武士の教育から半官半民へ

徳川家康が幕府を開き、武士を対象とした教育は戦闘者から意図的・組織的な教育に変化していきました。また、寺院教育だけではなく、朱子学の思想も多く入ってきた時代でもあります。その一人が林羅山です。羅山は寛永7年(1630)に上野忍岡に家塾を開設しました。家塾とは幕府や藩に仕える儒者が、公務とは別に門弟をとって教育する形態をさしています。

 

そして、寛永十年(1633)に三代将軍家光が日光東照宮参詣の帰途に林家の聖堂に立ち寄り釈奠に参加しました。この聖堂とは孔子をはじめ古代の賢人を祭る「場」のことを指し、孔子廟とも言われる。そして、これを祭る行事を「釈奠」(せきてん)といいます。家光はこの頃から釈奠に参加して以来、これが慣習化されることになりました。孔子の徳を讃え、その権威を分有することは、武断政治から文治政治への移行期の権力者にとって、その権力の正当性の根拠を提供するものであったからです。

 

その後、寛文元年(1661)幕府により、聖堂の大改築が行われました。林家の家塾は弘文館と名付けられ、修史館と学舎や書庫が作られました。修史館は幕府が林家に国史の編纂事業を命じ、史料収蔵の文庫として設置されたもので、大改築の翌年から行われました。

 

こういったことから聖堂と修史館は幕府の官立的要素を帯びることになります。しかし、一方で弘文館は林家の家塾として存続していました。つまりは半官半民的な要素をもっていたのです。そうなってくると学生も増加していきます。弘文館の入門者名簿にあたる「升堂記」(しょうどうき)には、開塾から約50年間に310名の入門者がおり、ほとんどが身分不明者であったのです。そのうち83名が藩士身分であったと日本の学校史の研究をしている石川謙は言っています。この藩士は後に各藩の藩儒となり、それぞれの藩の教育振興に貢献していきます。

 

では、この頃の教育過程とはどういったものだったのかというと、五科十等制を採用していたとあります。五科とは「経義・博読・詩文・史学・皇邦典故」からなり、塾生の学力の発達に応じて十干(じっかん)と言われる十二支と共に使われた古代中国の暦法を用いて10段階に分けられています。まず、下等生(葵・壬・辛・庚)、萠生(己・戊・丁)、特生(丙・乙・甲)に分けられた。このほか、下等生に(等外・初等)の2級が設けられていました。

 

家塾において塾生の発達に応じてクラスが分けられるというのは面白いですね。このころは年齢で分けるという概念もないでしょうし、純粋に「教えを修める」ということが目的であったでしょうから、習得レベルに応じたクラス編成ということが自然と行われていたのだろうと思います。まさに異年齢教育の考え方が自然とそこにはあったのだろうことが見えてきます。