社会

互恵的協働社会

最近、ふとこれからの世の中を考えて不安になることがあります。さまざまな勉強をしていく中で、人間はそう遠くない未来に滅びてしまうのではないかと思うことがよくあります。そして、その問題を解決するには子供の保育や教育、環境といったものが非常に大きなキーワードになるように思います

1972年にローマ・クラブといったシンクタンクが世界の将来を予測して、その結果を「成長の限界」といった報告書に「このまま経済成長を続けていくと人口はさらに増え、その分消費する資源や食糧も増え、結果として地球の負担が限界に達し、あと100年もすれば人類の存在も危うくなると、いったことを発表しました。

その後40年後の2012年にアメリカのスミソニアン研究所が検証してみたところ「成長の限界の予測は正しかった」という結論になったようです。しかも、2030年までに世界経済は破綻し持続可能な軌道から外れ人口が急激に減少すると改めて発表したのです。

その片鱗は昨今の少子化や出生率の低下による人口減少は目に見えており、日本でも労働力の低下のために海外から労働者を入れたり、AIによる代替労働力が開発されています。人との関わりは少なくなり、地域コミュニティの力は低下。事件においても無差別や衝動的な事件が増えています。社会に対する不安を上げればキリがありません。

何が今の社会に足りないのか、このことに対して、互恵的協働社会が今の時代に必要だといっているのが社会学者の門脇厚司さんです。この互恵というのは「お互いに恵む」ということですが、今の不寛容な社会にはこういった視点は確かに必要なことかもしれません。結局のところ、人はコミュニケーションを必要とする生き物であり、これを自ら断つような今の社会にとても危機感を覚えます。

メタ認知の枠組み

Education2030のプロジェクトにおいて、国連が出したSDGsとの関連性があることは前回の内容でありました。ここではコンピテンシーを考えるにあたって、2030年にウェルビーングの達成につながるように、まずは様々なコンピテンシーの要素を収集し、それらを分析していくということから始められました。

 

この議論の中で論点がいくつか上がってきました。その一つは「メタ認知をどのように整理するか」といった点です。メタ認知については「21世紀型スキル」などのコンピテンシーモデルにおいても、重要であるとしています。また、DeSeCoでも「省察やふりかえり」という項目として、すでにメタ認知を含む要素として位置付けられていました。このことをふまえて、Education2030プロジェクトの検討過程においてもこのメタ認知については新しい学習枠組みにおいて位置付けることが強く提案されていました。

 

 

しかし、その一方で、メタ認知の位置づけは、表のように、すべてのスキルや態度、性格に至るまですべてにおいて通じている概念として捉えられていました。そのため、プロジェクトにおいて、これらのような形で、メタ認知を知識やスキルとは異なる、それらよりも高次な別種のものとして捉えるのか、それとは違い、一つのスキルとして捉えるのかということが議論されました。というのも、メタ認知においては自らの知識の量や質についてメタ認知することもありますし、自らの態度や価値観のあり方についてメタ認知することもあります。そもそもコンピテンシーの総合的性格を前提とすると、メタ認知という個別のスキルのみをこのように特別に扱うことが適当なのかという疑問も出てきました。また、メタ認知スキルも認知的スキルの一つであることから、これらを別枠に整理することは概念整理として適当でないとの指摘もあり、結果的にメタ認知スキルを認知的スキルの一環として整理することで合意が得られました。

 

メタ認知とはこれまでもブログの中で紹介していましたが、「思考を思考する」ことをメタ認知といいます。そして、この自制であったり、自己評価や振り返りを伴う能力は様々なプロジェクトでも出ている通り、どのスキルや態度、知識といったドメインにおいても、共通して重要になる力です。自分の中で考えを整理することは感情のコントロールといった情動においても、学習における創造性などのスキルを深めるためにも、知識を深めていくためにも重要になってきます。分類というものをする場合、どこにメタ認知は入るべきなのかというのがコンピテンシーの概念を作るにあたって、はっきりとした答えが出なかったのです。

 

しかし、逆を言えば、それだけ重要な能力であるということも同時に浮き上がっています。どの分野においても必要な力であり、必要とされる力でもあります。そもそも21世紀型の教育の土台にはこのメタ認知というものが欠かせないということであれば、それをどのように培うことが必要であり、どういった環境が重要なのかということは無視できるものではありません。今回の合意では認知スキルとして合意されましたが、それでもその重要性は認知スキルとしての一つの能力として捉えるだけでは足りないだけの能力であるということが言えますね。

SDGsとEducation2030

これまでのキー・コンピテンシーやニュー・ノーマルな教育のあり方はOECDのDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択)の会議において、「人生の成功」や「良好に機能する社会」という視点を通じて考えられたものです。それはOECDがこれまで教育関係のプロジェクトが経済に資するための教育という側面で見られていたことを批判されてきたように、これまでのGDPに着目された経済だけに注目された「経済的成長」から、貧困や格差といった問題にも着目し、社会全体の成長を目指す「包括的成長」へと変化していったことに起因します。

 

OECDは設立50周年に「より良い暮らしのための、より良い政策」というミッションを示しました。それは正にGDPを高めるといった経済を目的としたものではなく、究極的に人々が心身共に幸せな状態(ウェルビーイング)を作り出すことに目的が変化していったことを示しています。そして、そのうえで、個人レベルのウェルビーイングが経済資本や人的資本、社会資本、自然資本として、社会レベルでのウェルビーイングにも貢献し、結果として個人にも還元される循環関係にあるとしました。

 

そして、これからの社会においては人間自身も大きな生態系(エコシステム)の一つとみなす考え方を2018年にOECDが示しました。それは「包括的成長」は「経済的成長」だけでは捉えることのできない、貧困層などを含めた社会全体としての成長を含めたものとして捉えていたのですが、この概念をより広くして、人間だけではなく、生物全体についてのウェルビーングを考えるということとしたのです。それは例えば、今生物の多様性が急速に減少していますが、結果的にそれは将来、人間社会においても直接的な影響を与えることになるといったように、単に人間の生活におけるウェルビーイングを考えるのではなく、人間も大きなエコシステムの一部であるという前提で考えることが求められるのです。これらのことを含めて、Education2030プロジェクトでは、望ましい未来のあり方について「私たちが実現したい未来」として議論を行ってきたのです。

 

これまで、ニュー・ノーマルな教育やキー・コンピテンシーというものを紹介してきましたが、その前提として、今後どういった人間社会を形成していくのか、そして、それが人間社会だけではなく、もっと大きな地球規模の環境のあり方を含めたウェルビーングに向けた未来のために今できることが含まれているということがOECDでは議論されており、教育においてもこの考え方が中心になって変化が起きているということが言われているのですね。つい、保育をしていても、ここまで大きな視点を持って取り組むということはなかったのですが、世界基準で保育を考えていくと決してこういった議論の内容とは無縁でいてはいけないのではないかと思います。特に国連が出したSDGs(持続可能な開発目標)が声高に言われていますが、それと保育や教育は密接に関わっているといえますし、Education2030での「私たちが実現したい未来」を考える上で、共通する目標でもあるといえるのです。

ニュー・ノーマル④

教育におけるニューノーマルの6つ目は「学習評価を学習の改善に活用する」です。これまでにもあったように、非線形の発達モデルであったり、学習到達度だけではなく、プロセスまでも評価に入ってくるのであれば、これまでの評価というものが大きく変わらざるを得なくなっています。ニュー・ノーマルでの教育においては、評価はより多様な観点から行われるようになるといわれています。

 

たとえば、「学習の評価」「学習のための評価」「学習としての評価」として捉えるような考え方があるといわれています。「学習の評価」は生徒の学習状況について評価するものです。「学習のための評価」は学習改善につなげるための評価で、形成的評価につながる考え方です。「学習としての評価」は自分の学習状況についてメタ認知(思考を思考する)して次の学習につなげるものであり、自己評価することが学習につながるということです。「評価」の在り方がこれまでのように「単なる評価」ではなく「次につなげ、学習の改善をどうしていくか」ということもポイントになってくるのです。こう考えると実に実践に即した評価に変わってくるのかということが見えてきます。

 

7つ目は「システム改善の視点から建設的・双方向的なアプローチを行う」ということです。これまでの教育では、学校は一定の目標(例えば標準化されたテストにおける一定レベルの成績の達成)のために、保護者や生徒に対する説明責任を果たしていたり、法令や各種のルールを守っているかというコンプライアンスの対応に追われがちでしたが、ニュー・ノーマルの教育では、結果を追うよりも、システム全体をどのように改善し、フィードバックを重視し、より建設的・双方向的なアプローチをするかということが重視されます。

 

つまり、結果よりも改善であったり、自己評価ということが重視されるといった建設的なアプローチが重要視されてくるということです。これらのことを考えてみても、これからのニュー・ノーマルな教育においては、生徒に何を学ばせ、どう学んだかではなく、生徒がどう学ぶかという結果ではなく課程の部分に目が向き、より生徒主体に教育が変わってくるということが見えてきます。

 

それが最後の「生徒の能動的な学習への参画を重視する」ということです。従来の教育では「教師は生徒に指示し、生徒は教師の指示を受ける」という関係が強く、生徒は受け身の存在になりがちであったところから、生徒がエージェンシーを発揮し、教育に積極的に参加し、教師と協働する存在として期待されることになると考えられています。教師の一方的な指導であったり、自分本位な授業の展開ではなく、生徒の意見に耳を傾け、改善をしていくことの方が、教師の指導力向上にもつながるのではないかというのです。そして、こういった教師と生徒が協働することで、学校や授業がより良いものに変化していくことを期待されているのです。

 

こういった流れがニュー・ノーマルな教育の中に含まれていくのです。先ほども書きましたが、これからの教育は教師や学校だけが主体になって生徒に教育を「施していく」というのは出なく、生徒自らが主体となって教育を「進んで学ぶ」ようになっていく環境に変わっていくといえます。こういった教育環境になっていく中で、保育においても、この流れは無視できないものになってきます。それは保育においても、こういった学校教育における土台となる力を作っていかなければいけません。それは先取りといった意味ではなく、しっかりと土台を作っていく必要があるのです。

ニューノーマル➂

次に教育のニューノーマルとしてあげられるのは「プロセスを重視して学習の評価・改善を行う」です。これまでの教育では教育の中心は学習達成度であり、生徒の成績を通して、教育システムの評価や改善を行っていました。ニューノーマルの教育では、学習のプロセスについても、固有の価値を持つものとして認識されます。つまり、成績だけではなく、過程においても評価や改善が求められるのです。

 

このことは日本の教育システムにおいて非常に大きな問題かもしれませんね。問題は評価がどのようにされるのか、「プロセス」といってもどういったように考えていけばいいのかということです。これは今の日本においては考え方を大きく変えていかなければいけないところであると思います。何をもって「評価」が変わっていくのならば、『入試』や『試験』といったものも変わってくるのかもしれません。よく日本は受験においても「入りにくく、出やすい」と揶揄されることがあります。逆に海外は「入りやすく、出にくい」といわれます。学校で何を成したかということが今後求められてくるのではないかと私は感じているのですが、果たしてどうなってくるのでしょうか。

 

次は「非線形の発達モデルを想定する」です。まず初めに「非線形」ではなく「線形の発達モデルとはなにか」ということですが、これはいわゆる今行われている年齢に着目し標準化された内容のものを指しています。年齢によって、自動的に、ベルトコンベア式に進んでいくということがデフォルトである発達モデルです。これに対し「非線形の発達モデル」は「生徒一人一人にそれぞれの学習経路があり、学校に入る段階や家庭環境による違いによって、既に知識やスキル、態度などが異なっていることは当然であり、こういった違いを前提にする」ということです。つまり、それぞれの特性であったり、それぞれのスキルやパーソナリティを前提としたものがニューノーマルな教育では求められるというのです。

 

これは教育であると少し考えづらいですが、保育現場で考えると分かりやすくなるかもしれません。年長・年中・年少と年齢によって行う活動を設定すると、月齢によってはできる子・できない子が出てきます。このできる・できないというのは発達的なものもあれば、得意・不得意というものもあります。日本は年齢別で行うので、そういった子どもたちにも手伝ったり、励ましたり、何とかして活動を遂げることが出来るように保育士は指導します。しかし、苦手な子どもたちからするとそれは負担でしかなかったりします。結果的に子どもたちにとっては「できない」という意識しか残らなかったり、場合によっては劣等感や苦手意識を持つと余計に活動において消極的になってしまうかもしれません。決してこれは活動を否定することではなく、その子ども「それぞれに合った活動を用意する」ということが目的としてあるということでう。日本の場合、教育は平等であるといいますが、その「平等」というのは「公平」ではないのです。だからこそ、学校教育においても、ドロップアウトしてしまう子どもが出てしまいます。こういったことがニューノーマルな教育では起きづらくなるでしょう。