すべては思いから

先日、紹介した横井小楠(よこいしょうなん)は吉田松陰や坂本龍馬なども教えを請いに訪問するような人物であったといいます。その理由はどういったところにあったのでしょうか。横井小楠は「学校一問一答」という問答方式で書かれた文書の冒頭でこう書いています。「古今東西、規制の学校から才能ある人材が育ち、教化が進んで世の中が理想的な社会になった例はない」と断言したのです。そして、「学政一致」の弊害も論じています。

 

小楠の考えでは、「人材を育てて社会の用に立てようとする教育は安易な形で若い学生の心に染み透り、自分こそ有用な人材として抜擢されようとして、競争の原理が学校を支配するようになるのであった」と言っています。結果、学問本来の人格形成の側面が軽視され、学校ではお互いに悪口を言い合うような「喧嘩場所」となってしまうというのです。それ以外にも、才能あるものは自分の利益のために政治を利用しようとする考えを持つようになるとも指摘しました。結果として、教育を行うことが人材を損なうということにつながるというのです。

 

この考えは今の日本においても、同様のことが言えるかもしれませんね。最近でこそ、競争原理を入れることは少なくなってきましたが、それでも、試験や入試などは競争原理が働きます。次第に優劣がつくようになり、学歴や成績が高い人があたかも人格者であるかのような扱いになります。結果、いくら高学歴であっても、成績が良くても、人格が備わっていなければ、社会に出た後に活躍する場が限られますし、場合によっては「使えない人材」となってしまいます。これは現在の社会においても実際起きていることです。また、昨今のポピュリズム的な政治も同様のことが言えるかもしれません。社会のために行われるということよりも、世論の衝動的な感情に流される政治であれば元も子もありません。横井小楠の指摘は今の時代においても、考えなければいけない内容のように思います。

 

では、小楠はどのように「学問と政治」を考えていたのでしょうか。小楠は「学政一致」について、学校を専門学校化して、社会が求める専門技術者を養成するのではなく、「己を修める」ことと「人を治める」ことの一致をはかるような人材教育を意味しました。小楠によると「真の道がおこなわれていた古代中国三代の社会では君主と臣下はお互いに戒め合い、家庭や社会のいたるところで善を勧め悪を戒め過ちを反省する声が天下に満ちていた」というのです。そして、これが「学政一致」の根本的な条件であったのです。

 

「学問とは何か?」「学校とは何か?」という明確な理念なり目的を考えずに、ただ政治の道具と考えたり社会に必要な人材だけを求めようとすると、学生は自分の事だけしか考えない利己的な人間になり、かえって社会に害毒を流す結果になると警鐘をならしました。

 

この考えも実に今の時代に言えることですね。このブログにもたびたび話していますが日本の教育基本法の第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とありますが、どれだけの人がこのことを理念において、教育を子どもたちに向かって行っているでしょうか?自分たちの保育や教育が「人格の形成」にどういった意味があると意識しているでしょうか?こういった大志というのは教育において前提を胸に子どもたちに向き合わなければいけないのだろうと感じます。