横井小楠の改革

19世紀の中ごろから新しい時代に向かい様々な改革が構想されました。この時期を「幕末」と言いますが、古い世界から、新しい世界に変わるべくその頃の青年たちは様々な分野で挑戦を試みています。当然、新しい社会への変容には大きな障壁はたくさんあり、保守的な世代との軋轢なども激しいものでした。肥後熊本藩に生まれた横井小楠(よこいしょうなん)(1809~69)もその一人です。禄高150石の藩士の次男に生まれた横井小楠は決して恵まれたかというとそうではありませんでした。しかし、熊本の藩校時習館で頭角を現し、今でいう大学院にあたる居寮生となる。そのまま勉学を続ければ、時習館の教授か、うまくいけば藩政の中核の位置する役職に就くことも可能でした。しかし、小楠は下級武士の困窮や百姓一揆など、現実問題からまったく遊離した時習館の学問に対して批判的な立場をとったのです。

 

彼は学問への志として「天地の為に志を立て、生民のために命を立つ。往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く。学者発心の初め、須らく此の大志願を立つべし」これは厳しい税金の取り立てに喘ぐ民衆を救済するためにも、虚飾(外見だけを飾る、うわべ)の学問に堕落した学問を本来あるべき姿に再興する「大志願」を立てなければならないといったのです。小楠はその後、改革に挑みますが、結果、藩内の保守派の反対にあい、江戸留学を命じられてしまいます。

 

江戸から帰国した小楠は時習館改革派のメンバーを集め、研究会を開きます。彼らの理想とした学問は「治国安民」を目的とし「利用厚生」を内容とする実学でした。ここでいう実学は「現実の社会に有用な学問」という意味合いではなく、「真理の学」という意味合いが込められています。つまり、人格の形成に資すると同時に民衆の生活安定に役立つ学問を目指したのです。こういった民衆の生活を中心とした考えに同調し、農村のリーダーである豪農出身の若者が集まり勉学に励むようになります。

 

小楠の学問は徹底して今に目が向いています。例えば朱子学の書物を読んでも、「今朱子を学ばんと思ひなば、朱子の学ぶところ如何と思ふべし。左なくして朱子の書に就くときは全く朱子の奴隷なり」と言っています。つまり、朱子学の問題意識や方法論を学ぶといっても、主体的に「現代」を通して考えなければ、ただ朱子の考えを盲目的に学ぶのは奴隷だというのです。小楠は朱子学を思弁的な観念論にすぎないと批判し、物の本質の解明を民衆の生産活動と結びつけて理解する必要を説きました。しかし、肥後熊本藩は結局小楠の思想を受け入れず、越前福井藩における藩政改革構想や、福井藩主松平春嶽を補佐し幕府改革構想に実現されました。

 

彼の名声は瞬く間に全国に広がり、吉田松陰や坂本龍馬も習いに来るほどでありました。