学び方

勉強の本質とはどういったところにあるのでしょうか。以前、自園の先生と「学ぶこと」と「真似ること」の違いを話する機会がありました。「真似ること」はただ、「そのことをそのまま行動する」ことで、「学ぶ」ことは「真似ることから、その深い部分を知り、次に生かす(活用する)」ことではないかと話をしました。これはあくまでも私個人の見解なので、語弊もあるでしょうし、言い回しもわかりづらいかもしれません。例えば、台形の面積の公式を小学校で習います。「(上底)+(下底)×高さ÷2」、実際この公式をただ覚えている人もいるでしょう。しかし、よくよく考えてみると単純に四角形の面積を出して、半分にするということが想像できていれば、公式を覚えなくてもいいのです。これが「概念を知る」ということだと思います。これに近いことがPISAでもありました。

 

PISAでは2008年の金融危機後、政治家は学校での金融教育を強化するため、このスキルをPISAに盛り込むことにしました。しかし、2014年の結果では、生徒の金融リテラシーと生徒がどれくらい金融教育を学んでいるかという間に関係はなかったのです。当時PISAの金融リテラシーでトップだったのは上海でしたが、上海は金融教育を多くは行っていませんでした。しかし、上海の学校では、数学教育で深い概念的理解と複雑な推論を育てていたことで成功したといえるのです。上海の生徒はまるで数学者のようにかんがえ、確率、変化、リスクのような概念の意味を理解しており、これらの知識をなじみのなかった金融の文脈になんなく転化させ、活用したのです。結果、その分野の一流の専門家だけでなく、生徒の学び方を理解している人、知識やスキルの需要と現実社会での活用法を理解している人々がいることが必要なのです。ただ、教科書を進めることが教育ではないのです。学問分野だけではなく、生徒の学びと発達について知見を培ってきた学習科学を拠り所にして構築されることも非常に重要なのです。

 

こういった視点は今の時代はそれほど重視されていないように思います。どちらかというと「今習っていることは将来役に立つから」くらいで抽象的に進められることがあります。具体的に、何がどのように使われるのか、目的だったものがないのも日本の勉強嫌いなことにつながっているのかもしれません。人間は「学ぶこと」や「工夫すること」で生き残ってきました。特に日本人は「工夫」というところにおいては文化的に秀でていますし、これほどまでクイズ番組が放映されている国もないような気がします。それほど日本人は学ぶということが好きな民族であるように思います。しかし、なぜ「勉強嫌い」が多いのでしょうか。そこには目的意識や夢とかもあるのかもしれません。そここそ、保育が関わる教育であるように思います。

 

それぞれの発達段階で、それぞれの保育や教育形態が必要。しかし、その中心には子どもたちが「自分で生きている」という実感がなければいけないのかもしれません。そのために大人は「見守る」ということが大切ですね。