教育

戦国時代の教育

「文武両道」という武と教養といったものから、戦国時代に入ると、厳しい戦国の世で生き残るために戦国大名は「家訓」と呼ばれる教訓書が書き残されました。「多胡辰敬家訓」(たごときたかかくん)(16世紀中ごろ)では「第一手習学文ナリ」とあり、文字学習と学問の必要性がまずはじめに説かれています。学問の無い人間は物の「理非」(道理にかなっていることや反していること)が分からず、犬の吠えるのにも劣るものであると無学を厳しく戒めています。次に武士の嗜みとして弓の修練が記され、続く3番目に「算用事」があげられています。これは領国経営に不可欠な技術であり、これ以降、乗馬の事、医師の事、連歌の事、包丁の事、乱舞の事、鞠の事、躾の事、細工の事、花の事、兵法の事、相撲の事、将棋の事、鷹の事など生活から娯楽にいたるまで、その教訓の内容たるや家庭生活全般にわたっています。そして、そこには武士の生活に即した徳目、たとえば、武や勇敢をたっとび約束を遵守すること、寡欲廉恥(欲を抑え、心が清らかで、恥を知る心がつよいこと。)や質実剛健(中身が充実して飾り気がなく、心身ともに強くたくましいさま)などが武士に欠かすことのない重要なものであるとされていました。

 

これは世子(跡継ぎ)の場合、一族の年長の家臣が教育掛(かかり)に任じられる場合もありますが、それだけではなく、上杉謙信が春日林泉寺で修行し、武田信玄が恵林寺に身を寄せていたように、寺院にあがりそこで一定期間教育を受けるという寺院教育がそうした戦国大名の子弟教育としての機能があったということが見えてきます。またそれとは逆に寺院の僧が戦国大名に顧問として迎えることもあったようです。

 

フランシスコ・ザビエル(1506年~52年)が十六世紀に日本に来た時、「坂東の大学」としてヨーロッパに紹介した日本の足利学校も、主に僧侶が学んだ学校でありました。その中心となっていた科目は兵学と易学であり、その他にも天文学や医学も学ばれていました。こういった科目は戦国大名に仕官する条件でもあったと思われます。これらの知識僧は教師としてというよりは相談や質問に応じるという役割であり、「御伽衆」として大名の近くに控えていたのです。その後、武士を対象とした意図的・組織的な教育が登場しますが、これは戦国の世が平定され平和な社会が訪れなければ起きませんでした。

 

豊臣秀吉に対する千利休などは正にこの戦国大名における御伽衆であるといえるのでしょうね。このときにおいても、重要にされてきたのは兵学や武においてだけではなく、「理非」であったり、易経の解釈を知る「易学」といった中華思想をもとにした知識を学び、世の中の理論を学んでいたのです。そして、それは学問を知るのではなく、それを修めることで教養を持った人になり、人格者になるために学んだのです。単なる知識を知るために学習するのではないのです。このことを戦国時代は「質実剛健」や「寡欲廉恥」と表していましたが、とても思想的な哲学を感じます。現在の時代においても教育基本法には第一章一条「教育の目的」に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と書かれています。人格の完成のために教育があることに対して、私たち現場は「教育=人格」と理解できているのでしょうか。目的をはき違えてしまっていないか、自分自身も振り返りながら保育を進めていきたいものです。

武家の教育

寺子屋は寺院教育をもとに庶民の中に広がってきた教育文化です。次に、武士についてはどうだったのでしょうか。言わずと知れた日本は「士農工商」といった身分が分けられていました。沖田氏は日本の教育文化は重層性に富んでいるといっています。それはこれまでの庶民の教育文化のなかでも、庶民の文化だけではなく、古代に確立した天皇を中心とする貴族文化の伝統も年中行事として伝えられてきました。また、貴族政権に代わって武家政権が確立し、戦国時代を経て平和の時代へと移行するに従い、武士の世界も下剋上から秩序を重んじる統治階層にふさわしいものへと変容してきました。戦国武士から、近世の封建官僚としての武士へと移行していったのです。

 

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、それまで公家社会であった日本の社会は「弓馬の家」と称して、京都公家の世界とは異なる文化と生活習慣をもつ武家の自立をうたいました。その武家の武家たるゆえんは「戦闘者としての能力と資質」でした。当然、教育においても、作法においても「戦」を前提としたものであり、何においても、それにつながるものでした。しかし、では、学問は軽ざれたのかというとそうではないようで、頼朝は京都から大江広元(1148~1225)や三善康信(1140~1221)といった学者を招いたように、学問を否定したわけではなかったようです。それは領国経営に必要な知識を学ぶことも武家の棟梁に必要な学習であったが、何よりも一族郎党を率い、過信が命を賭けて仕えるにふさわしい見識と公正な判断力、それに人格的な素養を身につけることが要求されたからです。そして、この理想が「文武両道」という言葉になるのです。

 

この「文武両道」に類した言葉として、「右武左武」(ゆうぶさぶ)という表現も昔から使われていましたが、これももともとは「文武両道を以て天下を治める」という中国の潘炎の「君臣相遇楽賦」から伝来した観念であったようです。このように「文武両道」とは、当初は一般武士というよりは、リーダーとしての上級武士の教育観念であったというほうが性格であろうと沖田氏は言っています。

 

家柄というだけではなく、一族郎党を集めるところから求められる武家政権においては人をつなぎとめる教養が魅力となり重要視されていたのですね。最近では保育においても、リーダーシップというものが注目されてきました。このブログでも以前コーチングの本を紹介しましたが、何か目的があり、それを達成するためには自分ひとりで達成することは非常に困難です。特に人間の場合社会を通して行ういきものです。そのため、それぞれ単体の能力だけではなく、それ以上に、その能力をつなぎ合わせ、協力し大きな力に変えていく必要があり、そのためにリーダーシップという能力は非常に重要な能力になってくるのです。

 

現在の教育ではこのリーダーシップであったり、その根底となるコミュニケーションであったりというものがどうも育つような枠組みではないように思います。今回の「文武両道」の考えを見ても、目的にあげられるのは単なる教養ではなく、人をつなぎとめるためのリーダーシップであったり、教養であったりするところに視点が置かれています。つまり、人格の形成といった部分に中心がしっかりと置かれているのです。どうも今現在の教育はその本来の目的から離れているように感じます。さて、鎌倉時代から次は戦国時代に変遷されていく中でどのように武家の教育は変わってくるのでしょうか。

陶冶

寺子屋を出た子どもたちは働き口へ丁稚として雇われ、丁稚奉公の中で学習をしていきます。労働環境の中に学習する場としての機能もあったというのです。しかし、現在では、企業での学習は企業が働く人のことを省みないことから、変化していきます。高度経済成長になり、企業は人材を育成するといった教育的機能から純粋に利潤追求の組織となる傾向になってきました。青年を一人前に仕立て上げえるといった教育の場から、年功序列の廃止と競争の原理による能力主義を採用することで変わっていったのです。

 

このほかにも子どもたちは丁稚以外で社会で学ぶ場がありました。それが職人の「徒弟教育」です。この場合、教えてもらうのではなく、師匠の技を「盗み取る」ことが多くありました。これは教えられて学ぶ以上に、より主体的な学びが必要であり、そのなかで習熟するという技術の継承の仕方であったのです。教えられた技術はそれ以上のものではないが、学び取って習熟した技術には学ぶ主体の技術観が投影されてきます。

 

たとえば、大工職人の場合、一般に10年を区切りとする年季奉公の間に、大工道具の扱いや木材に関する知識など実際に家を建てるに必要な諸々の知識に習熟されるだけはなく、大工職人に必要な生き方と将来独立して棟梁となるときに要求されるさまざまな職人を差配するにふさわしい「人柄」というものを師匠から学び取るのです。

 

こういったことからどんな職人でも、自分の子どもを弟子として教えることはあまり見られませんでした。一定期間「他の釜の飯を食う」というように、他の同業者のところで修行を経験させます。これは単に苦労をさせることが目的ではなく、厳しく教えて貪欲に学ぶという徒弟教育の「学び教える原理」が肉親の情に妨げられて成立しにくいといったところもあるからです。こうした意味で、近世の技術教育は「技」の修得が労働と一体のものであり、心身の陶冶を伴った「全人教育」であったともいえるのです。

 

ここで「陶冶」という言葉が出てきました。「陶冶」というとドイツの「陶冶プログラム」が思いつきます。「陶冶」とはもともと鋳物や陶器を作り上げることを指していましたが、その意味を「人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。」と捉えて、教育に当てはめてドイツでは考えられていました。それがドイツの保育で行われている「オープン保育」です。園内のどこにいってもよくて、自分の遊びや学びを自ら環境を通して遊ぶということが行われていました。「陶冶」というこの言葉が江戸時代の子どもの教育において当てはめて考えられていたということに驚きを感じます。

 

そもそも私が寺子屋に興味を持ったのも、異年齢であったり、主体的に学ぶという今海外で起きている教育改革のもとが日本の寺子屋に非常に酷似しているということから興味を持ちました。そのため、海外の教育を日本に入れようとする様子はまるで、寺子屋の文化を「逆輸入」しているようにすら感じるのです。

奉公人教育

寺子屋を出た子どもたちは丁稚から始まり、その預けられたところで学んでいき、出世していくことで社会に向かっていきます。つまり、教育において、寺子屋は基礎となる心得や教えをもち、その先に店に預けられた先でより実践的な物事を学んでいくのです。

 

このような奉公人教育の中心となるものは、越後三井家のことを『近世庶民家訓の研究』を書いた入江宏氏によると「家法と店式目」であったそうです。つまり法規や制度といった「決まり事」ですね。これは丁稚を対象にして「子ども式目」を定め、時間があれば「手習算盤」に励むことが記され、「第一算盤ニ疎キもの在之候は早速暇可申渡候」というように、計算能力の習得が奉公人教育からの脱落に関わるものとして記されていました。このほかにも幕府の法令遵守から始まり、幼児を言いつけられた時の請け返事の作法や、顧客への対応や衣類に関する注意など、生活全般の極めて細かい取り組みが記されていました。こういった教育を通して三井家にとって必要な人材として育てられていくのです。

 

商家は単に商売の方法を教授し、利益を得る利益共同体ではなく、人間形成の教育機能を有したものであったと言います。企業に対する日本人の忠誠心は欧米の労働者からは奇異に見えるであろうが、「企業人間」という表現は企業が人材を育成するという近世の方向教育の伝統が今なお継承されていることを意味すると沖田氏は言っています。

 

こういった日本において職場で人材を育てるといった傾向はこういった時代の文化が残っているからなのですね。それと同時に、日本は海外と比べ、チームワークを取ることに長けているといいます。こういった要素も、若いうちから職場に入り、その職場での働き方をレクチャーするという文化があることで生きてくるのかもしれません。ただ、これは良いことばかりではありませんでした。たとえば、こういった「企業人間」が政治家への贈収賄や企業の社会的責任論、はては家庭を顧みないことで家庭の崩壊の要因となったり、様々な側面から批判されるようになったのです。そのため、日本の企業が伝統として有してきた教育的機能を放棄し、純粋に利潤追求の組織となっていく傾向になってきたのです。そうして、青年を一人前に仕立てあげてきた教育の場というものが、年功序列の廃止と競争の原理による能力主義を採用することによってまた一つ消えようとしているのです。

 

こういった背景があるからか、最近では転職をするということが当たり前になってきているように思います。職場で働く若い人たちもあまり所属意識を持つよりは、自分の環境を変えることの方を優先しているように思います。そのため働き手に取っても働く場にとっても社会にとって貢献する組織なのかどうかや働きがい、そこで働くことへの誇りといったものを伝えるということがあまりされていないように感じます。このことはドラッカーも同様のことを言っていましたね。もちろん、利潤追求によって、働く人たちが不利益を被ることは良いことではありません。しかし、そこで働く思いがなければいい仕事もできないのではないかと思うのです。一体何のためにその場で働き、何のためにこの仕事があるのか、こういったことは昔の寺子屋や奉公人教育の方がはっきりと伝えていたのではないかと感じます。見習わなければいけない、こういった姿勢はたくさんあります。

その後

寺子屋は師匠より「人としての教え」を学び、「読み書き」を中心に学習していました。では、その後子どもたちは社会の中でどう育っていくのでしょうか。一般的な庶民の場合、ごく限られた上流階層に属する子弟を除き、一般庶民の子どもたちにとって、寺子屋後の上級学校は存在しなかったといいます。子どもたちは成長するにしたがい、集団生活の中で「大人」への成長過程を歩むことになります。農村でいえば、村落秩序の中で、若者宿や娘宿などの集団生活を通して学んでいきます。また、村落が主催する祭りなどのさまざまな行事への参加を通して、村落の構成員の一人として承認を受けます。これは農村地帯だけでなく、漁村においても大体同様の自治組織があり、村落共同体が一定の教育機能を果たしていた。このように農業や漁業などの労働の実務を通して見習いから一人前の働き手へと成長していくのです。そのため、労働の場が学校の機能を持っていたことが商人や職人の場合では比較的明瞭に理解できます。

 

まずは、寺子屋で4~5年間最低限度の「読み書き」を学び、早い子どもで十歳前後、だいたい十二~十三歳くらいから、商人の場合は丁稚奉公、職人の場合は年季奉公と呼ばれる徒弟教育の生活に入っていきます。商人の場合は、丁稚から始まり半人前をへて手代(てだい)へと進み、能力があれば二十五歳くらいで番頭に抜擢され、一~二年のお札奉公を経て、三十歳前に「暖簾分け」または「仕分け」と称して独り立ちしていきます。それによって、主人より屋号となにがしかの資本を譲り受けて自分の店を経営しました。丁稚に始まり段階を踏んで出世していくことは各商家によって異なり、必ずしもその呼称も一定していません。そして、商家における身分は様々あり、それらは単なる職種の相違ではなく、それぞれの身分に応じて髪型や服装などの厳しい区別がありました。

 

奉公人と一口に言っても、さまざまあり、将来自分の店を継ぐべき立場にある長男を修行に出して、一定期間商人としての教育を受けさせる「見習奉公」や、年季を定めずに丁稚から一人前の商人に成長するまで「住込奉公」を行い、能力があれば暖簾を分けられて独立した店を経営する「子飼奉公」などがあります。いかに優秀な子飼を育て上げるかは、その商家の繁栄につながるため、子飼の教育には商いに劣らないほどの力を注いだのです。

 

例えば越後三井家といった豪商で言えば、関西だけではなく江戸にまで支店を出していました。しかし、その場合、丁稚を採用する場合、現地の人間ではなく、国元でしかるべき身元保証のできる仲介者を経て採用しました。三井ではこういった丁稚を「子供」と呼んでいたのです。この段階では直接店に出て商いの実務に携わるのではなく、奥向きの日常的な仕事を通して商家の生活様式を習得し、商家の仕来り(しきたり)、礼儀・作法や言葉の使い方などの躾全般を学び、商人として必要な基礎知識を身につけることに努めたのです。半人前になると、ようやく店に出て実務につくのではあるが、この期間は商売の実際を学ぶ見習い期間であり、自分の裁量で自由に取引をすることはできませんでした。手代になって初めて取引業務に従事します。これであってもまだまだ一人前の独立した商人とはみなされませんでした。手代として数年間商いを経験し、能力があると認められれば番頭に抜擢されます。番頭までは商人としての見習い期間であり、盆・正月の里帰りの際に主人からなにがしかの小遣い銭を与えられるほかは原則として無給であったのです。

 

番頭からさらに独立しないでその商家の経営に携わる人は支配人と称され、主人の代わりに商いの実際の責任を負い、さらにほとんどの場合、その商家の奉公人教育の責任者でもありました。三井家の制度では、組頭までは原則として年功序列になっています。組頭までの段階では十二~十八年までを一応の目安としています。その後は厳しい業績主義が取られたのです。」