教育

コンピテンシーとは

2018年、幼児教育の改善・充実を目的として、「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」が改訂されてきた。その中で、幼児期に育みたい能力・資質を3つに分け「知識および技能の基礎」「思考力・判断力・表現力等の基礎」「学びに向かう人間性等」としました。これらの分類を保育園・幼稚園・こども園・小学校を超えて共有し、生涯にわたる生きる力の基礎を培うことを目指すということが2018年に言われるようになったのですが、これにはもちろんそうなるためのプロセスがあります。それがOECDの「Education2030」です。そこでコンピテンシーという概念が議論されました。

 

このコンピテンシーですが、もとは「Competent」という形容詞で「有能な」や「能力のある」という状態を表す言葉が由来となります。そこから、アメリカの心理学者マクレランドの研究を通して「Competency」という言葉が用いられるようになりました。マクレランドの研究はそもそもアメリカの国務省職員の選好基準についての検討を依頼されたことによります。それまで国務省では一般教養や政治学・行政学といった専門分野を中心とした筆記試験を行っていましたが、そのテストの結果とその後の職務上の成功とが一致しなかったのです。その原因をマクレランドは研究しました。すると、優れた職員に共通する特徴が見えてきました。

 

それは①「異文化対応の対人感受性」(異なる文化の人が発言し、意味することの真意を聞き取ったり、彼らの行動を予測する能力) ②「ほかの人たちに前向きの期待を抱く」(対立している人を含めて、またストレスがある場合であっても、他者の基本的な尊厳と価値を認める強い信念を保ち続ける能力) ③「政治的ネットワークを素早く学ぶ」(人間関係における相互の影響力や、それぞれの政治的立場を素早く理解する能力)が挙げられたのです。これらの能力は伝統的認知スキルという枠組みでは収まりきらない能力であり、こうした新しい能力分類型についての認識が、コンピテンシーに関する本格的な議論のはじまりとなったのです。

 

これは今の学歴や受験といったものが重視される日本の教育においても、課題となる内容であるように思います。受験や学歴では認知スキルを測るものが多いです。果たして学歴や成績が良いからといって社会で活躍できるのでしょうか。確かに、学業における成功ということはあると思います。しかし、ここでいう学歴や成績といったものはあくまで人生を生きるためのツールでしかないようにも考えられます。成績がいいから、学歴が高いからと言って幸せになるとは限りませんし、活躍が確約されるというものでもありません。問題はそこで学んだことや得た知識を「どう使うか」ということが重要になってくるのだろうと思います。そう思うとアメリカの国務省で活躍している職員が上記の4つの特徴を見ると、知識・技能ではなく、この「どう使うか」という部分におけるスキルが高いということが分かります。

コミュニケーションとは

1つめの「コミュニケーション能力の開発」では、どういった考え方を松陰はしていたのでしょうか。吉田松陰の行った松下村塾での教育は徹底した議論や討論でした。それは松下村塾だけではなく、他藩へ遊学や他の塾へ訪れたときも同様で、新しいことを学ぶだけではなく、自分の考えを述べ、他藩の人と議論することで、自分の人的ネットワークを広げていきました。そして、そのために必要だったのが「コミュニケーション能力」です。

 

ただ、一口に「コミュニケーション能力」といってもいくつかのものがある。その一つは「ディベート」です。ディベートはいわゆる討論による試合です。設定されたテーマについて「肯定派」と「否定派」に分かれ、決められた時間・順番によって討論し、第三者が評価を行います。そして、どちらが論理性、分析力、実証力によって第三者を説得できたかを競うのです。しかし、これは優劣を競うものなのでコミュニケーションとは言えません。次に「プレゼンテーション」です。これも自分のペースで話を進め、企業説明や商品紹介などはやりやすいが、一方通行になりがちです。では、どういったものが企業に求められるコミュニケーションなのでしょうか。

 

それは、「気持ち、意図、考え方などを言葉、文書、態度(表情、しぐさ、動作)などを通じて、必要な人や集団に伝え、様々な共有関係をつくり、課題の発見や問題解決に向けて関係者の知恵を集めていくプロセス」のことを指すのではないかというのです。ここにある共有関係というのは「上司と部下、やチームなど」のことを指します。そして、それらの目標や、知識、情報、仕事の進め方、判断の仕方、技術・技能などを共通に理解・認識していることの事を指します。そして、こういった共有関係を通じて、何が問題なのか、解決すべき課題なのかについて議論をして、認識を一致させることが大切になるのです。

 

こういった集団において必要とされるのはディベートやプレゼンテーションといった一方的であったり、勝ち負けといったやり取りではなく、新しい価値をつくるイノベーションが起こるやり取りの事をコミュニケーションというのだろうと思います。そして、そのためには統一された目的や目標意識が無ければ考えられませんし、それらが共通認識されていなければ、整理するものさしがなくなり、価値観をぶつかり合わされてしまいかねず、結果話を聞き入れるということも困難になってしまうかもしれません。そのため、周りの環境に対して、課題解決に向けて知恵を集めていくプロセスをコミュニケーションというです。

 

組織や集団におけるコミュニケーションとはただ会話やおしゃべりをするということではなく、課題解決に向けて知恵を集めていくことを指しているということはとても大きな意図であると言えます。そして、いまいち定義化されておらず、霧が覚めるかのようなすっきりとしたまとめ方をされているように感じます。このことはよく整理し、今の現状が正しいコミュニケーションが起きているかということを見ていきたいと思います。

7つの特徴

「松下村塾 人の育て方」を書いた 桐村晋次さんは松下村塾には7つの特徴があると言っています。

1,生涯を通じて学習を続けたこと。

今の時代は教育機関が終わると勉強も終わりという傾向があるが本来は終わりではなく、続いていくものであり、学んだものもかつようしていかなければいけない。

2,師弟がともに学び合う「師弟同行」が、村塾の基本姿勢であった。

どんな人でもすべて優れているわけではない、他の人に学ぶことは多く、互いに師となる必要がある。そのうえで、リーダーたる人は高い身分の保持に伴う義務を努める必要があり、自らを厳しく律することを考えていた。

3,少人数グループの議論を通じて、情報や知恵を集積し、一人ではできなくても、グループでやり遂げられることを体得させた。

答えの見つかりにくい課題を数人で討議させたり、難しい問題への対応を数人の弟子を指名して一緒に取り組ませた。

4,封建時代の身分制度を廃止、庶民の力を高く評価した「草莽崛起」の思想を根付かせた。

今の時代で言うと、学歴や学校の評価、男女差、雇用形態などの様々な利害があるが、そういった関係性を無くし、適材適所で関り合いながら関係性をよくしていく必要がある。

5,社会発展のために、若者に期待し、彼らを育てるという基本的な方針が村塾にはあった。

若者の自立を辛抱強く待ち、答えの無い問題を仲間と議論して考える習慣を持たせる。教え急がず、自分自身についての理解を深めさせることを進めた。

6,専門性を高めるには基礎を形成する教養を積むことが大切だということが認識されていた。

多様性を理解し、それぞれが得意な分野の習得に努め、視野を広げることの大切を求めた。

7,現場現実にふれ、情報と実践を重視するという心構えであった。

社会に目を向け、情報と実践をしっかりと結びつけたのです。

 

これらの特徴を抑えて考えると、松下村塾の塾生は「『集団啓発の場』を活用して“自力で”育っていった」ということが言えるのです。そして、この「集団啓発の場」のために大切なのは➀集団討議の中で、問題意識を共有し、問題解決に向けて知恵を集めていくコミュニケーション能力 ➁有用な人的ネットワークの構築 ➂小集団活動における集団啓発と自己開発 であると桐村さんは分析しています。

 

この三つの活用点はなるほどと思います。しかし、それと同時にこの内容に皆困っているというのも事実であり、悩ましい問題点であると思います。では、これらの3つの視点はどのように考えていけばよいのでしょうか。

志を持つ

松陰は常々「志に根差さない知識は人をあやまる」や「勇気のともなわない知識は曇る」と弟子に行っていたそうです。変革者に求められる第一条件は“志”であり、「志なくして始めた学問は進むほど、その弊は大きい。真理を軽んずばかりか、無識のものを惑わせるし、大事にのぞんでは進退をあやまり、節操を欠き、権力と利欲の前に屈する」と考えていました。このことに関して、私も同感です。「知識を得る」ということに対して、知識を生かすためには「何のために」するのかを考えなければいけませんし、そのためには大局を見るための志が必要になるのだと思います。

 

そして、この志を支えるために松陰は、気力、気迫が大切であり、優れた人物に会って話を聞くこと、様々な名著に親しみ、偉人の伝記を読むことで、絶えず心を引き締めるように心掛けなければいけないというのです。そして、この気迫をみせるためには「平時は用事のほかは一言も言わず。一言するときは温和な婦人のように静かに語る。これは気迫をつくるもとである。言葉や行動を慎み、低い声で語るぐらいでなくては、いざというときに大気迫はでてくるものではない」と説いています。

 

こういった志と気力を重視した松陰の教育は集団の啓発つながります。集団の中で鍛えられ、高められてきます。志が共有された集団であれば、そこには大義に向けて力を合わせ、共に育っていく集団ができると松陰は考えていたのです。そのため、松陰は「集団を規律あらしめるのは、“管理・統制”ではなく、“相互の厳しい切磋琢磨”である。この集団啓発さえあれば、若者はその力を伸ばしていける」と考えていました。誰かから統制された他律で行われる集団ではなく、相互に関係しあい、切磋琢磨していくなかでお互いに高め合うことで規律は生まれ、誰かが決めた規律ではなく、自分たちにとって意味のある規律になっていくのだというのです。今現在、様々なところで様々なルール作りが行われています。ドローンや少年法、コンプライアンスなどが厳しくなっていますが、世の中の人を見ていると「ルールがないことが問題」とルールがないことばかりに気が向いているように思います。本来あるべきルールは「お互いが気持ちよく生きるため」にあるべきものであり、「思いやる」ということをベースにしなければいけません。「ルールを知っているかいないか」や「ルールがあるかないか」というものではそもそもないのだと思います。このように考えると今の社会は国民それぞれが当事者意識をもって社会を担っているとはいいがたく、政治のせいであったり、自治体のせい、上司のせい、部下のせいなどと誰かのせいにしてばかりの社会なのかもしれません。もしこれが、松陰の言うように「志」というものを今の時代の人が無いというのであれば、それは教育や保育のせいなのかもしれません。。

 

「志」というはある意味で「夢を持つ」ということや「目標を持つ」ということでもあります。今の時代こういったことを持ちづらい時代なのかもしれません。それでは生き方において楽観的にもならないでしょうし、ポジティブな雰囲気にもならないのでしょう。そういった集団が多くなるようなときに、吉田松陰の集団作りというのは今の時代だからこそ学ぶ必要があるように思います。

個性を伸ばす

次に松陰は高杉晋作を育てるために「晋作の見識、気迫をいかにしてうぬぼれや自信過剰にならないように育てるか」ということを考えました。そこで行ったのが、久坂玄瑞と競わせ、学問心、心理の探究心を起こさせたのです。玄瑞は晋作とはちがい、頑固さもなく、人に親しまれる人柄であり、そのうえ、学問に優れ、理性に勝ったところがあったのです。こういった二人が切磋琢磨することで、二人とも成長していくだろうと考えたのです。初めは不満感を持った晋作も、学業が進み議論が優れていく中で認められていきます。玄瑞においても晋作の見識を認めるようになったのです。二人が刺激し合い、学び合うことで心配することは無くなっていったと松陰は思ったのです。

 

個性的な人材が欲しい、上司と議論するくらいの人材が欲しいと思っていても、実際にそういった人材が来た時には手を焼きます。それどころか、上司好みになってしまい、かえって特徴や個性を無くしてしまったという場合もあります。このことは自分自身にも身に覚えがあります。結果的にその人物の個性が生かされず、発揮されなくなってしまうことがありました。しかし、こういった個性をもった人材こそ、磨かれることで玉になる可能性もおおきいと言います。そのため、松陰は子制を最大限に尊重し、短所をも大切にして、時間をかけて長所に変えていこうとする息の長い指導法が求められ、早急に結果を求める今日の人材育成法に多くの疑問を投げかけていると言えるのです。

 

人の短所を長所に変えるというのはとても難しいことです。そのためにはまず、自分の短所を自覚しなければいけません。自覚することで初めて生かされていくのです。息の長い指導法というものを松陰が行っていましたが、この方法の一つが「じっくりと時間をかけ、短所を自覚させ、長所に転換する」ということ、そして、二つ目が「自意識過剰にならないようにどう育てるか」ということでした。この二つ目の方法はどちらかと言うと高杉晋作においてはといった方法であり、それ以外の人にはそれ以外の方法を模索する必要があるのだろうと思います。重要なことは「変わることに期待をする」ということと、「いかに本人に考えさせ、自覚させ、モチベーションを持たせるか」ということなのだろうと思いました。

 

「自覚させる」というのは悪いことを自覚させるだけではなく、変わってきたことにおいても自覚させる必要があるだろうと思います。成長を実感するからこそ、モチベーションも上がってくるのです。それは「褒められるから」といった他律ではなく「実感」によっておこります。そして、「実感」が起きるためにはやはり他律で進められるのではなく、自主的、主体的に向き合っていなければいけないのだろうと思います。そういった巧みな関わりの質というものが管理者には求められるのだろうと思います。そして、それは管理者と言うだけではなく、保育者にとっても、子どもたちに関わる際持っていなければいけない資質でもあると言えます。