他者と日本語

門脇氏は「社会力を高めようと自覚する」ということと同時に「ヒトと何かを一緒にしたり、やれることを誰かのためにやってあげ、良い関係を作り、お互いの理解を深めるように心がければ社会力は上がるといっています。」と言っています。つまり、人と関わり合うことで社会力は育つということを言っているのです。

 

このことにおいて、門脇氏は日本人はもともと社会力が高い民族であると言っています。それは「自分」という言葉の多さです。英語では私に相当するのは「I」です。ドイツ語では「Ich」フランス語では「Je」で、誰であろうとも「私は~~」と伝えるときには、これらの単語を使って表します。しかし、日本語であると、自分が相手している相手によって変わっていくというのです。たとえば、目上にたいしては「わたくし」であったり、同僚や仲間であれば「ぼく」、生徒であれば「せんせい」、家庭といった環境だと、妻には「おれ」や「じぶん」、子どもに対しては「おとうさん、おかあさん」、近所の子どもには「おじちゃん」といったように、呼び方が変わってくるのです。日本語のこういった特徴から見ても、いかに他者を優先する考え方が文化としてあるかということが見えてきます。

 

こういったことについて 慶応大学の名誉教授であり、言語社会学者の鈴木孝夫氏の言葉を紹介し門脇氏はこう言っています。「日本人は相手の出方、他人の意見をもとにしてそれと自分の意見をどう調和させるかという相手待ちが得意であるとか、他の人が意見なり願望なりを言葉で行動で明確に表明しないうちに、いち早くそれを察知して自分の行動を相手にあわせていくことが少なくないとか、『察しが良い』『気が利く』『思いやりがある』などという言い方が今では誉め言葉になっていることなどを引き合いに出し、そうした日本人の感性を大事にしなければならない」と言っています。こういった言葉を見ても、確かに日本において、相手の気持ちを読み取ることや他者の心情を理解するということが美徳とされている部分があります。

 

思い返してみると、確かに日本語というのは、常に他者に向けられて話がされている文面であるということが伺えます。これは日本の誇るべき文化ですね。それらが無くなっているというのはあまりにも寂しいことです。では、なぜ、「他者の喪失」というものがおきてしまっているのでしょうか。そこには3つの要因があると門脇氏は言っています。