、幕末になると、儒教のほか国学などといった日本歴史への関心が高まり、釈奠に関して疑義が申し立てられるようになりました。幕末の尊王攘夷運動に理論的根拠を与え、後期水戸学の指導者のひとりである藤田東湖(とうこ)は『孔子は聖人にて人の標準とする所となれば、誠にさる事なり。されども神国にて孔子のみを祭らんには、神皇(神と天皇)の道を捨て漢土に従うに均し(ならし)。神は期道(しどう:その分野や方面)の本にて孔子の教えは斯道を助け弘むる(ひろむる)為なれば、先に神を祭りて未知の本を崇め(あがめ)、次の孔子を敬ひて此道のいやまし盛になりぬる由を示すべし』(常陸帯)というように、「孔子だけではないのではないか」と孔子ではなく、学神を祭るようになった経緯について述べていた。

 

他にも山口藩の明倫館では、幕末には釈奠を改め、孔子堂を学校祠堂(しどう)と改称して菅原道真を併せて祭った。このように菅原道真やそのほかの日本の神々を学神としてまつることは稀なことでしたが、明治維新後になると、国学者と漢学者の間で教育理念をめぐって、いわゆる国漢論争が起きました。この論争の一つとして国学者から中国の孔子に変えて日本の神を学神を祭るべきではないかといった主張がありました。その後、文明開化と王政復古といった時代の流れの中で、次第に釈奠行事は次第に影が薄くなって、日本の学神を祭る学校が増えたのです。