島津斉彬の改革

薩摩藩では藩校である造士館の藩校改革が行われてきたが、その藩校改革により、本来的な学校の機能を持つことにつながった一連の流れに大きな影響を与えたのが、島津斉彬です。斉彬は造士館の改革において、その原因を藩士の学問に対する情熱の欠如ではなく、個々の有能な藩士が教育を受けるだけの十分な経済的な余裕がないからだと考え、15人の学生に限って奨学金を与えるように指示しました。また、下級藩士の子弟のために、「屯田土着」の制度を設け、地域ごとに学校を設立する計画を立てました。

 

また、薩摩藩に独特な士風を形成してきた郷中教育にも監督を強化し、藩の教育方針の中に積極的に位置づけようとしました。それは戦闘手段としての武士の特性を強調する郷中教育から、士農工商という封建的身分制の中での統治者としての武士の職分を明確にしました。そうすることで「学問・武芸」だけではなく、「筆算」という日常的な学習の必要性を説いたのです。そして、「学問の要は政治の根本」という認識を持たせたのです。

 

また、斉彬は「儒者流」の考え方や世界観は、当時の状況に対応できるものではないと考え、日本が国際社会で存続を維持するためには世界的な視野を提供する学問と明確な教育理念を持つことが必要だと考え、それが政治の緊急な課題であると捉えました。そして、こういった考えが造士館における時勢にあった内容と機能をもったものに変わる契機となったのです。

 

島津斉彬の考えを見ていると、「何を学ぶか」というものが「何のために学ぶのか」ということに立ちかえったということに気づかされます。朱子学、古道といったことを学ぶということがどういったものにつながり、どういった意味あいがそこにあるのかという事を改めて問い直した意味を考えてきたのだということが見られました。つまり、「手段」が「目的」になっていたものを、「目的」のために「手段」を持つ考えに変えたという事が言えるのかもしれません。そのために、斉彬は藩内で起きている学問が進まない原因を探り出し、解消することで、より意味のあるものとして考えたのです。こういったしっかりとした原因究明と改善というのは斉彬が見通しと目的をもって教育改革に挑んでいたということと、それを改革するためのマネジメント力とリーダーシップ力があったのだろうと感じられました。

 

今、このリーダーシップやマネジメントが保育の業界でも言われることが多くなりました。教育業界というのはある意味で守られています。その中で保育の業界というのはなかなか成績のように数字で表されるものではありません。そのため、目に見えない目的や目標に向かう職員のモチベーションを持たせるには高いリーダーシップが求められるのではないかと思うのです。斉彬もそうですが、これからの社会や国、政治といった長期的な見通しを持ち、そのための道筋を持たせることが教育改革にはとても重要になります。こういった改革における器量は自分も持ち合わせていたいものだと斉彬の姿を見て感じます。