試験の公平性

現在、日本の大学センター試験の内容がマークシート形式から記述式に変わろうとしています。そこには様々な理由があるのでしょうが、OECD加盟国においては、テストはどういった形式で行っているのでしょうか。そもそも多くの国ではカリキュラムの規準化が行われています。そうすることで、各学年にわたる教育内容の重複を減らし、異なる学校で提供されるカリキュラムのばらつきを減らすことができます。そうするのは社会経済的背景が異なる人々の不公平を減らすことが重要と考えられているからです。そして、多くの国では、このカリキュラムの規準化は中等学校の外部テストにも活用されます。ここでいうテストは日本での全統模試のようなもので、多くは生徒が就職や進学の段階の入り口となるのもです。

 

こういったテストはOECD加盟国で見ると、こういった外部テストを必要とする学校で学ぶ生徒は、そうではない生徒よりも平均して16ポイント得点が高いそうです。しかし、このテストの設計を間違うと教育制度が元に戻り、評価や教育の対象となる範囲を狭めたり、近道をしたり、詰め込んだり、偽ったりすることになるとアンドレアス氏は言っています。このことは日本でも言えることかもしれません。問いと答えがはっきりしているものになっているからこそ、カンニングが起きるのですし、詰込みや暗記といった物になります。また「山を張る」といった意味では、学ぶ範囲も狭くなるのでしょう。このことが起きたときに「学ぶ」ということが何を意味するのかという問いからかなり離れた答えになってくるように思います。PISAで高い成果を上げる教育システムのほとんどは、複雑な高次思考スキルの取得、現在世界の問題解決へのスキル活用を重視していることに注目すべきだといっています。日本においては、このことができているのかというと疑問です。

 

実際のところ、ワールドクラスの国々は、多肢選択式のコンピュータ採点のテストに依存しないそうです。その代わりに、小論文試験や口頭試問をおこなったり、定期テストだけではなく最終学年の成果物も評価対象に加えています。つまり、本当の意味で学んでいるかどうかを見ようというのです。では、日本でも問題になっていますが、こういったはっきりとした答えがない問題に対して、他の国ではどういった採点方法を取っているのでしょうか。

 

ロシアでは、回答用紙はデータ化され、匿名化され、不正を無くし、小論文のような機械で採点できない複雑な答案は、特別な訓練を受けた専門家によって一元的に採点されます。しかし、問題なのはどのように公平に採点されたと信頼するのかです。これに対しては、採点が終わった解答用紙はネットに掲示され、すべての生徒は自分の結果を確認でき、納得できない場合は、生徒は採点に異議を唱えられるようになっているのです。学校側も、テストの結果を追跡調査を行うことができます。

 

採点に異議を唱えることができるというのは非常に画期的だなと感じました。そして、そこにしっかりとした理由が見えてくるのであれば、納得のいくものになります。各国のこういった情報は非常に参考になります。なにより、生徒側も採点する側も公平性が確保されているように感じますし、こういったやり取りがあるということに対して、人間的なやりとりでもあるように感じます。採点する側もしっかりと責任を持ち、採点をすること自体が公平性を保つことになるのだということが分かります。

データを見る

「子どもを育てる」と一口に言っても難しいものです。できれば、子どもたちには最高の教育や育児環境を与えてあげたいと思いますが、それも子どもたちによってはニーズは違いますし、ひとりの子どもにあってるからといって、その他の子どもにあっているとは限りません。また、風土や文化によっても違ってくるものもあるのです。OECDのPISA(学習到達度調査)では様々なデータが集められます。しかし、それに応じて答えのない数多くの問いを残していくとアンドレアス氏は言っています。

 

彼は「PISAの結果はある時点の教育システムの一面を教えてくれる。しかし、学校システムがどのようなプロセスで成果を出してきたか、あるいはシステムの発展を支えたり妨げる可能性がある団体や組織を示すことはないし、そのようなことはできない。さらに、データは因果関係について何も教えはしない」といっています。つまり、データは一つの結果であり、そこでの成功したシステムがほかで同じように行ったからといって、同じような結果がでるわけではないということです。このことについて、アンドレアス氏は「国際調査の限界の一つだ」といっています。そして、「PISAの強みは、他のすべての人が取り組んでいることを各国に伝えることにある」というのです。問題はこれをどう生かしていくのかです。

 

このことはどんなことでも言えるのかもしれません。以前、保育にあたってある先生からアドバイスをもらいました。保育をかえるにあたって、私は「真似」をすることにすごく抵抗がありました。その時に、相談に乗ってくれた先生は「じゃ、ゴルフをするときに、有名な選手の教則本を見て練習をすることと、我流で練習する人、どちらがうまくなる?」と質問されました。「もちろん、教則本を見る人の方がうまくなるでしょう。でも、あなたがうまくなっても、その有名選手になることはできません。それが独自性として出てくるのです」と言われました。

 

「いくら練習してもその人にはなれない。だけど、教則本を読むことで上達は早い。」問題は、教則本を見たとしても、その中で自分なりに消化し、形にしていくためには柔軟な姿勢が求められ、その変化が独自性として見えてくるのです。PISAの調査の利用方法もそれと同じことが言えます。PISAの成績が良い国をただ真似てもそれは「模倣」ではなく、「猿真似」なのです。これは保育においても、育児においても、そうであると思います。ある教育方法が良いからといって、それを鵜呑みに行うことはあまりよくありません。大切なことはその中にある「意図を汲む」ことです。「いったいそれが何のために行う必要があるのか」を予測しなければいけません。

 

「教育や保育は哲学で考えるもの」ということを以前言われたことがあります。「なぜ、教育や保育が必要なのか」を考えていないと本質には近づかないのです。真似をすることは技術を盗むというためには非常に有意気な方法です。しかし、その本質を知って、真似をするのとそうではなくただ真似をするのとでは結果が大きく違ってきます。できるだけ、その本質を見るということは心がけていきたいものです。

能力別クラス編成

アンドレアス氏は能力別クラスを編成する学校システムにも言及しています。というのも、日本でも多くの特に高校では〇〇コースといったようにクラス編成が行われていることが特に私立では多いように思います。これはすべての生徒のニーズに最適化できるように考えられてきた結果です。これは日本だけではなく、各国でも取り入れられているようですが、多少の形態は違うようです。いくつかの国では、すべての生徒に同様の機会を提供する非選択的かつ包括的な学校システムを採用し、生徒の能力、興味、背景のすべてに対応するように各教員と学校に任せた。つまり、生徒の成績などによって、教員がクラスを振り分けるというものです。そして、他の国々では、学校間と学校内のクラス間で、学力や特定のプログラムへの関心に基づいて生徒をクラス分けすることによって多様性に対応する方法をとっているとしています。これはどちらかというと生徒の方に選択権はありそうですね。伝統的には、前者が公平性を提供し、後者が質と卓越性を促進すると言われているそうです。

 

能力別等で生徒をクラス分けする背景にあるのは、互いの学習への関心を強めると、生徒の才能が最もよく発達するという仮定があるからです。しかし、クラス編成の方法は国によってかなりの違いがあります。PISAの成績上位の国は、能力や進路などのグループ別のクラス編成を行っていません。成績上位の国は、すべての生徒に学ぶための平等な機会を提供しているのです。生徒の能力差が少ないクラスや進路等のグループ別クラスの学習成果が必ずしも良くないことは、他の研究とも一致する。能力や進路等のグループ別のクラスは、カリキュラムや指導に適切な調整が加えられたときのみ効果的であるそうです。

 

アンドレアス氏は「これまで私たちの社会と経済は、比較的少人数の教育を受けた人や集団がいれば十分であり、一部の生徒だけが学校で成功すればよかった。近年は学校での成績低下が社会経済的コストを伴い、社会的に不公平なだけでなく、非効率になっている。現代の教育システムと社会では、公平性と包摂性が不可欠である」といっています。

 

これからの社会は人工知能によって大きく仕事の内容が変わってきます。型にはまった仕事は特にこれから無くなっていくと言われています。例えば、電車であると運転手はなくなっていくだろうと言われています。現にもうすでに自動運転の電車もあります。東京では東京オリンピックまでにタクシーを自動運転にするというニュースまで出ていました。つまり、単純な労働力はロボットによって代替されていく時代になっていくのです。そして、それは「ロボットを使う側」でなければ、職を失う可能性が出てくるのです。それと同時に、失業者になってしまうと社会構造さえ支えられず、社会的格差も大きくなっていくことも予想されます。なおのこと、限定された現在のような年齢別におけるクラス構造は一見平等のように見えて、理解度を度外視して、自動的に繰り上げられていく構造は、一見公平に見えて、不公平なのです。今後はそれぞれにあった教育体系がより求められる時代になってくるように思います。ただ、考えられるのはそれは今でいう「成績」が尺度ではなくなってくるかもしれません。先ほどの、電車の話ではないですが、運転手はなくなっても、車掌は残ると言われています。不測の事態に対応するためには、まだ人の力が必要なのです。それは車両システムというだけではなく、乗っている人への対応であったりします。つまり、臨機応変にその状況にあった適切な行動をとれる柔軟性のある力がこれからは必要とされるのです。そして、それを得るためには多様な能力をもった人と関わる機会が必要になってくるのかもしれません。

教員のスキル

つぎに成績を上げるためには教員は優秀でなければいけないのでしょうか。PISAの成績上位国は、成績上位の3分の1の卒業生から教員を採用しているといっています。つまり、優秀な先生が教員でいるほど、学習成績は上がるのです。それは学校システムの質が教員の質を上回ることがないためです。つまり、いくら学校システムが良かったとしても、生徒と関わるのはあくまで教員です。その教員が学校システムについて理解ができていなければ、当然、学習成果は上がってこないのです。こういったこともあり、成績上位国の学校システムは教職員の採用を重視しています。しかし、それらの国では、成績上位の卒業生が弁護士、医師、エンジニア等ではなく、教員という職業を選んでいるのでしょうか。

 

実際のデータを見ていくと、読解力と数的思考力の平均で、教員が大学の学位を持つ成人の上位3分の1にある国は1つもないですし、下位3分の1の国もない。つまり、ほとんどの国では教員のスキルは平均的な大卒成人と同程度なのです。しかし、その中でも例外はあります。それはフィンランドと日本で、教員のスキルは平均的な大卒成人よりも優れているが、チェコ、デンマーク、エストニア、スロバキア、スウェーデンでは、その逆であるデータが見えてきました。

 

また、ある研究では、教員と生徒のスキルとの間に正の相関関係があることが分かっています。しかし、これにも例外はあり、韓国やエストニアなどの一部の国では、教員の数的思考力は平均的ではあるが、生徒の数学的リテラシーに関しての成績はトップです。さらに、成績上位国では、その国の教員の平均的な知識とスキルから推定される以上の成績を修めている。この生徒の好成績は教員のスキルに加えて、他の要因が関連しているのが見えてきます。

 

アンドレアス氏は「教員が尊敬される職業でかつ魅力的な職業選択となるように、知的にも財政的にもよく考える必要がある」といっています。そのため教員の育成と競争力のある雇用条件にもっと投資する必要があるというのです。教員の雇用条件の悪さは模範的な授業をしている教員の自信を失わせ、授業力を低下させ、もっとも才能のある教員を退職させてしまう可能性があり、それは教育の質の低下を意味するのです。

 

日本の場合は他国とは違い、まだ、教員は保証されているようです。そして、教員のスキルも高いようです。これは倍率の高い教員試験があるからかもしれません。しかし、現状の教員の様子を聞いていると、書類に追われていたり、残業が多かったりと、かなり厳しい職場環境であるということをよく聞きます。こういったことが教育の質を下げているということはこれまででも言われてきたことですが、なかなか改善されないものでもあるようですね。これは保育においても、同様のことが言えます。日本の場合は監査においても書類で管理されることがほとんどです。しかし、いくら書類ができているからといい、それがイコール保育の質が高いということではないと思います。そして、結果的にそれが質を下げているというのであれば、改善されなければいけません。雇用環境も質に関係していくのですね。

質?量?

PISAの調査は子どもたちの学習成果とこれまでの教育システムにおいて信じられていたことに疑問が出てくることが見えてきました。社会経済的背景やクラス規模などが学習成果に関係するということがこれまでも紹介してきました。ほかにも「学習時間が多いほど成績が良くなるのか」ということも挙げています。

 

このことは学校システムによって、特に授業時間後の学習にどれだけの時間を費やすかが大きく異なるそうです。ある教科に対する学習時間が長くなるほど、その教科の学習成果が向上する傾向があるからなのですが、この点について、国際比較をしてみると、その関係は逆転します。授業時間と学習時間が多い国は。PISAの成績が悪かったのです。それはどうしてなのでしょうか。

 

これは単純な理由です。学習成果は常に学習機会の量と質の結果であるからです。教育の質を一定に保ったまま学習時間を増やせば学習成果は向上します。その一方で国が教育の質を向上させれば、生徒の学習時間を増やすことなく、より高い学習成果が得られる傾向にあるのです。つまり、量を増やすことで学習成果が伸びることはあるのですが、質を向上させることで、量を増やすことなく、成果は伸びるというのです。

 

このことはPISAの調査結果を見ると考えさせられます。例えば、日本において科学的リテラシーは韓国の生徒とほぼ同じ得点です。しかし、全教科の学習時間を合算すると、日本の学習時間は週に約41時間(学校28時間。放課後14時間)に対し、韓国は週に50時間(学校30時間、放課後20時間)です。逆もあります。2015年のPISAの調査では、中国(北京、上海、江蘇、広東)とチュニジアの生徒は学校で週30時間と放課後27時間と同じくらいであったが、科学的リテラシーの平均点は中国が531点に対して、チュニジアは367点でした。この二つの調査の結果が意味しているのは学習時間以外に学校システムの質と生徒の学習時間の有効利用、放課後の学習機会の質が影響していると考えられるのです。

 

そして、ほとんどの保護者は学校で確かな学問知識とスキルを身につけると同時に学業以外の活動に参加する時間があることを望むとアンドレアス氏は言っています。演劇や音楽、スポーツ等を通じて社会情動的スキルを発達させ、彼らのウェルビーイング(すべてが満たされた状態)を望むと考えているのです。

 

最近では、「副教科」の重要性も言われているようです。学習の中心となる5教科(国語、数学、理科、社会、英語)だけではなく、美術や技術、音楽などがあることでより成績が良くなるということが言われているようです。このことを見ても、学習というものがなにをさしているのかを考える必要があるのかもしれませんね。どうしても、学習成果を測られるのが「点数」「成績」ではありますが、それだけにこだわっても結果として伸びてはいきません。学ぶ意欲や質、そういった抽象的ですが、心情に則ったものがなければ、結果として身につくものではないのでしょう。モチベーションや動機がなければ、人は学べないのですね。