薩摩藩の藩校の動揺

薩摩藩では武芸練習場の演武館も開設されていた。一般的に藩校といえば、学問を中心に創設されたものと考えられがちではありますが、あくまでのその理念は文武両道であったようです。また、開校にあたって、薩摩藩の島津重豪は学規を定め、その第一条で「注解は程朱の説を主とし、みだりに異論をまじへ論ずべからず」と言っています。これは朱子学を正学とし、第四条では「古道を論じ古人を議して当時のことを是非すべからず」と記しています。ここでいわれる古道とは徂徠学を意味しています。この徂徠学は「古い辞句や文章を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問」のことを指しています。この徂徠学をもって「当時のことを是非すべからず」、つまり当時の良し悪しを論じることを嫌ったのです。

 

このことにより、藩内では徂徠学を信仰する派と朱子学派で対立がおきます。異説の排除によって、藩内の学党の政治的対立といった危機意識を反映したのです。島津重豪が創設した造士館は重豪の好学趣味や現実にそぐわない開化政策と言われていました。しかし、元禄期を境として学問や思想が多様化していくなかで、「当時のことを是非」とする学問への対応策が必要になり、今の時代に向けた学問の必要性を感じていたというのです。だからこそ、異説の禁止条項を盛り込んだのです。

 

こうした流れの中で、薩摩藩の造士館では朱子学を正学として、政治的な議論を禁止する学規が出されました。しかし、朱子学はもともと訓詁学を否定し、政治実践と結びつく実学として逓送され、「治教一致」ということを骨子としました。しかし、政治的な議論を禁止することにより、朱子学でも政治性が排除されると、たどるべきは訓詁学や詩文中心の芸術至上主義になるのです。こういった造士館の学問動向は朱子学を信奉し「近思録」(朱子学の入門書)を特に重視し、自分自身が実践し動くことを主張する藩士グループが登場し、造士館の改革を行いました。そして、この流れは藩校改革のみならず、藩政すらも巻き込んだ政治事件にまで発展するのです。

 

そして、その後、島津斉彬(1809~58)が藩主に就任します。このとき造士館が本来の意味としての学校の機能を発揮し始めるのです。