先日の為末さんの話はとても考えさせられるものがありました。
確かに日本は同調圧力が強い国だと思いますし、それがモラルを生み、安心な国にしていたということはとてもよくわかります。うちの園の理念は「自由と規律」ですが、この内容の中に「規律」を作ることについてこういっています。「社会を営む上ではいろいろなルールがありますが、それは決まりを守ることでお互いが快適に生活できるためのものです」とあります。このルールや法律、規律というものはそもそもは「守らなければいけないもの」ではなく「守ることで自分も人も快適に生きるためにある」ということは忘れがちなような気がします。それは裏を返すとルールや法律になければ「何をしてもいい」ということでもありません。
そのため、社会の中で生きるためには自分だけではなく、人とのかかわりや関係性を理解することが重要になります。そして、人との関わる力というのは座学で得れるようなものではなく、さまざまな関わりの中で経験する体験であり経験値であると思っています。一番それを感じるのが子ども同士のトラブルが起きたときです。トラブルやケンカは基本的に「自分の思いと相手との思いとのぶつかり合い」であることが多いように思います。自分が一方的に悪い場合でも、起こした側がそれを感じていないと解決しません。
そこで大人はどういった役割かというと「問題を解決する人」ではありません。もし、そういった介入をしてしまうと、結局大人が法律によって解決するのと同じで、解決するに際、自分で相手を思いやるような考えを持つのではなく、他者に白黒をゆだねることになります。トラブルの際、大人は本来子どもたちが自分たちで話し合って、当事者間で解決するように間を取り持つことが重要であると思っています。それは子ども同士が相手の気持ちを受け止め、そのうえで自分の思いを伝えることで、お互いの関係性のあり方や考えを知る機会にしてほしいと考えてるからです。そう考えると、解決がすべてではないということが見えてきます。自分たちが納得する結果をどれだけ自分たちで見つけることができるかが重要になってくるのです。
しかし、一方で大人が介入しなければいけない瞬間があります。それは「暴力による解決が起きたとき」です。この時は大人が介入しなければいけません。暴力での解決は何も生みません。ただ、力関係をはっきりとさせるだけのように思います。それはやり取りでもなければ、納得する形での終結にも向かわないように思います。
私の園で行っている藤森メソッド(見守る保育)は異年齢保育という形態をとることが保育の特徴でもあります。この保育形態において前述の関係性の構築にメリットがあることが多くありました。その一つの特徴は年齢別では近い発達の人の関わりのケースになりがちだが、異年齢では年齢別だけではなくいろんなケースで他者を感じるいい機会になるからだと思っています。
2025年5月9日 3:06 PM |
カテゴリー:社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
最近「モラル」という言葉をよく聞きますし、よく感じます。ニュースを見ても、あおり運転やドローンの問題、SNSの問題などあげ始めればきりがありません。そもそもモラルというのは何を言うのでしょうか。無人島に一人でいるとそのモラルは必要とはされません。何をしても咎める人がいないだけに何でもできます。しかし、そこにほかの誰かいたら、ある一定の「ルール」がなければ安心して生活ができなくなります。しかし、それは「ルール」や「規律」であって、「モラル」と同義語ではないように思います。私は「モラル」というのは「思いやり」から始まる「暗黙のルール」だと思っています。
辞書でいうとモラルは「人が現実社会において守るべきとされる規範」と書かれいます。AIに聞いてみると「人が社会生活を送る上で守るべき倫理的な規範や道徳のことです。法的な拘束力はありませんが、個人の良心や価値観に基づいて行動を導く、善悪の判断基準として捉えることができます。」と出てきました。「法的な拘束力がない」というのが重要なところのような気がします。それは「個人の良心や価値観に基づく」という言葉に表されているとおり人によって千差万別であり、やはり社会と個人の価値観とを「すり合わせていく」という作業がモラルを守ることに重要なことのように思います。
そう考えると昨今の「モラルがない」というのはとても危険なことです。いかに個人だけの主張が強くなっている時代で、社会に対する影響が強くなっているのかということを感じます。そして、それらを「法律を整備しなければ守れない」社会というのも怖いものです。ドローンの問題もSNSの問題も法整備以前にそもそものモラルがあれば問題は起きなかったように思います。元日本代表の為末大さんが自身のNOTEで日本のモラルの高さについて日本の安全性について「安全安心は突き詰めると思い込みです。」と話していました。「近所の人も一定のモラルがある。という前提で私たちは『安心感』を得ています。しかし、もしも『やろうと思うなら』、どこにも安全はないことに気が付きます」といわれていました。確かにその通りだと思います。
そして、日本がモラルが高い理由について「高信頼社会を、同調圧力によって保ってきました。同調圧力はなんらかの形で社会に内包されていないと通じません。近代は地縁から解き放たれ自由になりましたが、同時に個人を内包する力も弱まりました。孤立と自由は表裏一体です。」日本は同調圧力が強い国だといわれています。「同調圧力」といわれると悪い意味でも捉えられますが、一方で、だからこそ逸脱した動きが抑止され安心できる人間関係にあるということも言えるようです。
だからといって「同調圧力がいい」とは私は思いません。それはその同調圧力に乗っかるだけでは意味がなく、その中で自分の意見を話すことや他者と自分を調整し、よりよい社会を作ることが重要だと考えているからです。結局のところ、思いやりを持った関係性というものが重要になってくると思っています。
2025年5月8日 3:05 PM |
カテゴリー:社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
保育が、子どもたちにとって生活全体を豊かにするものでなければならないということについては、先日のブログでも触れました。では、「豊かに活動する」とは具体的にどういうことなのか。そして、そのために保育者は何をすればいいのでしょうか。
この点について、教育要領には次のように書かれています。
「保育教諭は園児との信頼関係を十分に築き、園児が自ら安心して身近な環境に主体的に関わり、環境とのかかわり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして、試行錯誤したり、考えたりするようになる幼児期の教育における見方・考え方を生かし、その活動が豊かに展開されるように環境を整え、園児とともによりよい教育及び保育の環境を創造するように努めるものとする」
この文から読み取れる重要なポイントは3つあります。
1つ目は、子どもたちが安心して身近な環境に主体的に関わること。
2つ目は、試行錯誤しながら考えることを支えること。
3つ目は、そのような活動が展開されるための環境を整えることです。
逆に言えば、子どもたちが主体的に関われない、あるいは考えたり試したりする経験ができない環境は、本来の保育の目的から外れてしまうとも言えます。これが、いわゆる“昔ながらの保育”が見直されている理由の一つでもあります。
こうした考え方は、私たちが実践している藤森メソッド(見守る保育)にも共通しています。藤森メソッドでは、子どもが自ら活動を選ぶことができる「ゾーン保育」を取り入れ、主体的な関わりを支援する環境づくりを大切にしています。
このような主体性を重視した環境づくりを考える上で、「年齢」という要素も無視できません。実際、教育要領などには「年齢によるクラス編成をすべき」といった明確な記述はありません。
その代わり、認定こども園法第9条では、この点に関して次のように記述されています。
「発達や学びの連続性及び生活連続性の観点」
ここで大切なのは、「年齢によって一律に分ける」のではなく、「発達や学び、生活を連続的に見る」視点が必要であるということです。
子どもの成長は、時代や文化に関係なく同じような順をたどります。たとえば、「座る→ハイハイ→立つ→話す」という流れはどの子どもにも共通しています。しかし、そのタイミングには個人差があります。早い子もいれば遅い子もいます。
それを「4月から新年度」といった大人の都合で一律に区切るのは、子どもにとっては不自然です。ここに、年齢別保育の課題があります。
だからこそ、私たちは「異年齢保育」という視点を重視しています。年齢にとらわれず、子どもたちの発達を連続的にとらえること。そこに、乳幼児教育の本質があると考えています。
一方で、ここまで述べてきたような環境が整っていれば、保育者は子どもを「ただ見ていればよい」というわけではありません。
もちろん、保育者が子どもにさまざまなことを伝えていくことも重要です。
ですが、その際子どもの主体性を尊重する姿勢と、保育者が提供するカリキュラムとのバランスが必要になります。
このバランスを取るための一つの方法として、私たちは「選択制保育」を導入しています。保育者はねらいをもった活動を提案し、その中から子どもが自分の興味や発達段階に応じて活動を選べるようにする。これにより、保育者の意図と子どもの意思の両方を尊重した保育が実現できます。
この「バランス」という考え方は、実は社会においても非常に大切な視点だと思っています。
社会とは、他者とともに生きる集団活動です。「自分だけが良ければいい」という考え方も、「他人のために自分を犠牲にする」という考え方もどちらか一方というのは極端な話です。
人のために自分があり、自分のために人がある。
そうした相互の関係性を大切にすることこそが、民主主義の本質であり、私たちが子どもたちに育んでいきたい価値観です。
これは教育基本法第一条にも表れています。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
保育とは、子どもたちが将来、社会の中で自立しながらも他者と調和して生きていくための“土台”をつくる営みです。その出発点として、私たちは日々の保育の中で、子どもたちの主体性を育み、安心して活動できる環境を整える努力を続けていきたいと思います。
2025年5月7日 5:04 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
新学期が始まり、職員の先生方に幼稚園のコンセプトや方針について研修でお話ししました。そこでは単に幼稚園の保育内容を伝えるのではなく、「何のために幼稚園が存在するのか」や「今幼稚園に通っている子どもたちに、どのような力をつけてあげるべきなのか」といった根本的な問いを共有するようにしています。また、現在実施している藤森メソッド(見守る保育)を行うにあたっての重要なポイントについても話しています。
もちろん保育内容を伝えることも大切ですが、私はそもそも「乳幼児教育」が社会にとって何のためにあるのかということを理解していなければ、いくら保育内容を知っていても意味が薄れると考えています。組織の目的を知らなければ、その成果は出にくくなり、また、働く人たちの目標や目的も見えにくくなるのではないかと思っています。
このことに関して、かつて流行したP.F.ドラッカーの著書『マネジメント』では、マネジメントの冒頭で次のように述べています。「組織が存在するのは組織自体のためではなく、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである」。つまり、どのような組織であっても、その目的は“誰かのため”にあり、社会的な意味をもって存在しているのです。
そう考えると、なぜ保育が必要なのでしょうか? よく言われるのが「保護者の育児支援」です。確かに、現在の保護者の多くは共働きで、専業主婦のご家庭は少数派です。保育施設が子どもを預かることで、保護者の就労を支える役割は非常に大きなものです。しかし、それは“優先順位”の問題であり、最も重要な目的ではないと私は考えています。
最も基本となるのは、やはり「子どもの保育」です。では、その「保育」とはどのようなものであるべきでしょうか。幼保連携型認定こども園教育・保育要領(平成30年度)の総則には、教育や保育の基本が記されています。そこには、「乳幼児期全体を通して、その特性および保護者や地域の実態を踏まえ、環境を通して行うものであることを基本とし、家庭や地域での生活を含めた園児の生活全体が豊かなものになるよう努めなければならない」とあります。
つまり、保護者支援も、あくまで子どもの生活が「豊か」になるために行うものであるといえます。ただし、この文章は非常に抽象的で、「豊か」とは何をもって豊かとするのか?という疑問が残ります。そして、この「豊か」という言葉の解釈が園によって異なるため、保育施設ごとの方針やアプローチの違いが生まれてくるのだと思います。
私自身の考えとしては、「豊かさ」とは、現在の生活の充実と将来に向けた基盤づくりの両方を指すものだと思っています。つまり、今と未来を含めた「豊かな人生」を送るために必要な力を育むことが保育の役割だと捉えています。そして、その根本にあるのが「社会で生きる力」を育てることです。
このように考えると、保育者といえども、社会についての理解を持っている必要があります。そのため私は、今後子どもたちが生きていくであろうAIの時代や、労働人口の減少といった未来社会について強い関心を持ち、研修の中でもそうした話題に触れるようにしています。
2025年5月2日 2:42 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
最近は幼稚園のほうのブログに様々なことを書いていたのですが、幼稚園のHPの発信では不都合が出てきましたので、今後はこちらのブログで統合していこう考えています。
こちらのブログは2019年から細々と続けていたブログになっており、私がこれまで見ていた本で学んできたことを整理するためにも発信しているブログになっていました。
このブログを始めた経緯は私が学んである園長先生の一言ではじまりました。当時、東京の園での勤務を終えて、認定こども園化する保育園のために大阪に帰ってきたのですが、私はあまり本を読むのが好きではなく、勉強もあまり好きではありませんでした。しかし、これから保育を発信していくためには何か知識を持っていないとと、漠然と焦っていたのを覚えています。必要だろうなと思う本であったり、読んだ方がいいだろうなと思う本を買っては読まずのくりかえしであったのですが、それを学んだ園長先生に相談しました。すると、「私もそうで、難しい本はなかなか理解が難しい。だから、ブログにして文字におこして、自分自身の考えを載せると理解できた」とおっしゃられたのです。
それからこのブログづくりをはじめました。そして、このブログの「日々、是天命」という言葉ですが、これは
「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。
自分はすでに天の生じたものであるから、必ず天から命じられた役目がある。
その役目をつつしんで果たさなければ、必ず天罰を受けるだろう」
と幕末の儒学者 佐藤一斎が言っているのをある雑誌で知りました。
割と「天命」という文字が好きです。何か生きるための使命をあたえられたようで、自分が生きていくなかで、それを追い求める夢があるように思います。
とはいえ、さぼり癖のある私です。天罰を考えるとまだまだ果たさなければいけないことは多いように思います。
しっかりと精進して発信をしっかりとできればと考えています。
今後ともよろしくお願いいたします。
2025年4月28日 11:53 AM |
カテゴリー:あいさつ |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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