育児と社会と教育と

これまでの小西氏の説をまとめてみても、「母親ががんばる育児」というものは社会的な状況から見ても限界にきているのではないかと小西氏は言っています。その理由は「子どもの欲求が分からない、出産前の育児経験が不足している親の問題」「『てがかかる』といった子どもの場合」「家族の協力が得られない、近所に話し相手は相談相手がいないといった、親の置かれている状況」にあるとこれまでの話にありました。特に今の時代のように女性の社会進出が言われているにもかかわらず、「三歳児神話」をベースとした「育児は親(母親)」といった考えを含むと、女性により多くの努力を求めることや責任を負わせることになり、結果として、育児がつらいものや我慢を強いられることになります。

 

小西は子育てと社会についてこう言っています。「子育てを社会との断絶と捉える方がいます。確かに『会社で働くこと』だけを社会参加と考えれば、育児中のお母さんは社会と断絶していることになります。」「育児」や「出産」といったものが最近ではあまりポジティブに言われていないことが大きな問題なように思います。「○○さんの仕事上の穴をどう埋める」とか「出産すると仕事にもどってこれなくなる」といった仕事と育児とだけが考えられています。しかし、育児というのは仕事との関係だけではなく、「社会全体」で考えなければいけないのでしょう。

 

日本の少子化は止まることがないのではないかというほど落ち込んでいます。増やしていく方策として、会社に育児休暇や産休を求めたり、週3日制にしようという話まで最近では出てきています。しかし、それも含めて「社会」において、「育児」というものが昔以上に認められ、支えらえられていることを感じないことにも大きな問題があるのでしょう。やはり「社会=会社、職場」といったイメージはありますし、「社会」というものをどういったものとして捉えているのかで大きく変わってくるように思います。

 

このことは保育や教育においても同様に感じるところであります。どういった保育が必要なのか、どういった教育が必要なのかということを考えることにおいて、「教育と社会」が切り離されているように感じるのです。「社会」に必要な資質を備えた人材をつくることが教育や保育の原点であるにも関わらず、現状は学歴や成績を求めることが未だ、教育の中ではスタンダードであり、「どれだけ学んだか」がクローズアップされ、「どう学んだか」は注目されていなかったり、その意図の部分にフォーカスが当てられることは少ない。何をまなんだかよりも、どう学んだことを活かすのかが見えてこないから、勉強に意欲が出てこないのだろうと思います。これは以前のシュライヒャー氏の話でもありました。「構造的」と話していましたが、「何のために」ということが置き去りにされている世の中を変えていかなければ、これからの社会はより良いものにはなっていかないように思います。

 

そのための整備であったり、教育や保育での援助であったりが、これからの社会ではより大きな意味を持ってくるものになるのだろうと思います。