教育制度の変革

島津斉彬は薩摩藩において、藩の教育理念と造士館の改革構想を行い、その内容は実に幕末期における日本の課題を「学問の閉鎖性の打破」と「政治の閉鎖性の打破」といった2つの側面を通して、教育や学校の改革を行っていきました。その取り組みは東洋的な考えの朱子学だけではなく、西洋の文学も幅広く取り入れ、今後の日本が課題に直面した時にしっかりとしたかじ取りができるような資質を目的に変えるといった柔軟な思想は非常にこのときにおいては新しいことであったと思います。

 

また、斉彬はこのほかにも他にはない教育政策を進めます。それは留学の勧めです。武芸において様々な流派から学ぶために武者修行と称して、全国を回ることは珍しいことではありませんでした。学問においても、斉彬は「蘭学稽古」と称して、他藩の蘭学者のもとや大坂の緒方洪庵の適塾に藩士を送っています。こういった留学の奨励について斉彬は「他国で学ぶことはその人間を自律成長させるばかりでなく、とりわけ将来藩の指導者となる上級武士の子弟にとっては一般の人々の苦しみを知ることができ、その国の事情を知り、視野を広めることが出来る」と述べています。

 

他にも西洋科学を取り入れた殖産興業政策を積極的に行いました。殖産興業とは「明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策」(WikiPedia)です。精煉所や反射炉、溶鉱炉の建設、その他にも蒸気船に関する洋書の研究や建造にも積極的に着手していきます。このような開化政策のために、開物館と集成館を開設しました。開物館では、西洋科学に関する洋書の翻訳をはじめ、火薬類やアルコール・硫酸・塩酸等の薬品類およびガラスの製造法や写真技術等の実験研究が行われました。ここでの研究成果をふまえて、集成館は最盛期には千人以上の職人が従事し、兵器・薬品・ガラス・ガス燈・電信機・紡織機・農具・陶磁器などの生産に従事しました。

 

こういった実学も学問の中に取り入れていったのですが、あくまで、造士館の教育の目的は「危機時代に時勢認識を通して、積極的かつ主体的に国家の秩序および統合を担う政治主体の育成」にあります。そして、それは指導者としての武士の教養形成において根底になる文武両道の「文」に関わるところであったのです。

 

こういった斉彬の教育政策は後の西郷隆盛や大久保利通といった明治維新を行い、明治政府の基本構想を立てた政治家や五代友厚のような殖産興業を通して近代日本の富国政策に貢献し、薩摩藩留学生として幕末にイギリスやアメリカにわたり、西洋の政治・教育制度を学んで近代学校制度の確立に寄与した森有札などを輩出することにつながりました。

 

常にこうした意識の高まりの中で、斉彬は先の見通しといった目的はブレず、教育という本分の目的をもって教育変革を行っていったのですね。また、その動きは今の日本においても重ねられるように思います。リーダーシップを持つものがいかに目的を見失わず、今行うべきことを行っていくのか、その見通しを持つことが求められるように思います。