10月2021

薩摩藩の藩校の動揺

薩摩藩では武芸練習場の演武館も開設されていた。一般的に藩校といえば、学問を中心に創設されたものと考えられがちではありますが、あくまでのその理念は文武両道であったようです。また、開校にあたって、薩摩藩の島津重豪は学規を定め、その第一条で「注解は程朱の説を主とし、みだりに異論をまじへ論ずべからず」と言っています。これは朱子学を正学とし、第四条では「古道を論じ古人を議して当時のことを是非すべからず」と記しています。ここでいわれる古道とは徂徠学を意味しています。この徂徠学は「古い辞句や文章を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問」のことを指しています。この徂徠学をもって「当時のことを是非すべからず」、つまり当時の良し悪しを論じることを嫌ったのです。

 

このことにより、藩内では徂徠学を信仰する派と朱子学派で対立がおきます。異説の排除によって、藩内の学党の政治的対立といった危機意識を反映したのです。島津重豪が創設した造士館は重豪の好学趣味や現実にそぐわない開化政策と言われていました。しかし、元禄期を境として学問や思想が多様化していくなかで、「当時のことを是非」とする学問への対応策が必要になり、今の時代に向けた学問の必要性を感じていたというのです。だからこそ、異説の禁止条項を盛り込んだのです。

 

こうした流れの中で、薩摩藩の造士館では朱子学を正学として、政治的な議論を禁止する学規が出されました。しかし、朱子学はもともと訓詁学を否定し、政治実践と結びつく実学として逓送され、「治教一致」ということを骨子としました。しかし、政治的な議論を禁止することにより、朱子学でも政治性が排除されると、たどるべきは訓詁学や詩文中心の芸術至上主義になるのです。こういった造士館の学問動向は朱子学を信奉し「近思録」(朱子学の入門書)を特に重視し、自分自身が実践し動くことを主張する藩士グループが登場し、造士館の改革を行いました。そして、この流れは藩校改革のみならず、藩政すらも巻き込んだ政治事件にまで発展するのです。

 

そして、その後、島津斉彬(1809~58)が藩主に就任します。このとき造士館が本来の意味としての学校の機能を発揮し始めるのです。

薩摩藩の教育変革

藩校の代表としてよくあげられるのが「薩摩隼人」です。薩摩藩の武士教育をもとに、文武両道の観念がどのような課題を担った展開したのかが注目されます。そもそも、薩摩藩の置かれる地域は古代から遣唐使派遣の発着寄港地であり、中世には中国・琉球との交通の要所となっており、中国に笑う僧侶や貿易上の交渉および、通訳に従事する学問僧が往来する場でありました。桂庵玄樹(1427~1508)を祖とする薩南学派という儒学の学派が形成されたのもこういった地理的な要因が関係しています。薩南学派の知識僧は島津一門に招聘され、交易や外交上の事務を担当する役割を担っていました。そして、それと同時に島津氏の教養形成にも貢献しています。

 

島津藩は総人口に占める武士の割合が非常に高く、多くの武士は外城に分散され、兵農未分離のままであった。そのため、近世封建官僚としての武士に必要な資質よりも、戦闘技術や尚武精神を重んじる中世的な気風が独自の士風として温存されたのです。その後、近世になり、外城の責任者に中央の上下肢の役人を派遣し、諸役人のところが得を行うといった近世的な家臣団が形成されていくことが進められたが、なかなかこういった気風は改まることはなかったようです。そのため、これを表すかのように、この時期、寛文から延宝年間にかけて、「不作法」を取り締まる布達(ふたつ)がしばしば出されます。この「不作法」は先頭集団としての武士の属性でもあったのですが、秩序の時代に変わっていくにあたって、こういった属性は家臣団を統制するなかで大きな障害となったのです。

 

その後、二つの内容はたんなる禁止事項ではなく、積極的に学問を奨励するものへと変化していきます。そして、元禄9年の大火、寛永寺の造営といった幕府からの普請による財政逼迫によって、藩は危機的状況に追い込まれます。そこで、薩摩藩は藩の綱紀刷新の一環として、幕府の法令や儒教関係の書物から武士が遵守すべき内容を取り出し、毎月一日に家臣団の単位組織である「組」ごとに、配下の武士を招集して読み聞かせる「毎朔条書」という教科政策を行います。また、青少年の自治的な集団で、本来は武士的な気風を護持する機能を持った「咄相中」(はなしあいちゅう)にもそうした影響がでました。これは享保期に「郷中」とよばれ、教育組織としての性格を強めました。

 

元禄期に入ると、江戸で学問を習った藩氏が帰藩し、「組」を単位とした「組解釈」をおこない、薩摩藩の藩校である造士館は、元禄期以降の江戸の都市文化の素養を習得した25代藩主島津重豪と江戸で室鳩巣(むろそうきゅう)の学問を受けついだ藩士によって創設されました。

 

時代の移り変わりとともに、各藩でも中央官僚になるための変革が行われ、それと同時に、学問や教育がより進められてきたのです。そして、こういった流れは全国でおこり、九州の薩摩でも同じことが起きていたのです。私も一度、「郷中教育」の展示がされているものを実際見に行ったことがあります。「薩摩スチューデント」と言われる若者たちが海外にわたり、蒸気機関の機構を勉強したり、語学の吸収力において、海外の人たちは非常に驚いたということが言われています。そして、何よりその「郷中教育」の方法は「異年齢」であり、年長者が年少者に教えるというものでした。これは今の見守る保育にも通じるところです。

目的の変化

藩校はそれぞれ全国の藩が藩政を行うにあたって、有能な人材を確保するための藩士教育を目的としたものでしたが、藩によっては武士と庶民との共学を認める藩もありました。それは有能な人材において、上級農民や上級町民といった人材も地方役人としてや藩政の末端機能を担っていたためで、それにおける人材育成や一揆や逃散などに対する秩序意識の再編といった意味合いもあったからというのが、前回の話でした。

 

では、次に藩校の入学年齢は何歳くらいだったのでしょうか。沖田氏はこのことについて、藩校も入学年齢は寺子屋と大差なく、七歳~八歳で入学するのが一般的であったといっています。しかし、このことも藩によって差はあり、御三家の水戸藩の弘道館は十五歳を以て入学年齢としていました。しかし、水戸藩の場合十五歳からだからといってそれまで教育を受けなくてもいいというわけではなく、十歳になると家塾に入学させ、読み書きなどの基礎的な学習を終了した後に藩校に入学させていました。

 

藩校では藩士教育というのが目的であったため、ほとんどの場合、就学を義務付ける強制就学という形態でした。また、丹波笹山藩などは、家督を相続するためには藩校に就学することが条件になっていたように、就学を課していたところも少なくはありませんでした。また、就学強制であるからといって、藩士全員が強制的に就学するわけではなかったようです。身分の上下、嫡子か次男以下であるかによっても強制度や就学期間は異なっていました。つまり、将来藩政を担う身分の高い武士の嫡子ほど就学が義務付けられ、就学期間も長期にわたります。藩校は本質的にはエリートを養成する教育機関であったのです。

 

また、藩校に通う期間も今の学校のような年数ではなく、例えば会津藩の日新館では長男は三十歳まで、次男は二十一歳までであったり、水戸藩の弘道館や萩藩の明倫館などは終了年限を四十歳までと定められており、武士教育が青少年の一定期間のみを対象とするのではなく、現役として藩政の一環を担っている限り教育を受ける対象とするという考えに基づいているのです。つまり、学問と政治の一体化されたものであったのです。

 

そのため、幕末の藩政改革において、藩校改革や学問刷新されたことは大きな問題となりました。それは藩校の動向が藩政の方向を決定づけるものであったからです。このように学校が藩や国家によって規定されるといった傾向によることで、そこで学ばれる学問までも規定されるという結果をもたらしていきます。これにより封建的な身分制社会の支配階級に属する武士には、教育は強制的な公務の一環として浸透していきました。そして、それが藩政の重要な位置を占めるようになり、能力主義による人材教育と結びついた結果、下級武士にとっては階級を駆け上がる手段となったのです。

 

初めの家塾であったりした時の頃と比べると、学校のあり方が大きく変わってきたのが分かります。始めは「人としての教え」であったり、「リーダシップ」であったりというものが教育の目的であったものから、藩政といった政治的な要素が色濃く学校の中に入り、藩の人材教育という側面がより強く出てきているのをかんじます。こういった藩の人材教育によってある一つの有名な藩校が生まれてくるのです。

学ぶ意味

武士の社会において、学問はどのような位置づけであったのでしょうか。近世初期においても藩主や上級武士を除いて、武士が学問をすることはそれほど一般的な現象ではなかったそうです。かならずしも、学問が武士に必須の条件とは言えませんでした。むしろ、薩摩藩では武士が「寺入り」を命じられることは、罪を犯した青年若しくは成人の謹慎または教誨(きょうかい:おしえさとす)を意味していました。他にも、青年武士が乱暴狼藉を働いたことに対して、遠島処分を申し付けているが、その際にも四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)を与えて、一定の自己教育による反省の期間をおいて、再度呼び戻し、家老立合のもと四書を読ませています。学問はこの頃からすると、教育を日常的にうけるものというよりは、罰に近い意味合いを持っていました。

 

徳川幕府の統治体制により、戦争の可能性が少なくなってくる世の中において、武士の職分は戦闘者から官僚といった意味合いが強くなります。そのため、領国経営に必要な官僚としての資質と能力が必要とされるようになりました。そのため、儒教や中国宋代に官僚を目指す士大夫階層(支配者層)に必要な教養として生まれた朱子学は、こうした日本の封建官僚のあいだでも教養ベースとして学ばれるようになりました。

 

藩校にはそこに仕える藩士のためを目的としたものであったものでありましたが、岡山藩のように庶民の通学を許した藩もあったようです。特に幕末に近づくにつれて、武士・庶民の共学を認める藩が増えてきました。これは、藩の政策を行うために、藩士だけではなく、地方役人として藩政の末端機能を担う上級農民や上層町民からも有用な人材を育成する必要があることや、一揆や逃散などに対する秩序意識を再編しようとする意味合いもありました。ただ、こういったことは全国の藩が全体で行っているということではなく、中期以降でも、武士・庶民の共学を分離して、藩士に教育を強制する藩校もあったのを見ると、各藩において、その取り組みは様々であったといえるでしょう。

 

このように見ていくと、中央集権で全国的に統一された教育政策ではなかったため、各藩における教育は様々であったようですね。領地を治めることにおける教育はそこの地域にかかっているわけで、それぞれの地域に根差した教育が考えられてきたのでしょう。また、そもそも学問を知るということが罰の一種であったということです。今でいう「補習」のような意味合いもここにはあるというのは、今の時代においても、近世の時代においても共通するところなのだろうと感じます。

 

教養を得ることは官僚意識を持ち、統治することに役に立つということも言えるのでしょう。そういった意味では、それぞれに学ぶ目的というものが今以上に意識されてきた時代であることが見えてきます。

藩校の始まり

庶民の中で広がってきた寺子屋文化においても、武家の中で行われてきた教育においても、そのどちらも寺院教育から始まりました。しかし、武家の教育においては寺院教育からの朱子学から孔子など中国の儒者たちを祖とする儒教が始まり、今度は孔子などの儒者から日本の菅原道真などを中心とした学神へと学びの体型も時代により、大きく変わっていきます。そして、その目的は平安時代から戦国時代においては、自身の領地を守るために、それぞれの大名の国での独自での教育がありました。その後、天下統一が果たされ、今度は中央集権の政治統制が取られるようになり、徐々に教育がまとまってきます。これが儒教などの学校につながっていったのです。そして、中央で学んだことを各藩に戻って教授として教育を施すことが出てきました。

 

「藩」というのは、徳川幕府では全国を276の藩にわけ、徳川家の親戚筋にあたる新藩、関ヶ原の戦い以前からの徳川家の家臣である譜代、そして、関ヶ原以後徳川家に恭順の意を示した外様の三種類からなる大名を各地に巧妙に配置し、武家諸法度や参勤交代制度などで厳しく、その動静を監視しながら相対的な判断をしていたと沖田氏は言っています。

 

しかし、こういった各藩における統制は厳しいものであったが、教育に関しては各藩の自由な裁量にゆだねられていたようです。そのため、この頃においても、今の時代のように中央で決まった教育施策が全国に降りていったというよりも、各藩の教育政策は藩主や藩の首脳部の興味や関心によって大きく左右されたのです。その後、藩政改革とそれを遂行する人材確保のために人材教育の必要性が高まってくるにしたがい、学校の開設が不可避となりました。藩校は276ある藩の中で、255の藩が藩校を設置し、そのうち、187藩が宝暦期から慶応期のいわゆる藩政改革が行われた時期に藩校を開設しています。

 

この藩校の登場から教育の考え方が、これまでの伝統や文化といったものを伝える意味合いのものから政治に関わるもの、政治的課題として認識されるものへと進化していくことになります。

 

これまでの経緯を言うと、もちろん、自身の領地を守るといった意味での政治的な意味合いはありました。しかし、そのことにおいても、内容は実務的な内容を含んだものというよりは、リーダーシップやマネジメントといった人格形成に多くの意味があったように思います。どちらかというと自己啓蒙ですね。そこから、今の知事のようにその地域の施政を司るという意味では実務的なものも含まれたものとなり、より複雑であり、より実践的な意味合いへと変化してきたのだろうということが分かります。

 

時代の変容と共に、教育のありかたが変わっていくのは常ですが、こういったことから、時代は大きな変革を起こしていくのです。