自省

今日、自園の関係者評価というものが行われた。これは年度の終わりに幼稚園からお願いした関係者評価者の方に自園の自己評価と来年度の目的とを議論し、考えてもらうような場であり、第三者から見たアドバイスをもらう場でもあったりします。

 

今回、私の園での課題となっていたのは職員間の風通しや議論の場をどう作っていくかということが課題として挙がっていました。このことについて、私自身一つの答えがあったのです。これはこれまでのドラッカーや吉田松陰の話でもあったように「マネジメント」というものの課題がかなり大きく作用するということです。

 

このマネジメントというのは私の中でもかなり悩まされるものです。職員間の情報共有がうまくいっていなかったり、目的意識がうまくいっていないことに対して、これまでは「先生たちがなぜできないのか」と思うことがたびたびありました。しかし、そうなっている環境を作っているのはほかでもない自分自身のスタンスによるものだということに最近気づいたのです。

 

その際たるものが「先生。園としてはどう考えますか?」という質問です。この言葉が出てくるというのはよく考えなければいけません。「園としてどう考える」ということを聞かれるというは一見、園の事をよく考えて発言しなければいけないということを確認しているように見えますが、この言葉の裏には自分で考えるのではなく、聞いてる人に決めてもらおうとする意図が見えるのです。このことはよく考えなければいけません。つまりは、現場にいる自分たちの決断で物事を進めるだけの「余白」がないということです。この言葉の裏には指示する側のベクトルが強くあるがゆえに、「自分たちではコントロールできないから、もう初めから聞いておこう」というニュアンスが隠れているのです。そこに先生たちの主体性というものは確保されていないのです。

 

こういった環境下では、部下は自ら育とうとする力を発揮することはできません。もし、自ら能力を発揮していこうとする現場を作っていこうと思うのであれば、部下の動けるだけの「余白」を残すことを考えなければいけないのです。それはたとえば、アドバイスを聞きに来た時に関しても、すべてを答えるのではなく、考える方針を伝えることであったり、部下の話をよく聞き、考えを整理していくということが重要になってくるのでしょう。これは吉田松陰の松下村塾での関係性にも通じるところです。

 

このように考えるとマネジメントというのは割と、できることはそう多くはないのかもしれません。しかし、その場の雰囲気をコントロールすることやファシリテーションをする意味では非常に難しく、間接的に関わるからこその難しさは大いにあるのだろうと思います。今回の関係者評価は園の課題が浮き彫りになっていく半面、自分自身の未熟さを痛感するとともに、自らの改善点が浮き彫りになったいい機会になりました。