日本の教育改革

アンドレアス氏は「生徒の学習時間は限られているにも関わらず、私たちがもはや適切ではないかもしれない教育内容をあきらめきれないために、若者は過去に囚われの身となり、学校はこの正解で成功するために必要な価値ある知識やスキルや人間性を育てる機会を失っている」といっています。なんとも耳痛い話です。そして、このことは過去に起きた『ゆとり教育』に通じることです。

 

アンドレアス氏の話では「1990年代の終わり、日本はより深く、学際的な学びの時間を作り出すために学習指導要領の内容のほぼ3分の1をへらし、この状況に対応しました。教員はこの『ゆとり教育』という目標に賛成していたが、彼らがこの目標を教室で実践するための十分な支援を政府や地方の教育行政から受けることはなかった」といっています。そして、実際の中学校の教員においても、「過去に効果的であると証明され、日本のテスト制度によって評価されてきた実践から逸脱することに消極的だった」といっています。結果、「2003年のPISAで数学的リテラシーの低下が明らかになったとき、保護者は、新しい学習指導要領が子どもたちの前途に横たわる問題を解決するために用意されたものだと信じられなくなった。そして、この教育の不足だと感じたものを埋めるため、これまで以上に塾に関心を持つようになった」と話しています。

 

このことは当時、私は教育実習生として中学校に行っていたので、直接感じることがありました。「ゆとり教育」や「総合的学習の時間」について、現場の先生があまり理想を感じていなかったというのは事実であり、その本来の意図と実際に現場で求められる意図とが大きく違っているというのを感じました。どうしても、保護者も現場にいる教員も将来、突きつけられる「受験」というものに目が向けられます。アンドレアス氏は「日本のテスト制度によって評価されてきた実践」と話していますが、どうしても、自分たちが受けてきた教育からも変わることに消極的な雰囲気があったように思います。そういった意味では行政や政府の支援や理解が不十分であったというのは確かに理由の一つになるでしょう。

 

これは保育においても、同様なことが言えます。保育を変革するにあたっては、やはり保護者からの不安の声や不信感が起きました。どうしても、保守的な考え方になるのはしょうがないところです。だからこそ、保育や教育の本質とはなにでどういったところをしっかりと育んでいかなければいけないのかを考えなければいけないのです。そして、その課題は学校での問題だけでなく、社会にあり、教育と社会が密接に関係しているということをもっと意識しなければいけないのだろうと感じます。

 

当時の日本はそこら辺をしっかりと捉えていたのです。実際、アンドレアス氏は「日本はほかのどの国よりも早く改善に取り組んでいた」と言っています。そして、「PISAの問題解決能力とは『ゆとり教育』が強化しようとした創造的で批判的な思考スキルを引き出すものだった。しかし、改革は揺り戻しの方向に進み、この数年で学習指導要領の内容量が再び重視されるようになった」といっています。これはとても残念なことです。しかし、またここでアクティブラーニングと名前を変えて、教育形態が見直されようとしています。そういった意味ではまだまだ改革は続いています。