ラットの脳と自殺者の脳

前回の紹介にあったラットの実験によって、生物学上の母親の習慣ではなく、育てた母親の習慣が子ラットの環境にうまく適応することに至ったことが分かってきました。それは遺伝上の要因によって高いLG値を出すのではなく、環境によるものが大きいということが分かったのです。そして、それはミーニーをはじめとする神経科学者たちに、LGの効果と似たものが人間の場合にも起こるのではないかと興味を持たせ、実際その証拠を発見しました。

 

ここ十年にわたる遺伝学者との共同研究のなかで、母ラットがなめたり毛づくろいをしたりすることで与える影響は子ラットのホルモンや脳内化学物質の範囲にとどまらないことが立証されています。そして、それはもっと深い領域、遺伝発現制御にまで及ぶというのです。生まれて間もない子ラットへの毛づくろいは、DNAの制御配列への化学物質の結合に影響するというのです。そして、遺伝子配列の技術を使って、毛づくろいによって子ラットのゲノムのどの部分に「スイッチが入る」のか、つまり影響を受ける部位を突き止めることができました。それがある場所はまさに成体になってからストレスホルモンを処理する場所、つまり海馬をコントロールする文節(セグメント)だったのです。

 

ラットでは、ほんの小さな親の行動がDNAに対して持続的な効果をもたらすことが実証されました。この発見を齧歯(げっし)動物の世界の外まで広げたのは、その後ミーニーのチームがおこなった、人間の自殺者の脳細胞を使った実験でした。子どもの頃に冷遇され、虐待された自殺者から採取した細胞と、そうした経験のない自殺者から採取した細胞が使われました。研究者たちは脳の細胞を切り取り、海馬で起るストレス反応に関係するDNAを検査しました。この海馬はラットにおいて生後早い時期の親の行動でスイッチが入り、その後の行動に強い影響を及ぼした部位である。子どもの頃に虐待された経験のある自殺者の細胞では、DNAの全く同じ場所にメチル化(DNAの制御配列への化学的結合)の痕跡が見つかったのですしかし、その効果は正反対でした。子ラットの場合は毛づくろいによって健全なストレス反応の機能にスイッチが入ったわけですが、自殺者のケースではスイッチが切れてというのです。

 

この研究は非常に面白いのですが、この結果自体は人間のストレス処理機能に親子関係の影響が及ぶことを決定的に証拠づけるわけではないと言います。しかし、ミーニーの調査を踏まえたいくつかの革新的な研究のおかげで、もっと堅固な証拠も見つかり始めています。それはニューヨーク大学の心理学者クランシー・ブレアの1万2千人を超える幼児を生後間もない頃から追跡するという大規模な実験から見えてきたのです。