あいさつ

気質

KIPPが始まって以来、レヴィンとファインバーグは学力と同時に良い気質を育てる授業をしようと明確に意識してきました。しかし、授業のコツや教育の参考になる教育者はいたのですが、気質の教育となるとその手本となる教育者を見つけられることができませんでした。そのため、KIPPではこういった気質を育てるにはどういった価値観や行動をしていけばいいのかを話し合うことが始められていました。

 

そんな中、2002年まだ、KIPPの最初の卒業生が高校生活を送っていたころ、レヴィンは投資管理の仕事をしている兄から『オプティミストはなぜ成功するか』という本をもらいました。著者はペンシルベニア大学の心理学者マーティン・セリグマンです。セリグマンはポジティブ心理学として知られる研究分野の中心人物の一人です。この1991年初版のこの著書はポジティブ心理学の基礎をなすテキストであり、「楽観主義とは生得的な気質ではなく習得できる技術である」と説いています。悲観的な人々もそれは成人でも子どもでも訓練次第でもっと希望を持てるようになり、そうなればより幸福に、健康になって、ものごとがうまく運ぶことが増えるというのです。

 

『オプティミストはなぜ成功するか』のなかでセリグマンは、多くの人々にとって鬱は病気ではなく、心理学者たちが信じるように「失敗の原因について悲観的な思い込みを心に抱いているとき」に起きる「ひどい落ち込み」であると述べています。そして、鬱状態を避け生活を改善したいなら、「説明スタイル」を変え、よいこと、もしくは悪いことが自分の身に起こった理由について自分自身のためのより良いストーリーを作り出す必要があるというのが彼の助言です。

 

セリグマンはペシミストには不快な出来事を永続的(パーマネント)なもの、個人的 (パーソナル) なもの、全面的(パーベイシブ)なものと解釈する傾向があるという。彼はこれを「3つのP」と言っています。「テストに失敗した?準備が足りなかったからじゃない、馬鹿だからだ」とか「一度デートを断られたら、もうほかの人を誘ってもしょうがない。だって自分がかわいくないのがいけないから」といった思考になるというのです。ずいぶんと悲観的な考え方ですね。

 

これに対して、オプティミストは良くない出来事については特定のものであり、限られたものであり、短期間のものであると解釈します。その結果、失敗のただなかにあっても気を取り直してもう一度やろうと思える可能性が高いのです。

 

レヴィンは本を読み進めていくうちに、セリグマンの3つのPの説明の多くが自分や同僚の教員や生徒たちに当てはまることに気づいたのです。そこで彼はセリグマンの著書から得た着想を基にKIPPアカデミーのスタッフに「反省と気遣いのための質問」のリストをつくり同僚の教員に配ることで、自分たちのやり方を再評価することをはじめました。

 

今日の日本でも、このセリグマンの著書に書かれていることに当てはまることがとても多いように思います。特に日本でかなり多くのうつ病になる人がいる状況を考えると、日本はペシミストの気質を持っている人が多いという証拠なのかもしれません。しかし、こういった気質は生得的、つまり生まれもって持っているものではなく、習得できるものであるということがいわれているのです。つまり、それは今の日本ではこういった気質を習得することが難しい環境が多いということを意味しているようにも思います。

新年

あけましておめでとうございます。

ブログをはじめてから最初の正月を迎えます。ほとんどが読んでいる本を通しての投稿が多いのですが、ここで自分なりに本の内容を解釈し、投稿していくことで様々な知識を得ることが多いです。まだまだ、つたない文章により読みにくいところもありますが、もしみられている方がいれば、ご容赦ください。

 

さて、昨年もたくさんのニュースが取り上げられました。「あおり運転」やあいかわらずなくならない「いじめ」とくに昨年は子どものいじめだけではなく、大人のいじめも多くニュースになっていました。また、中年世代の引きこもりも大きな問題になっているというニュースもありました・こういったニュースを見るたびに、「なぜこういったことになるのか」と思うことがあります。

 

先日紹介した、武神氏の本の内容も、メンタルヘルスに悩む大人が多い現状があるからこそ、こういった内容の本が必要とされるようになっているのだろうと思います。またここで話されていた内容は保育に置き換えられるように思います。つまり、問題は大人社会ではなく、その根本的な原因は乳幼児期も遡って考えていかなければいけない内容なのかもしれないと考えられます。今の社会、社会自体は成熟しているにもかかわらず、人同士の関わりというのはもしかしたら後退しているのかもしれないと感じます。

 

ポールタフ氏は非認知能力は乳幼児期に得られる力ということを話していました。そして、その力は将来大人になってからも影響のあることと言っています。つまり、今行っている保育の仕事がいかに人の人生に意味があり、誇り高く、重要な仕事なのかと改めて感じます。これからより多様な社会になり、AIなどが発展し、ますます複雑な時代になっていきます。そんな時代に活躍できる子どもたちをどう育んでいくのか、よく考えていかなければいけないなと思います。

誰もが楽しむ

工藤氏の変革は「宿題の廃止」「クラス担任の廃止」「定期考査の廃止」だけではない部分にも影響していきます。それは「運動会のクラス対抗」でした。このことに関しては工藤氏からではなく、生徒が考え生徒会の中で話し合われた結果、「クラス対抗」であり、工藤氏は「生徒が目的を達成する手段として適切ではないと生徒たちが判断した」ことが理由であると言います。

 

そのことについて工藤氏は生徒たちに一つの条件を出します。それは「生徒全員が楽しませること」を目的にすることです。運動が必ずしも得意でない生徒も、運動会を楽しみにしている生徒にも、全員楽しめるものにしてほしいと生徒に話したそうです。生徒ははじめ「クラス対抗リレー」をしたいかどうかのアンケートを取ります。すると、9割が「やりたい」と言い、1割の生徒が「やりたくない」という結果だったそうです。これまでであれば9割が「やりたい」のだから「クラス対抗」を行うことになるのですが、「全員が楽しませる」ためには1割の生徒の「やりたくない」を無くさなければいけません。何度も話し合いが繰り返される中「全員リレーをしない方が全員のためになる」という考えに至ったのです。

 

そこでそもそも「運動会・体育祭」の目的は何かといった時、「競争力を養うこと」や「運動能力の優劣をつける」ことにあるのであれば「クラス対抗」は適切な手段なのかもしれないが、麴町中学校の体育祭の一番の目標は「生徒全員を楽しませる」ことを最上位目標にしていると言います。生徒の中には運動が得意ではない生徒もおり、運動会や体育祭が憂鬱な生徒もいます。クラス対抗のリレーや大繩跳びで自分のミスによって周囲に迷惑をかけ、責められ人間関係にひびが入る可能性もあります。「全員が楽しむ」ためには運動が苦手な生徒の居場所もつくらなければいけません。クラス対抗の形での勝敗を意識すると勝利したクラス以外の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な生徒は肩身の狭い思いをします。それでは「全員を楽しませる」ことにはならないのです。

 

これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、チーム一丸となって何かを達成することが目的とされていました。しかし、個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は本質的に強くなれないと考えている。と工藤氏は言います。そのうえで、学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることのほうが大切だと考えている。と言い、スポーツは自分の人生を楽しませる、友だちのようなものであってほしいと思っていると話しています。

 

私自身も「行事」においては、その本質を改めて見直す必要があるということを感じます。

「教育の本質としての運動会・体育祭」、いつの間にかそれが「運動会をする」ことにとって代わられている時代なのかもしれません。そして、何よりもその主体が「子ども」ではなく、それを見ている「大人」になっていたりとなっている場合もあります。規律や団結を否定しているのではなく、その中にも社会があり、それを調整していく力はこれからの社会でとても重要な意味合いを持ってくると思います。こういった本質を見たうえで保育を進めていく必要性をとても考えさせられます。

始めるにあたって

私は本を読むことは嫌いではないのですが、文学書や評論書といったものはあまり読み込むことが得意ではありません。しかし、これからの仕事や保育をする上で「知識を得ること」は非常に重要になってくるということを常々感じます。

 

特にこれからの時代は大きく変化が起きており、セオリーというものをもう一度問い直さなければいけない時代になってきているようにも思うのです。その時に知識というものが必要になってくる。しかし、それを得るだけでは意味がなく、生かされて利用されなければいけないとも思います。

 

「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。
自分はすでに天の生じたものであるから、必ず天から命じられた役目がある。
その役目をつつしんで果たさなければ、必ず天罰を受けるだろう」

と幕末の儒学者 佐藤一斎が言っているのを雑誌「致知」で知りました。

 

自分にもなにか役目があるのかもしれません。

天命を全うするためにも、学びを持つことは続けて生きていものです。

 

ここではそんな本を読み込むことが苦手な自分が日々ものからひとからも学んでいることを整理して、ブログに起こすことで、自分の学びをより深いものにしていきたいと思っています。