空間を役に立つものにする技術

マサビュオーは空間を「役立つ」ものにするためには与えられた自然環境の中で、ひとつの共同体が生活していくのに切り離すことができない諸価値、生き延びていくのに不可欠であると判断された諸価値の実現を企てることだと言っており、それは技術の問題として検討することが必要だと言っています。そして、その技術を5つのグループに分類できるといいます。

 

その1つ目が「道具の技術=活発な手工業が存在し続けたことによって、手で操るさまざまな工具が豊富に作られ、改良されてきた」という部分。2つ目は「共同生活の技術=家族関係のモデルがあらゆる集団に適用され、人と人との間に生まれた義理の意識が血縁のつながりにとって代わる」といった部分。3つ目は「指導の技術=人間関係があらゆるところで支配的力をもち、序列の中でのみ各人が仕事や安全や幸福を見出すことができるという状況が、社会上層の責任のあり方を規定している」というところ。4つ目は「価値の社会化の技術=社会集団の中で各人は、もっとも確実に社会集団の中に取り込まれ、美しいもの、真なるもの、善いものについての集団的な実践によって、社会の中で有効とされる基準を自分のものとして深く受け入れていく」そして、5つ目に「外部世界拒否の技術=〈ウチ〉と〈ソト〉の対立の下で自分たちの独創性を絶えず意識し、そのことに不変の喜びを感じている」としています。

 

そのなかで、4つ目の「価値の社会化」についてマサビュオーは何世紀にもわたって日本で伝承されてきた、茶の湯、生け花、自然の景勝地や宗教上の名所への団体旅行などはその実践で、それらによって日本人の美的感覚は均質化されていると指摘します。芸術上の趣味・娯楽は共同体支配の中で個人に残された憩いの領域であると考えるヨーロッパ文明の価値観と違い、日本では、趣味・娯楽的な価値観に対して、社会集団の力が最も厳しく作用しているというのです。日本というのは何かと「均質化」されることは確かに多いのかもしれません。趣味に関してもこれほどまで「~教室」といったものは海外にはないようにも思いますし、「しっかりと基本を知る。そのためにしっかりと習いたい」というのも大きな特徴なのかもしれません。

 

また、5つ目の「外部世界拒否」については、こうした「自民族中心主義」はどこにもあるものですが、マサビュオーの日本に対する目は厳しく、日本人のこの心性が極端な外国人嫌いや、現代日本の外交の弱さや諸外国との関係づくりの不器用さに現れていると指摘しています。日本は島国ですし、鎖国などをしていた時期もあり、非常に外の世界に対して、閉鎖的に自国を見ているところはありますね。

 

日本人は共同体における価値を見出すことや生き延びていくために不可欠な価値の実現を見出していくことで文化を確立し、共同体を維持して生きたのですね。そして、日本人はこれらの技術を使い工夫していきます。そして、そのために「空間」は重要な役割をもっていたというのです。このように日本人の「空間の使用」についてこの5つの技術があったと指摘する彼は、さらに、この技術を制御し、変化させてきた3つの要因について考察しています。