中央から全国への広がり

林家の家塾が幕府の財政的援助を受けて、湯島に聖堂が建立されたことによって、幕府の機関としての性格を強めた。これが明確に幕府の学校として認識されるようになったのは寛政二年(1790)の「寛政異学の禁」が契機となっている。これは老中松平定信から、若年寄の京極高久を通して大学頭である林信敬に学風維持に関する訓告が伝えられたことに始まります。これは家康以来代々の将軍が信用してきた「正学」(朱子学)が衰退し、荻生徂徠の学派や折衷派に代表される異学が流行している現状に対し、林家の門人を中心に異学を禁じ「正学」に励むことを命じたのです。そして、この異学の禁は朱子学のテキストに基づいて行われた十五歳以下の素読吟味と十五歳以上の学問吟味という、幕府による試験を通して浸透していきました。その中で、学問吟味の対象とされたのは徳川家の家臣団である旗本・御家人の子弟です。

 

また、この試験で優秀だったものは報酬ではなく、積極的に一定の役職を用意するなど、人材教育の意味合いを強めていくことになります。「寛政異学の禁」は幕府側の思想弾圧のように理解されることが多いですが、実際のところ、学習の明確な基準と順序を明示したという点において、結果的に「普通教育」観念を誘導することになったのではないかと思われるのです。そして、近年の研究では辻本雅史の主張としてある「徂徠派や折衷学派が欠如させていた学問主体者の実践倫理の問題が朱子学再興の必然性を導き出した」といわれているのが有力だそうです。しかし、その結果、林家の家塾は政府の機関としての性格は強くあったものの、林家の家塾の延長してあったものから独立し、幕府の機関となってしまったのです。

 

その後、幕府は聖堂の儒臣を林家以外のものから任命し、財政も林家から幕府の管理下に置いたのです。その後、寛政九年(1797)に聖堂から学問所として改められ、幕府直参の旗本・御家人の子弟を教育する機関へと位置付けられました。それからは旗本・御家人の子弟だけにとどまらず、初版からの人材を受け入れて教育する機能を持ち合わせるようになり、そこで学んだ人たちは自分の藩に戻ることで、それぞれの藩校の教育に従事するようになったのです。つまりは全国の藩校教授の養成機関としての機能もあったのです。

 

江戸時代では今のような文部科学省のようなものは中央集権の教育行政機関はなかったので、中央での教育政策が直接全国に強制力を持つことはなかったが、各藩では中央の動向をふまえて、独自の教育政策が展開されたのです。

 

将軍中心の政治形態において、中央で行われている教育を取り入れることは中央での政治に関わることにも繋がります。決して無視できるものではなかったのでしょうね。全国の動向と各地域による教育政策を展開していくことが各地で行われてきたのです。