幼児

功利主義と義務論

乳幼児期の道徳観の原点に功利主義と義務論という倫理学を二分する理論があります。この功利主義というのは手段を問わず、最大多数の最大幸福を達成することです。そして、これに対し、義務論は、ある行為にはそれがどんな結果をもたらすかに関わりなく、本質的な善悪があると主張しています。この二つの立場を対比するため、よく引き合いに出されるのが「トロリー問題」です。

 

この問題では「あなたの目の前でトロリー電車が壁に向かって突進しています。衝突すれば乗っている5人全員が死ぬでしょう。でもあなたには、切り替えスイッチを操作し、電車を別の線路に引き込むことが出来ます。その場合、そちらの線路に居る別の1人がひかれてしまいますが、乗っている5人は救えます。あなたはどうするべきでしょうか」という問題を出題するのです。つまり、最大の幸福を求めるなら一人の犠牲には目をつぶるということになり、ほとんどの人がこの質問に対し、1人の犠牲が出ることを選択するようです。そして、これが功利主義的な考え方です。

 

これとは別のバージョンの問題があります。「あなたは暴走中のトロリーの前方にかかった架線橋に、大柄な男が立っているのに気が付きました。もしあなたがこの男を線路に突き落とせば、男の巨体で電車を止め、乗っている全員を救えます。(あなた自身が橋から飛び降りても、あなたの体では電車は止まらず。男の巨体でならとまる)あなたはどうするべきでしょうか。」こちらの問題では、多くの人が直感に頼り、見ず知らずの人を橋から突き落として殺すのはどんな理由があろうと許されないと判断します。これが義務論的な判断です。

 

こういった功利主義と義務論の論争は歴史が古く、哲学、心理学だけではなく、神経科学の分野でも膨大な論文が書かれているようです。この判断においては哲学者は立場をはっきりとさせたがりますが、一般人はこの問題に関して、ケースバイケースで時に功利主義者となるときもあれば、義務論者になる場合もあるのです。そして、その決定に関わるものはちょっとした要因によって変わります。

 

ただ、子どもの視点からすると、功利主義も義務論も根本的な違いではないようです。というのも、これらの大元にあるのは乳幼児が他人に対して抱くのと同じ、他者への共感だからです。ゴプニックはそもそもなぜ、私たちは他人の利害を気にかけるのか?と問いています。功利主義のスローガン「最大多数の最大幸福」と義務論者の「他人に危害を加えてはならない」というのは根本的に他人を幸せにしたいという思いが中心にあります。それは他者への情緒的共感を大前提に置いているからではないかというのです。そして、つまりはこういった感情の根底にあるのは幼いうちから人間に備わっている共感に基づく道徳観から始まっているのではないかというのです。人がもつ道徳観は乳児期から始まり、この根底は変わらず大人になってもその基軸となるもとは変わっていないのではないかとゴプニックは言っています。

サイコパス

人の道徳性というのは乳児期の子どもでも持ち合わせている能力であるということが分かってきました。ただ、世の中においては、サイコパスのように道徳的判断ができない人もまれにいます。このことについてゴプニックが紹介しています。サイコパスは「反社会性人格障害」と言われ、他人に直接共感することがありません。神経科学者ジェームズ・ブレアは、凶悪犯用刑務所にいる囚人で研究を行いました。殺人犯や強姦犯の中には、はっきりと違いがあり、熱情や誘惑にかられ衝動的犯行に走った人たちと、もともと罪悪感がないサイコパスに分かれていたのです。サイコパスはうわべは魅力的で口達者、人を操るのも巧みですが、他人を思いやらなければいけないことが分からないのです。

 

ブレアの研究ではサイコパスの大人であったり、そういった傾向がある子どもは平均的な人と比べ、恐怖や悲しみの表情を見ても動じないというのです。それでいて、怒りや軽蔑の表情はほぼ間違いなく認識できるというのです。そして、それは彼らの脳の反応を見てもあきらかで、ほとんどの人は恐怖や悲しみの表情を見ると、脳の中にある扁桃体問う部分が活性化されます。しかし、サイコパス傾向を持つ子どもは、平均的な子どものような反応的攻撃性を示さず、脅威を感じても食ってかかったりしません。いきなり冷淡に暴力をふるうというのです。彼らは赤ちゃんでさえ抱く他人への情緒的共感がないといえるとゴプニックは言います。しかし、それは他人を理解できないというというわけではありません。彼らは他人の願望や信念を言い当てる心の理論の課題はうまくやり遂げます。むしろ、この種の知識を利用し、人を巧みに操ろうとします。彼らができないのは、他人の恐怖や悲しみを取り込み、自分のものとして感じることが出来ないのです。そのため、普通の人ができる道徳的判断ができないのです。

 

こういったサイコパスの人間はある種の成功を収めるということも聞いたことがあります。冷淡で冷静な判断ができるからこそ、成功するケースもあるのです。海外サイト『The Conversation』にサイコパスに関する記事を掲載した、米エモニー大学のスコット・リリエンフェルト教授によるとサイコパスの人は「パッと見は大胆で魅力的だが、徹底的に不誠実で、冷淡、罪の意識に乏しく、衝動をうまく抑制できない」と定義されているといっています。そして、「冷血な人間や殺人鬼は、ほとんどいません。彼らの多くが、普通の人々に混ざって生活しており、他人を犠牲にするなど、自分の特色を生かして社会的成功を収めているのです」と話しています。

 

1940年 精神科医のハーヴェイ・クレックレーは「サイコパスの中には“普通の人間”の仮面をかぶり、感情的欠落や神経症的な部分を隠しながら、社会的に成功する者もいるだろう」とはなしていて、たとえば「凄腕のセールスマン」「街一番の美女と結婚する人」「政治的な成功者」を挙げたそうです。ある意味で、冷徹な判断を行わなければいけないといったときに躊躇なくできるということが特性としてあり、サイコパスの人はそういった特性を生かしたときに成功者としてなるというのでしょう。しかし、道徳的判断ができないということが凶悪な犯罪者を生むのも確かです。

 

ゴプニックは赤ちゃんは他人の恐怖や悲しみを自分の恐怖や悲しみとし、喜びも同様であり、少し成長すれば、他人の恐怖や悲しみを取り除こうとしたり、欲しいものを取ってあげようともします。このように相手の心情を理解するために、因果関係を理解することが重要になってくると言っています。

子どもの道徳観②

最近の発達研究では、子どもにも多少の道徳観があることが示されています。ただ、生得的な知識をもってはいるものの、成長につれて世界を学習し、世界と自分を変革する能力を持っています。世界を知ることとその変革を思い描くことは車の両輪のように行われていることはこれまでのブログでも紹介しました。最近の研究ではごく幼い子ども、早い例では新生児でも基本的な道徳感がみとめられることが分かっています。生得的で不変の「道徳文法」、固定的な情緒反応もあります。ただ、それだけに限らず、子どもでも大人でも、世界や自分自身についての知識が深まるにつれ、道徳的思考も修正されていきます。特に子どもは、世界についての理論の変革能力が高いように、道徳的な判断や行為の変革能力も高いと見られます。

 

では、そもそも「道徳」というものはどういったものを指すのでしょうか。私たちの道徳観というものは「他人と自分の関係についての基本的な考え方です」。「他人にしてほしいと思うことは何でも同じように他人にしてあげなさい」や、「自分がされて嫌なことは人にはしない」とよく言われますが、この道徳的要請は、考えてみると人が他人の立場に立つことができるという想定に基づいています。さらに「犯罪」で考えてみると、悪いことをした罪や責任を問えるかどうかは、「それが意図的だったか」それとも「偶然起きたか」がその分かれ目になります。これが法原理における「犯意」という考え方です。法制度も、法より前に道徳的に守るべきルールがあることを前提に作られています。

 

このことを踏まえたとき、ピアジェが、子どもは純粋な道徳的知識を持たないといった背後には、子どもは他人の立場に立ったり、他人の意図を推察したり、抽象的なルールに従うことはできないというところにありました。しかし、ピアジェの子の想定は現在の科学では否定されています。なぜならば、子どもには生まれつきの共感能力があることが分かったからです。新生児は他人に共感できるだけではなく、自分が相手と感覚を共有でしている子とも認識できます。相手の感情を自分に取り込めるのです。1歳児は、意図的な行為と偶然の行為を区別できますし、純粋に利他的な行動もとれます。3歳児は愛と思いやりという基本的な道徳観を身につけています。こ

 

ゴプニックはこういった幼児期の研究は、人間がお互いをいたわり合う理由を解明する手掛かりをくれると言っています。そして、それとは逆に互いにひどい仕打ちをし合うのはなぜかということへのヒントも与えてくれます。それは人間の道徳的な成功だけではなく、失敗や弱点にも新たな光を投げかけます。ごく幼い子どもでも、おとなと同じように怒りや復讐の衝動を持つことや、人を社会集団に切り分け、自分のグループをひいきしたり、一見無意味なルールでも、決められた以上はしたがうなどということが分かってきているといいます。

 

こういった子どもたちの行動は保育をしていると当たり前のように行っています。怒りや復讐の衝動などは、1歳児でも見えてきます。これらを道徳観とつなぎ合わせて見ることができるかということが重要なことで、研究を通して、子どもの新しい見方を得ることはとても勉強になります。こういった一つ一つの行動は親と子どもだけでは得ることができません。子ども集団での関りは道徳観においても、とても重要な環境なのだろうということが見えてきます。

子どもの道徳観

物事の因果関係から、過去や未来における見通しを赤ちゃんがもてるようになることや愛の理論を持つことの次にゴプニックは赤ちゃんの持つ道徳性について紹介しています。そもそも赤ちゃんに物事の良し悪しを判断する能力はあるのでしょうか。そして、その力どのように獲得していくのでしょうか。

 

そもそも道徳とは世界はどうあるべきか、人は何をすべきかを問うものであるとゴプニックは言っています。これまでの哲学者や心理学者は赤ちゃんの道徳性について、無縁なものであると思われていました。発達心理学者のジャン・ピアジェも、ローレンス・コールバーグも、子どもには道徳は理解できない、真の道徳観念が育つのは青年期以降であると言っています。子どもにとって、何が善で何が悪か、何が正しくて何が間違っているかは、ご褒美と罰、社会的な慣習で決まるのだと考えられていました。たとえば、親の言うことは正しくて、罰を受けるようなことは間違っているというのです。コールバーグは、純粋な道徳的理性を身につけられる人間は、大人でも一部しかいないと考えられていました。

 

ところがここ数年で、心理学者の中に、こういった考えを否定し、道徳性は人間にとって生まれつきのものだと主張する人たちが出てきました。ゴプニックによると、生得的な道徳観というのは、言語学者チョムスキーの言語観とよく似た考えです。それによると、更新世(役180万年前~1万年前)の間に芽生えた普遍的な道徳観が、私たちの道徳的思考を生涯つうじて制約しているというのです。これは「様々な言語の基礎には共通の普遍文法があるというチョムスキーの説のように、表層的な文化の違いを超えた普遍的な道徳文法のようなものがあって、そこから生じる道徳的直感の兆しが幼児にも認められる」といったものです。つまり、人における基本的な道徳観というは仮に文化をとおしたものであっても、その根本的にある道徳観念は大昔から変わっておらず、その始まりは幼児期から見られるというのです。

 

これとは別に違った生得説もあります。そては「道徳は知識ではなく感覚から生まれる」というものです。人間の道徳観は生まれつきのもので、固定された情緒反応だから、自意識をもった大人の推論による修正はほぼ不可能だというのです。つまり、これは道徳観とはそもそも持って生まれたもので、それ自体大人になったからといった変わらないというものです。ゴプニックはこの説に立つと、自分たちには道徳に関する新たな思考や発見、成長の余地がほとんど残されていないことになると言っています。

 

ゴプニックの著書によると最近の発達研究によると子どもでも多少の道徳観は持っているようです。では、子どもたちは道徳観をどのように持っているのでしょうか。そして、それはいつから、どのようについていくものなのでしょうか。

過去から未来

赤ちゃんの頃から因果関係を学び、人間は反実仮想を用い過去を予測することや自伝的記憶を用い過去を回想するといったことができるようになります。では、なぜ人間はこういった過去や過去の反事実に投資することをするようになるのでしょうか。それは、もし、過去がなければ、私たちに未来もないからだとゴプニックは言います。未来を思い描き、その実現に向けて介入するとき、わたしたちはその時点で、未来の自分の運命を真剣に考えているのです。未来の自分を大切にできない人間は現在の生活も大切にしようとしません。

 

ゴプニックは「もしも未来の自分が今の私とまるで違う人間になり、人生は生きるに値しないと思うなら、彼女が人生の幕を閉じることに反対しないでしょう。人は未来の自分のために多大な犠牲を払えるのです」と言っています。確かに、我慢ができない人はその後のことが予想できないのではないのだろうかとニュースの事件を見ていると感じてしまうことがあります。特に感情的になり、事件やトラブルを起こすときは未来のことにまで気が回っていないことが多いのではないかと思います。

 

ただ、その予想の未来もどんどん過去に送られていきます。その結果、自分の人生への責任は両方向に及ぶことになるのです。未来を重視させている心の装置が、過去も重視させているのです。事実、自伝的記憶と未来を創造する能力は神経学的に関連があるという証拠も見つかっているようです。過去を想起するときも、未来を予測するときも、同じ脳領域が活性化するのです。つまるところ、過去への責任は、現在の自分に深い影響を及ぼします。そういった意味では、幼児期の後の人生に及ぼす影響は、複雑な相互作用や確率の積み重ねから生じるものばかりではありません。記憶そのものがその人の人生にとって終生重い意味を持ち続けるというのです。過去の自分があるから今の自分があるのです。

 

このように過去の重要性において、特に幼児期の記憶には、特別な道徳的な奥行きと痛みが伴うと言います。大人になってからの体験なら、多少は自分でコントロールできます。思い描いた可能性の実現に向け、自らの意思で行動し、それらの行動が過去の出来事として固定化されていくのです。わたしたちが過去の出来事に満足したり後悔したり、誇りや罪の意識をもったりするのも、そこに自分の意志が働いていたことを知っているからです。

 

しかし、大人と違い、子どもはその体験を受けるのは多くは受け身です。子どもの頃の体験については、当人よりも親をはじめとする養育者の方が、はるかに大きな責任を負うのです。そのおかげで子どもは、知識や想像力を養うために大切な探求を自由にすることができるわけなのです。大人は子どもの体験において、将来起こることを決めることはできません。大学や結婚相手も選ぶことはできないのです。しかし、幼いうちにどういった体験をさせるかというのであれば選ぶことができます。つまり、大人は子どもたちに対して、決めることはできませんが、子どもの後の人生で非常に重要な意味を持ってくる環境や体験をコントロールすることができるのです。