改革のために

島津斉彬は学問の目的を為政者として政務の実際に役立ちうる資質を養成するところにあると教育目標を立てていました。そのために、学ぶ学問を吟味し「正学」を確立することの重要性を説いています。斉彬はこれまでの朱子学を正学と定められていたものから、もともと日本を夷狄(いてき:野蛮人、未開の人)とする儒教偏重を戒め。「律令格式」などの日本の法律や「六国史」などの日本歴史に関する和学を正学としました。そのうえ、これらはあくまでも時勢に適合した実践性をもつものでなければいけないとしたのです。つまり、その時代が学問になにを要求しているのかを認識することによって、学問は実学となり、政治における貢献につながるのだとしたのです。

 

こうした認識によって造士館の教育は2つの点において質が改革されます。

その一つ目は「学問の閉鎖性の打破」です。これはかつて重豪が定めた学規において、教科書は四書五経や「小学」「近思録」が指定され、注釈書は手指の説に沿わなければいけませんでした。しかし、斉彬は外圧がかかる幕末期の政治においては、和漢の書だけではなく、西洋の風俗を含めて西洋の風俗をふくめて西洋を理解する学問や「外夷防御」のための西洋科学の修得を加えています。

 

次に二つ目の質は「政治の閉鎖性の打破」です。重豪は「古道を論じて古人を議して当時のことを是非すべからず」といい、時勢に即した政治的な関心や議論を禁止しました。しかし、斉彬は学問の時勢認識を強調し、個々の藩士が藩もしくは日本が直面する課題に、積極的に取り組むことを要求したのです。

 

このような認識を見ても、いかに斉彬が先の見通しをもち、そこに積極的に取り組むだけのバイタリティのあった人であるということが見えてきます。そして、何よりも、こういった学問を学ぶ意味を藩士たちに伝えたことになっただろうと思います。これまでの学問は教訓といったものが多かったものに対し、これからの学問は藩や国のためにといった重要性を説いたことはとても意味があったことだろうと思います。

 

我々教育や保育をする目的はやはり「社会における貢献」であると思います。そして、いかに「社会につながる人材を育成できるか」ということが大きな目的でもあります。しかし、いつの間にか、日々の保育や教育に追われ、遠くの大きな目標よりも、身近な短期的な目標にばかり目が行ってしまいがちです。そのうえ、保育に関していうとその「成果」というものは目に見えるものではありません。だからこそ、大きな目標を掲げ、意識することが重要になってくるのだと思います。

 

こういった過去の教育の事例や教育史からはこういった教育が形づくられたエネルギーを感じます。そして、そこから学びとき、その熱量にあたることはとてもありがたいものです。こういった先人たちの思いを受け、これからの世界のためにどういった保育をすることが優先されるのか、とても考えさせられます。