民族性の今と昔

「日本人にとっての未来は子供であった。」と以前、宮本常一氏の紹介の中で日本の子ども観で話が出ていましたが、宮本氏は日本は子どもを大切にする気風が一般的にあり、「子供本位」であるということを「日本の子ども達」の中で紹介しているとあります。

 

その著書の中で宮本氏は「子供本位家族呼称」ということに着目しています。「日本の部落社会では、人を呼ぶのに、その姓や屋号をいうこともあり、また、名を呼ぶこともあるが、それ以外にその家の小さい子どもを中心にして呼ぶ呼び方がある。たとえば幸一という子どもができるとすると、その父は、それまではただの名前だけでよばれるか、名字のみを呼ばれていたのだが、「幸一のお父さん」と一般に呼ばれるようになる。」つまり、家庭内にも外にも子どもを中心として名前を呼ぶ呼び方があると言います。こういった日常の中で何気なく口にしている話し方一つとっても、日本では子どもを中心にしている文化というのが見えてきます。

 

もちろん、そうは言っても、貧しさのあまり家の犠牲にされていた子どもたちが大勢いたことも確かです。貧しさのために子どもを売り、工場などで働かせていました。明治~大正にかけての工場にはたいてい少年工がいたと宮本氏は言います。しかし、宮本氏はこうも書いています「いちがいに子どもが大切にされていたとはいえないが、本質的には子どもは大切にされるべきものとの考え方はあった。お互いにわかっておりつつ、虐待される子どもの多かったことに、人々の目ざめのおくれや、社会全体の貧しさからくる社会悪が見られるのである。さて、もともと子どもが神聖視され、尊ばれたものであることは、子どもと祭り行事の関係を見てゆくとあきらかになる」このことをうけ、藤森氏は「子供への虐待が後を絶ちませんが、どうも、最近の子供虐待は当時の虐待とは少し違うようですね。」と言っています。

 

虐待は保育の仕事をしていると決して遠い話ではなく、実に身近にある話です。私の感覚であると、「体罰」は今よりも昔のほうがずっとあったと思います。体罰は当然してはいけません。子どもたちのモデルとなるためにはそれよりも対話や会話での解決がより社会では必要になってきますので、暴力で問題は解決しないということを伝えなければいけません。ただ、昔と今とを比べると「日本人にとっての未来は子供であった。」という感覚は違ってきているようにも思います。親の思ったように子どもを育てるということは果たして未来につながるのだろうか。今の社会は物が豊かになり、便利になっています。しかし、日本の子ども達の貧困が問題にもなっています。便利でモノがあふれているのに貧困といった矛盾の裏にはもっと重要なものが隠れているように感じます。