大人と子どもの思考の違い

赤ちゃんと大人を比べると様々なことが見えてきます。これまでの外部意識にしても、内部意識にしても、大人とは違いあかちゃんは「今を生きている存在」であるということが見えてきます。一度整理してみると、赤ちゃんは過去の具体的な出来事を、現在の出来事と別に記憶して、その記憶を何カ月も保つことができます。計画を立て、可能世界を創造し、それを現実に変える方法を描くこともできます。しかし、赤ちゃんや幼児は大人のように、自分の人生を過去・現在・未来をつなげるように自伝的記憶として見たり、未来のために今の自分を判断する実行制御(機能)をすることはできません。大人のように過去から未来への時系列として人生は実感していないのです。時と共に移り変わる思考や感情の流れに浸るという感覚もないのです。

 

これはどうやら、乳幼児には、過去と未来に投射される「わたし」がないということがわかります。過去の自分の精神状態を思い起こすこともできません。何があったかは覚えていても、それについて自分がどう思ったか、どう感じたかは忘れています。同じように、すぐ先の未来は思い描けても、遠い未来の想像はできません。未来の自分が何を考え、何を感じるかを予測することができないのです。

 

では、この「わたし」というものが赤ちゃんにはないのかというと、ごく幼い赤ちゃんにも多少の自意識はあるとゴプニックは言います。鏡に写った自分を認識し、他人と区別することはできます。ビデオに写った子どもがだれかということも理解しています。しかし、赤ちゃんの心の中には、大人のような内なる監視人、自伝作家、経営者といった客観的に自分を見る視点というは持ち合わせてはいません。

 

ゴプニックはこのような赤ちゃんの様子を見て、「幼児の意識には大人の意識がもつ要素がすべて含まれているのだ」と言っています。過去の出来事のイメージ、立てた目的の見通し、奇妙な空想やごっこ遊びの反事実、さらに抽象的な概念まで、すべてがそろっているというのです。そして、これらの違い、今感じていることと過去の記憶との違い、空想と未来の目標との違いも区別がついているのですが、時系列としてそれらのことが過去から未来へとつながっているようにまとめられないというのです。

 

これらのことをゴプニックは「大人は外部意識がスポットライトであれば、内部意識は道と言える」と言い、子どもの場合は「注意はランタンの光のように拡散していて、その内部意識はあてどなく放浪しています」と表しています。大人は未来にも過去にも道を敷き、予測したり、振り返ったりしていくなか、子どもはランタンが映し出すものそれぞれに反応し、冒険していくのです。

 

こういった思考の違いを保育者は子どもと関わる際、理解しておくようにしなければいけないかもしれませんね。大人と子どもとでは、そもそもの思考の方法が違うと言えるのです。こういった子どもの発達における理解において、今、そこにある興味のあることに子どもたちは好奇心を寄せます。大人とは違い、好奇心や探求心が強いのは今ある環境を最大限楽しもうとしているからなのかもしれません。それを大人の道的な見方でもって、その考えを子どもに当てはめて求めるのは違うのだろうと思います。