教育と経済効果1

アンドレアス氏は著書「教育のワールドクラス」の中で、たびたび、教育と社会経済との関係を話しています。2015年初期、アンドレアス氏はスタンフォード大学のエリック・ハヌシェック氏と、ドイツ経済研究所のルドガー・ウイスマン氏と共に、UNESCOの世界教育フォーラムの報告書において、持続可能な開発目標の一部として、世界共通の教育目標について議論しました。ハヌシェック氏とウイスマン氏が示したのは、学校教育の質は、国や地域が長期的に生み出す富に関して、信頼のおける予測因子であることです。

 

学校システムの質を損ねることなく、皆が学校教育を受ける権利を保障することは、特に多くの子どもたちが未だ学校に通えない貧しい国や地域において経済的なメリットを生み出すというのです。さらに教育の質の向上によって生じる大きな影響は生徒全員が基本的なスキルを身につけると、経済への直接的かつ長期的な恩恵が大いになるということです。このことは、15歳の生徒が2030年までにPISAの習熟度レベルにおいて最低でもレベル2を達成した場合、経済成長と持続可能な開発の恩恵は相当なものになるということを示したのです。

 

西アフリカのガーナ場合、中等学校への進学率は46%と低く、15歳の生徒の習熟度レベルも最も低かった。しかし、このガーナで最低限の基本的な読解力と数学的リテラシーを習得できるように教育を施せば、今日生まれる子どもの生涯にわたるメリットは現在のGDPの38倍にもなることが示されました。低所得・中所得の国や地域では、現在のGDPの13倍のメリットになり、今後80年でGDPは平均で28%高くなり、中所得・高所得の国や地域では、GDPは平均で16%高くなります。つまり、教育の質を高めることで得られる恩恵というのは何も低所得な地域だけではなく、高所得な国においても大きなメリットがあるのです。

 

アンドレアス氏らの調査によって見えてきたのは、子どもたちの未開発のスキルの中に埋もれている富は、天然資源から引き出せる富よりもはるかに大きいということを、資源豊かな国に対しても突きつけました。「天然資源は消耗する。使えば使うほど少なくなる。知識は成長する。使えば使うほど増えていくのである。人類の発達に最大の影響を及ぼした科学的発見は、無知に気づき、知識を高める手段としての学習を発見したことである」といっています。

 

このことを実現したのがシンガポールでした。シンガポールは天然資源がなく、常に他国に頼ることがある。そのため、資源が少ないために、人材を一つの資源として育てることを中心にしていると聞きました。「金融・建築」などを担う人材を育てることを大切にしているのです。それほど、人という一つの「資源」から得ることができる人材というのは大きいのでしょう。日本においても、決して世界的に見て、学力が低いというわけではありません。しかし、私の主観としてはどこかで停滞しているような気もしています。他国が様々な取り組みや方法を模索し、進めいるなか、日本においては過去の教育をそのまま踏襲し、変化に消極的なように見えます。景気の低迷が長く続いているというのも、もしかすると教育にこそ問題があるのかもしれません。

育成

保育園や幼稚園でもさまざまに行われる「研修」ですが、私はいつもこの「研修」に疑問を感じることがあります。「果たしてこの研修を受けたからといって、保育がよくなっていくのであろうか」と思うこともしばしばあります。様々な知識を持つことや知ることは当然必要なことですが、それを現場で実践できなければ意味がありません。そのため、現場の先生たち以上に管理者側が常に新しい情報をアップデートしていかなければいけないと思いっています。そして、そのうえで、現場の先生たちが得てきたものを実践につなげていくというのであれば、園の理念と研修で培ってきたものとが合うようになってくるのだと思います。つまり、研修に向かう先生方は園の理念を理解していなければ、研修に行ったとて、園にフィットしたものが持ち帰ることができないのではないかと思います。

 

では、どうすれば教員のスキルをアップデートできるのでしょうか。アンドレアス氏は「教員の能力開発では、教員養成の初期段階、すなわち教員として仕事を始める前に教員が身につける知識やスキルに焦点を当てる傾向がある。同様に、教員の能力開発のためのリソースの大半は就学前教育に割り当てられる傾向がある」といっています。つまり、そもそも良い教員を作っていこうと思うのであれば、就学前教育つまり、乳幼児教育から能力開発の方法を考えていかなければいけないといっているのです。これはどういったことを意味するのでしょうか。アンドレアス氏は「今日の教員が教育を受けた数十年前の教員養成では、これらの課題を予測することはできなかった」と話しています。常に子どもの環境や様子は時代によって変化していきます。そのため、時代にあった保育や教育を行うため、つねに変化が求められます。

 

アメリカのオンタリオ州のダルトン。マクガインティー前知事は、2010年に「新世代の教員を待つよりもむしろ、既存の学校や教員に投資し、彼らが改革に取り組むようにしたり、彼らの改善への取り組みを支援することが大切だ」といっていたそうです。シンガポールでは、10週から22週間の学校での教育実習に加えて、デジタル技術を用いて国が選んだ教室にリアルタイムでアクセスできるようにして、シンガポール国立教育研究所は教員養成に教室を取り組んでいます。上海では、効果的な専門能力開発には、継続的な教育・実践・フィードバックが含まれており、フォローアップのための適切な時間が必要である。成功したプログラムは、現職教員が実際ン行っている授業に受講者を巻き込むものにしている。どの国も教員の専門性や継続的な改善への努力というのには課題を持っており、「質」というものには様々な取り組みを行っているのですね。

 

ただ、その中でも、成功したプログラムは、学校を学習する集団として発展させることで、教員全体で知識を累積していくことへの関心が高まっていくことができていることにあるようです。それぞれがそれぞれに自律した集団というのはやはりどんな業態であっても、優秀な集団であるのですね。そのために、どういった集団構造を作るのか、そこに大きな意味があるように思います。

教員

これまではテストの在り方について、PISAから見るとどうかということを紹介していました。では、つぎに「教員」についてはどうでしょうか。当然、教育においても質が良くなっていくにあたって、教員の質というのも求められてきます。

 

アンドレアス氏は「教員は学習成果につながる学習環境を作り出すことができるような専門的な知識(例えば、学問的な知識やその学問におけるカリキュラムへの知識、その学問を生徒がどのように学ぶかに関する知識など)そして、それは時代と共に変わってきたりするので、ある意味で、生涯学習者として職業的な専門性を伸ばすための探求や研究のスキルも含んだものを期待されている」といっています。そして、教員が生涯学習者にならない限り、生徒もそのようにならないといっています。しかし、実際教員は仕事として今あげた定義以上のことを期待されていると言っています。

 

それはどういったことかというと「教員には、情熱的で思いやりがあり、思慮深いことも期待している。」というのです。それはすなわち、「生徒が何かに参加し責任を持つように促したり、異なる背景と多様なニーズを持つ生徒に対して、寛容さや社会的結束を促すこと、さらに生徒への継続的な評価とフィードバックをおこない、生徒が自尊感情と仲間意識を感じられるようにし、協同学習を促すことである。そして、教員自身がチームとなる、他校や保護者と一緒に共通目標を設定し、目標達成のための計画を立てて行動することを期待している」ことというのです。確かに、教員に対しては、単純に教科について教えるだけではなく、生徒への人間性や感性といってものにおいても求めているのです。日本ではこれを「学習指導」と「生徒指導」というように定義づけていますね。

 

シンガポールの国立教育研究所のウン・タン・セン局長はこのことについて「教員は同時に様々な学習者のニーズに答えるため、マルチタスクの専門家である必要がある」と述べています。教育現場は常に流動的に動いていますし、予想不可能なところがあり、どのように反応するかを考える時間もありません。様々な状況の中で、生徒との関わりにおいても、学習指導においても柔軟でなければいけないのです。これは保育においても、言えることです。しかし、保育においては学校教育よりもより「生徒指導」の方に比重が大きくなるのは言うまでもありません。このように教員というのは非常に高度なスキルを求められるのです。

 

ここからは私の主観なのですが、だからこそ、「何のために教育をするのか」や「今何が社会に必要とされているのか」ということを現場レベルにおいても、意識されることが質に大きく関わってくるのではないかと思っています。以前、自分が実習に行ったとき、そのころは『ゆとり教育』が始まったころでしたが、その頃は「なぜゆとり教育が必要なのか?これからの受験は変わっていないのに」というように、理想と現状が違いすぎ、目的が現場まで降りていないことや、教科にばかり目的が言っている現状が目に見えました。そのため、ゆとり教育というものの本来の理想とは結果的に大きな違いが生まれ、先日アンドレアス氏が言っていたように、「浸透しなかった」ということになったのです。テクニックだけではなく、本質としての理解というのも大切ですし、アンドレアス氏が言うように「教員こそ生涯学習者でなければいけない」というのは教員だけではなく、保育者自体もその意識を持っていないければいけないのだと思うのです。

 

 

 

学び方

勉強の本質とはどういったところにあるのでしょうか。以前、自園の先生と「学ぶこと」と「真似ること」の違いを話する機会がありました。「真似ること」はただ、「そのことをそのまま行動する」ことで、「学ぶ」ことは「真似ることから、その深い部分を知り、次に生かす(活用する)」ことではないかと話をしました。これはあくまでも私個人の見解なので、語弊もあるでしょうし、言い回しもわかりづらいかもしれません。例えば、台形の面積の公式を小学校で習います。「(上底)+(下底)×高さ÷2」、実際この公式をただ覚えている人もいるでしょう。しかし、よくよく考えてみると単純に四角形の面積を出して、半分にするということが想像できていれば、公式を覚えなくてもいいのです。これが「概念を知る」ということだと思います。これに近いことがPISAでもありました。

 

PISAでは2008年の金融危機後、政治家は学校での金融教育を強化するため、このスキルをPISAに盛り込むことにしました。しかし、2014年の結果では、生徒の金融リテラシーと生徒がどれくらい金融教育を学んでいるかという間に関係はなかったのです。当時PISAの金融リテラシーでトップだったのは上海でしたが、上海は金融教育を多くは行っていませんでした。しかし、上海の学校では、数学教育で深い概念的理解と複雑な推論を育てていたことで成功したといえるのです。上海の生徒はまるで数学者のようにかんがえ、確率、変化、リスクのような概念の意味を理解しており、これらの知識をなじみのなかった金融の文脈になんなく転化させ、活用したのです。結果、その分野の一流の専門家だけでなく、生徒の学び方を理解している人、知識やスキルの需要と現実社会での活用法を理解している人々がいることが必要なのです。ただ、教科書を進めることが教育ではないのです。学問分野だけではなく、生徒の学びと発達について知見を培ってきた学習科学を拠り所にして構築されることも非常に重要なのです。

 

こういった視点は今の時代はそれほど重視されていないように思います。どちらかというと「今習っていることは将来役に立つから」くらいで抽象的に進められることがあります。具体的に、何がどのように使われるのか、目的だったものがないのも日本の勉強嫌いなことにつながっているのかもしれません。人間は「学ぶこと」や「工夫すること」で生き残ってきました。特に日本人は「工夫」というところにおいては文化的に秀でていますし、これほどまでクイズ番組が放映されている国もないような気がします。それほど日本人は学ぶということが好きな民族であるように思います。しかし、なぜ「勉強嫌い」が多いのでしょうか。そこには目的意識や夢とかもあるのかもしれません。そここそ、保育が関わる教育であるように思います。

 

それぞれの発達段階で、それぞれの保育や教育形態が必要。しかし、その中心には子どもたちが「自分で生きている」という実感がなければいけないのかもしれません。そのために大人は「見守る」ということが大切ですね。

日本の教育改革

アンドレアス氏は「生徒の学習時間は限られているにも関わらず、私たちがもはや適切ではないかもしれない教育内容をあきらめきれないために、若者は過去に囚われの身となり、学校はこの正解で成功するために必要な価値ある知識やスキルや人間性を育てる機会を失っている」といっています。なんとも耳痛い話です。そして、このことは過去に起きた『ゆとり教育』に通じることです。

 

アンドレアス氏の話では「1990年代の終わり、日本はより深く、学際的な学びの時間を作り出すために学習指導要領の内容のほぼ3分の1をへらし、この状況に対応しました。教員はこの『ゆとり教育』という目標に賛成していたが、彼らがこの目標を教室で実践するための十分な支援を政府や地方の教育行政から受けることはなかった」といっています。そして、実際の中学校の教員においても、「過去に効果的であると証明され、日本のテスト制度によって評価されてきた実践から逸脱することに消極的だった」といっています。結果、「2003年のPISAで数学的リテラシーの低下が明らかになったとき、保護者は、新しい学習指導要領が子どもたちの前途に横たわる問題を解決するために用意されたものだと信じられなくなった。そして、この教育の不足だと感じたものを埋めるため、これまで以上に塾に関心を持つようになった」と話しています。

 

このことは当時、私は教育実習生として中学校に行っていたので、直接感じることがありました。「ゆとり教育」や「総合的学習の時間」について、現場の先生があまり理想を感じていなかったというのは事実であり、その本来の意図と実際に現場で求められる意図とが大きく違っているというのを感じました。どうしても、保護者も現場にいる教員も将来、突きつけられる「受験」というものに目が向けられます。アンドレアス氏は「日本のテスト制度によって評価されてきた実践」と話していますが、どうしても、自分たちが受けてきた教育からも変わることに消極的な雰囲気があったように思います。そういった意味では行政や政府の支援や理解が不十分であったというのは確かに理由の一つになるでしょう。

 

これは保育においても、同様なことが言えます。保育を変革するにあたっては、やはり保護者からの不安の声や不信感が起きました。どうしても、保守的な考え方になるのはしょうがないところです。だからこそ、保育や教育の本質とはなにでどういったところをしっかりと育んでいかなければいけないのかを考えなければいけないのです。そして、その課題は学校での問題だけでなく、社会にあり、教育と社会が密接に関係しているということをもっと意識しなければいけないのだろうと感じます。

 

当時の日本はそこら辺をしっかりと捉えていたのです。実際、アンドレアス氏は「日本はほかのどの国よりも早く改善に取り組んでいた」と言っています。そして、「PISAの問題解決能力とは『ゆとり教育』が強化しようとした創造的で批判的な思考スキルを引き出すものだった。しかし、改革は揺り戻しの方向に進み、この数年で学習指導要領の内容量が再び重視されるようになった」といっています。これはとても残念なことです。しかし、またここでアクティブラーニングと名前を変えて、教育形態が見直されようとしています。そういった意味ではまだまだ改革は続いています。