ある保育士の先生と話をしました。その質問であったのが、クッキングの活動での選択についてで、その活動を年齢別でするか、選択制にするかということでした。そして、その先生は子どもたちのやりたいことを尊重して包丁を使うのかどうかを年少児から選択させてあげたいといった内容でした。しかし、その反面、他の職員はやはり包丁は危ないから年齢別で行った方が良いのではないかという意見が出たそうです。そのうえで、やりたくない子はやらなくてもいいというような柔軟性をもたせて、やるかどうかを選ばせてあげたほうが良いのではという意見がでました。結局、後者の年齢別での選択に決まったのですが、これについてどう思うかと意見を求められたのです。
そこで私はこの質問に対して、どちらの意見も考え方はわかるようと返答しました。ただ、問題はその活動のねらいや内容をどう考えるかによって取る方法を考えなければいけないと思います。そのため、何を目的とするのかという整理が必要です。この先生が考えた方法は「子どもたちに選択させる」ということです。これは「子どもたちの習熟度であったり、やりたい気持ちを尊重する」ということが大きな目的になります。比べて、後者のやり方の利点というのは「年長児なので話が伝わりやすく怪我しにくい」ということが大きな利点ではありますが、それと同時に「年長の子どもたちは包丁を使うという特別感がある」ということもあります。そして、それは「年長になったらこれができる」といった年少・年中児にとっては期待を持つ機会になります。そして、年長児に憧れるという意味合いでもあります。
では、デメリットとしてはどうでしょうか。「子どもたちの選択」を優先した場合、問題となるのは年少や年中児が危険にならないように配慮しなければいけないということがあるように、前提として「ルールが守れる子ども」というのが条件になってきます。後者の「年齢別」の場合は、「子どもたちのやりたい気持ちを我慢させなければいけない」というところにデメリットがあります。
こうった条件を踏まえて考えると、どちらもメリットがありデメリットがあることが分かります。結果、「どちらも正解で、どちらも不正解」というのが結論になります。では、そういった場合、どう考えたらいいのか、ここからが保育をする上で大切なことになってきます。
大切なのは、クッキングで子どもたちに何を感じてほしくて、何をすることが今必要かということを考えることが重要になってきます。何が言いたいのかというと「何が正解か」というのはその先生が「正しいと思ったこと」ではなく、「どちらの方が今の子どもたちにとって必要な活動であるのか」を考えることです。これは当たり前のことなのですが、わりと陥りがちになってしまうことが多いように思います。そうなると「活動をすること」が目的になってしまい、その活動と子どもの実態とがズレてしまうことが起きてしまうのです。そうならないためには今の子どもの状況をしっかりと見極める必要があります。子どもに目が向いていないと必要な活動も的が外れてしまうのです。
そのため、保育に大切なことは絵本を読むことやピアノを弾くということではなく、「子どもの状況をしっかりと見極める」ことや「子どもに共感してあげる」という力が保育士として磨いていかなければいけない力なのだと思います。
2023年1月11日 3:42 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
門脇氏が言う「他者の喪失」を招いた理由の一つが、社会構成の変化と農村部の過疎化に伴う地域社会の崩壊、そして、最後の一つが「テレビゲームやゲーム機の普及による直接的な人的交流の減少」です。
テレビやゲーム機の子どもに対する悪影響というのはこれまでもずっと言われてきましたし、多くの大人はそれが子どもの発達について「良い」とは思っている人は少ないのではないでしょうか。このことについて門脇氏は東北大学教授の川島隆太氏の「やってはいけない脳の習慣」(青春出版社、2016)を紹介しています。ここには「テレビを見たりゲームをしているときは脳の前頭前野、物事を考えたり自分の行動をコントロールする力にとって非常に重要な部分の血流が下がり、働きが低下します。そのため、テレビやゲームで長時間遊んだ後に本を読んでも理解力が低下してしまうというデータも報告されています。テレビを長時間視聴した子どもは、思考や言語を司る部分の発達が悪くなってしまうことも分かっている」と書かれています。それと同時に門脇氏は「メディア聞きにしろ、IT機器にしろ、機器と関わる時間が長くなればなるほど、生きた生身の人間と直に関わる交流や接触の時間がそれだけ少なくなる」と言っています。つまり、単に脳の働きの低下だけに限らず、人と関わる時間もゲームやテレビに費やされてしまい、社会力すらも育ちづらい環境になってしまうのではないかというのです。
この考えは新型コロナウィルス感染症による子どもの自粛生活への影響としてもよくよく考えていかなければいけない考えであるように思います。緊急事態宣言下においては子どもたちは家での保育を行っていました。当然、保護者と一緒に居たのだろうと思いますが、兄弟がいない子どもたちは一人で遊ぶしかありません。保護者の方々の話を聞いていても、なかなか外にも出られなかったと言います。なおかつ、ずっと保護者と関わるということもできないでしょうから、こういった自粛生活が長ければ長いほど、門脇氏のいう「他者の喪失」という時間がより多くなってきてしまうと思うのです。
そして、この他者の喪失が起きたときにどうなるかというと、門脇氏は「他者の喪失がもたらした社会的な病理現象として、私はとりあえず、いじめと、ひきこもりと児童虐待増加の3つを挙げておく」と言っています。まさに、ひきこもりと児童虐待の増加はコロナ禍で問題になった事柄です。ただ、この問題はコロナ禍以上に、これからの社会で最も問題になってくることかもしれません。日経新聞の11月15日の日本経済新聞に不登校の増加が記事になっていました。特に低学年での増加がみられ、幼稚園・保育所の段階から登園渋りの傾向があると書かれていました。
これから起きてくる問題において、社会力が関わるような問題の増加はおきてくるかもしれませんね。それと同時に、幼稚園などの教育・保育機関のあるべき姿というのはこれまでとはまた違った質を求められてくるもののように思います。
2022年11月18日 10:41 AM |
カテゴリー:社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
門脇氏は「社会力を高めようと自覚する」ということと同時に「ヒトと何かを一緒にしたり、やれることを誰かのためにやってあげ、良い関係を作り、お互いの理解を深めるように心がければ社会力は上がるといっています。」と言っています。つまり、人と関わり合うことで社会力は育つということを言っているのです。
このことにおいて、門脇氏は日本人はもともと社会力が高い民族であると言っています。それは「自分」という言葉の多さです。英語では私に相当するのは「I」です。ドイツ語では「Ich」フランス語では「Je」で、誰であろうとも「私は~~」と伝えるときには、これらの単語を使って表します。しかし、日本語であると、自分が相手している相手によって変わっていくというのです。たとえば、目上にたいしては「わたくし」であったり、同僚や仲間であれば「ぼく」、生徒であれば「せんせい」、家庭といった環境だと、妻には「おれ」や「じぶん」、子どもに対しては「おとうさん、おかあさん」、近所の子どもには「おじちゃん」といったように、呼び方が変わってくるのです。日本語のこういった特徴から見ても、いかに他者を優先する考え方が文化としてあるかということが見えてきます。
こういったことについて 慶応大学の名誉教授であり、言語社会学者の鈴木孝夫氏の言葉を紹介し門脇氏はこう言っています。「日本人は相手の出方、他人の意見をもとにしてそれと自分の意見をどう調和させるかという相手待ちが得意であるとか、他の人が意見なり願望なりを言葉で行動で明確に表明しないうちに、いち早くそれを察知して自分の行動を相手にあわせていくことが少なくないとか、『察しが良い』『気が利く』『思いやりがある』などという言い方が今では誉め言葉になっていることなどを引き合いに出し、そうした日本人の感性を大事にしなければならない」と言っています。こういった言葉を見ても、確かに日本において、相手の気持ちを読み取ることや他者の心情を理解するということが美徳とされている部分があります。
思い返してみると、確かに日本語というのは、常に他者に向けられて話がされている文面であるということが伺えます。これは日本の誇るべき文化ですね。それらが無くなっているというのはあまりにも寂しいことです。では、なぜ、「他者の喪失」というものがおきてしまっているのでしょうか。そこには3つの要因があると門脇氏は言っています。
2022年11月12日 5:04 PM |
カテゴリー:社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
門脇氏は1970年代の中頃から東京都の委託調査を引き受け、30年間3年に1度の割合で「東京都青少年基本調査」を行いました。その子とは『現代青年の意識と行動』(NHKブックス)や『子どもと若者の〈異界〉』(東洋館出版社)で紹介しました。そこであった都市部の青少年の変化の特徴は「他者の喪失」と「現実の喪失」であったそうです。
「他者の喪失」とは「自分以外の他者への関心が薄くなり、そのため他者と深く関わることが無くなり、結果として、他者を自分の心の内側に取り込むことが出来なくなっている」ことだそうです。これは他の人のことでありながら、その人のことがあたかも我がことのように思えるような状態で頭に思い浮かべることが出来なくなっているということを指しているようです。逆に言うと、関心のあることは自分に直接かかわることだけになることを指すので、自己中心的な人間になるといいます。これは保育でよく使う言葉でいうと「思いやり」ということが育っていないということに見えますね。
次に「現実の喪失」です。これは「自分が飲んだり、食べたりして毎日生きている“今ここにある”現実の世界がどのような内実と意味を持っているかがよく理解できなくなっていること」を指しています。これは社会学の専門用語で「状況の定義づけ」というそうで、これが人によってバラバラになると、現実の世界についての共通理解が成り立たなくなり、そうなるとその場で使われている言葉の意味もマチマチになって、コミュニケーションが成り立たなくなるという厄介なことになるのです。いわゆる「共通言語」として、共有された意味を持った言葉が使われているのかということです。学校の定義を先生や一般的には「しっかりと勉強する教育の場」と捉えていても、生徒は「友だちと遊ぶ場」であったり「監獄のようなところ」「いやな先生がいるところ」などと定義づけにズレがあると、言葉の本当の意味が伝わらなくなるのです。これは良く起きている現象であり、今の時代問題となることでもあるように思います。この「現実の喪失」は「志」や「目的意識」「やりがい」といったものの共有においても、大きな影響を与えているように思いますし、今の時代、コーチングやマネジメントにおいても、このことは非常に課題となっている部分であるように思います。
こういった「他者の喪失」と「現実の喪失」といった事態が進んでいくと、他者との相互行為(行為や言葉のやりとり)がちぐはぐになったり、その場その場での相応しい適切な行動がとれなくなるのです。そうなると社会力を高める可能性が一層低くなり、社会生活がギクシャクし、大人にとっても、若者にとっても、社会そのものが居心地の悪いものになり、人と人とのつながりが希薄になると門脇氏は言っています。
確かに他者との関わりに思いやりがあり、共通言語があるということは同じ方向に向いているとも言えます。こういった関係性が保証されていると、人と人とには信頼関係が築きやすい環境になっているといえるのではないでしょうか。こういった環境を作るためにはどうしたらいいのでしょうか。門脇氏の調査は1970年代から30年という事なので、おそらく2000年までのデータであろうと思います。現在2022年の子どもたちの環境はどうなのかというと、よりこういった傾向は進んでいるようにも思います。
ただ、門脇氏は社会力は大人になっても高まることはできるといっています。しかし、そこには「自分の社会力を高めようという自覚や意欲があるか」ということが大きな問題であるといっています。これは私も同意見です。何よりもまず「自覚する」ということが非常に大きな第一歩であると思っています。そうした中で「ヒトと何かを一緒にしたり、やれることを誰かのためにやってあげ、良い関係を作り、お互いの理解を深めるように心がければ社会力は上がるといっています。
2022年10月5日 5:27 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
最近、様々な研究から赤ちゃんは有能な状態で生まれてくるということが言われるようになりました。では、そもそもなぜ、赤ちゃんはこれまで無能で何もできないと思われていたのでしょうか。これは、人間の特性によります。人間の赤ちゃんは幼形成熟といわれるように母親から生まれて時には他の動物に比べ幼く生まれます。たとえば、馬や牛などは生まれて数時間後には自分の足で立って歩き始めます。しかし、人間の赤ちゃんは1年もの間、立つこともできず、食べることや、排泄することにおいてほとんどすべて一人でできません。このような状態から赤ちゃんは無能で無知な存在であると考えられてきました。
しかし、最近の赤ちゃん研究において、赤ちゃんの新しい事実が確認され、ヒトの赤ちゃんは生まれながらにして極めて高度な能力を持っている有能な動物であるということが分かってきたのです。では、ヒトの赤ちゃんはどのような能力を備えているのかというと、①生まれた直後から大人の顔を見分けることができる(大人識別) ②耳に入ってくる音の中からヒトのコトバとして発せられる音を正確に聞き分けることが出来る(音声識別) ③他者の目を見て自分に向けられた視線であるかどうかを察知できる(視線識別) ④他者と目を合わせ(アイコンタクトし)その人の視線が何に向けられているかを確認できる(視線追従) ⑤未知のものを見たり新しいことをするときに母親の顔をみて安全性を確かめる(社会的参照) ⑥自分の興味あるものを指すことで他者の関心を引く(共同注意)などがあります。
こういったことができるのは、生まれた直後から生後ほぼ9ヶ月あたりまでですが、人の子がそうした能力を備えているのは「ヒトの子は人間として成長するために大人を見分けて近寄り、出会った大人と応答することが不可欠であり、そのために必要な諸々の能力をあらかじめ備えて生まれてくる」と理解するしかいないということを門脇氏は言っています。そして、こういった能力は赤ちゃんが他の人との相互行為を行うために必要な能力です。社会力を培い高めていくためだけではなく、社会力をベースにまっとうな人間として育つためにも、両親だけではなく、周りにいる大人たちとの相互行為(応答の繰り返し)を多くすることが決定的に重要になるのです。それはこのような赤ちゃんの持って生まれた大人との応答能力をフルに使うことが出来るように努める必要があるのだといいます。
門脇氏はこういった子どもの能力において、テレビに子どものお守りをさせることや、赤ちゃんを抱っこして赤ちゃんと目を合わせることもなく、スマホを見ている母親の姿を見て、社会力を育てる上でとても大事なことなのに・・と危惧していました。
赤ちゃんは非常に有能な存在であり、他者にコミュニケーションを行う能力が高いことが見えてきます。この能力をいかに発揮させるかということが保育につながっていくのだろうと思います。つまり、それは保育をすることにおいても、子どものこういった本来持っている能力の理解する必要があることも同時に示しているように思います。
2022年10月1日 4:38 PM |
カテゴリー:乳児, 乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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