孔子と日本の学神

前回においても、中央での教育政策が直接全国に強制力を持つことはなかったとあったように、将軍が絶対的な権力を持っていた江戸時代ではあったのですが、教育や学問に対しての統制は案外緩やかであったようです。基本的に学問や教育を政治や経済の支配下に置こうとする発想がそもそも希薄であったと沖田氏は言っています。

 

なぜ、そういった文化であったのか、それには日本における学問や教育で重視されたものが経済や政治ではなく、人間の道徳的陶冶を重視したことにあるのです。そして、その考えは「俗」を超越した「聖」なる領域に属するものという考えによっています。なによりも人の道徳的観念を大切にすることこそが、日本の文化においては重要視されるものであったのですね。こういった根底にある文化が今においても「おもてなし」であったり、「思いやり」ということに代表される文化として起きているのかもしません。また、この頃の藩校の普及において行われた「釈奠」(せきてん)の行事や寺院に類似する学校建築の様式は、学問・教育の場を非日常的な神聖な空間とみる考え方に基づいているといいます。

 

釈奠は1年に二回春と秋に行われ、孔子をはじめ儒教の先哲を祭る行事であります。日本では701年に制定された「大宝令」の「学令」に規定があり、大学寮で行われていた。元々は大学寮の衰退とともに一部の公家の私的な行事となっていたが、近年になると湯島の聖堂における将軍臨席のもと釈奠行事の挙行されたことに触発され、一般の藩校にも広がったのです。しかし、この釈奠に関しては日本においてはもともとの中国の儒教の祭礼とは大きく異なったものとなり、日本独特のものになります

 

その後、幕末になると、儒教のほか国学などといった日本歴史への関心が高まり、釈奠に関して疑義が申し立てられるようになりました。幕末の尊王攘夷運動に理論的根拠を与え、後期水戸学の指導者のひとりである藤田東湖(とうこ)は『孔子は聖人にて人の標準とする所となれば、誠にさる事なり。されども神国にて孔子のみを祭らんには、神皇(神と天皇)の道を捨て漢土に従うに均し(ならし)。神は期道(しどう:その分野や方面)の本にて孔子の教えは斯道を助け弘むる(ひろむる)為なれば、先に神を祭りて未知の本を崇め(あがめ)、次の孔子を敬ひて此道のいやまし盛になりぬる由を示すべし』(常陸帯)というように、「孔子だけではないのではないか」と孔子ではなく、学神を祭るようになった経緯について述べていた。

 

他にも山口藩の明倫館では、幕末には釈奠を改め、孔子堂を学校祠堂(しどう)と改称して菅原道真を併せて祭った。このように菅原道真やそのほかの日本の神々を学神としてまつることは稀なことでしたが、明治維新後になると、国学者と漢学者の間で教育理念をめぐって、いわゆる国漢論争が起きました。この論争の一つとして国学者から中国の孔子に変えて日本の神を学神を祭るべきではないかといった主張がありました。その後、文明開化と王政復古といった時代の流れの中で、次第に釈奠行事は次第に影が薄くなって、日本の学神を祭る学校が増えたのです。