教育

社会的背景

アンドレアス氏は国際テストを各国が行い他国の教育システムと比較してどのような成果を上げているかを見ていく中で、多くの間違った仮定を明らかにしたと言っています。

一つ目は「貧しい子どもは成績が悪い」です。これは以前、ポール・タフ氏の「成功する子・失敗する子」でも触れられていました。そして、貧困層の所得の子どもたちは成績が悪いということが言われていましたが、アンドレアス氏がいうにはPISAの結果においては、社会集団の良し悪しが、そのまま学校の成績や日常生活に直接結びつくとは限らないと言っています。

 

この内容には二つの側面があり、一方はすべてのPISA参加国で学習成果と生徒や学校の社会的背景には関係が見られるという点。もう一方は、社会的背景と学習成果との質との関係は教育システムで大きく異なるということです。確かに社会的背景が学習成果と大きな関わりがあるのは確かです。しかし、それは教育システム次第では恵まれない生徒だからといって、必ずしも学習成果も悪いわけではなかったのです。これは2012年のPISAの調査で、上海の15歳で恵まれない10%の生徒が、アメリカや他国の最も恵まれた10%の生徒よりも優れた数学リテラシーの成果を示したことからも見えてきます。このことはほかの国においても同様のことが見えました。

 

すべての国に優秀な生徒はいるが、すべての生徒が優秀な国はないというのです。そして、恵まれない生徒が成功する国や地域は社会的不平等の緩和に成功しているといっています。教育による大きな公平性の達成は、社会正義として重要であるだけではなく、より効率的に資源を使用し、すべての人々が社会に貢献できるようにするための方法でもあるのです。たとえば、最も恵まれない学校に、恵まれない生徒を集め、恵まれた学校管理職をそこに集め、適切な学習指導方法を用いるようにして公平性を持つように進めるのです。こういった国はいくつかあるそうです。このように、最も弱い子どもたちをどのように教育するかは、社会の在り方を反映しています。このことに関しては逆もあります。

 

アメリカの批評家は「恵まれない生徒が非常に多いアメリカでは、教育の国際比較を行う意味がない」と主張しますが、他国よりも社会経済的利点を持っていたり、ほとんどの国に比べ裕福であり、教育にも予算を投じています。しかし、なぜ批評家は「恵まれない生徒が多いというのでしょうか」アメリカでは社会経済的に恵まれないことが成績に大きな影響を与えいるそうです。そして、社会経済的背景による学習成果の違いが他のOECD加盟国よりも大きいのです。その結果、入学する学校ごとの成果の格差が人生の機会の不平等につながり、社会的流動性を低下させる悪循環につながっているのです。社会経済的背景がそのまま学習の格差に出てしまう社会の在り方があるのです。前者と後者では、子どもに対する考え方が違うというのが分かります。

 

このことが、学習成果と生徒と学校の社会経済的背景に見られる。一方で、教育システムにより、社会的背景と学習成果との質との関係は教育システムで大きく異なるという一見矛盾するかのような結果を生んでいるのです。

 

恵まれていない子どもたちの中には力はあってもそれが発揮できるほどの環境がないということは、結局のところ環境によって格差が大きくなるというのが言えます。社会流動性を持たせるために義務教育があるのですが、果たして今日本は今回の内容のように「公平性」は保たれているのでしょうか。もしかすると、このコロナ禍において起きた遠隔での授業により、多くの生徒が優秀な先生の授業を聞けるようになるのだとしたら、公平性はより保たれることになるのかもしれませんね。

海外から見て

アンドレアス氏は「教育は非常に局所的で内向きになることが多い。」といっています。そのため、学校と教員が自分たちの仕事に関する知識を共有するのが困難になっている可能性があると言っています。このことは各国の教育システムにも同様のことがいえ、国境を越えて他国の教育政策や実践に目を向ける機会はほとんどない。他国の経験から学ぶことがほとんどないのです。アンドレアス氏はこのことについて「今を生きる若者の人生や未来のため、新たな政策や実践を試みる倫理的な要素を考えれば残念なことだ」と言っています。

 

確かにこのことは海外研修に行かせてもらうとよくわかります。それは日本の良いところを見ることにも繋がるのですが、どちらかというと日本の課題のほうがより鮮明にみえる気がします。特に大きく違うと感じたのが、教育と政府との関係です。海外はどの国でも、子どもの教育において、政府の介入が大きいのを感じました。ドイツでは、以前紹介したようにミュンヘン市は「陶冶プラン」が進められ、私が見学にいったときも園長先生や施設長は分厚い「バイエル」という日本でいう指針や要領にあたるものを持って話していました。韓国や中国では国が進めるということに対して、非常にスピーディに変化が起こっているのを感じました。シンガポールは教育省である「エクダ」がスパークという園の資格のようなものを発行し、その質の担保を確保するようにしていました。このことに対し、日本の特に保育に関しては、保育指針や教育要領といった指針となるものはあっても、その動きは大綱的です。そのため、各園の裁量によるものが多く、さまざまな保育形態が乱立していても良いという環境です。それが良いのかどうかはわかりませんが、ジャッジを下すものがないため、施設によってその目的や子どもの発達の見通しというのは大きく違ってくるように思います。こういったことは日本の様子をより感じるのは海外を見ることでより感じます。

 

アンドレアス氏は「国際比較が非常に重要な理由はここにある」と言っています。「教育の世界をリードする人々が達成した公平性、効率性の高い功績に基づいて教育の可能性を示すことができる」といったように海外の様々な教育体系を見ることによって、政策立案者は、測定可能な目標に基づいて有意義な目標を設定することができ、異なる教育システムが類似の課題にいかに対処しているかを理解できるようになるのです。そして、私が感じたように、「政策立案者や実践者が国際的な視点から自らの教育システムについてより明確な見解を得る機会が提供されることである。そのシステムの根底になる信念や構造、強みや弱みを深く理解した上で、教育システムは変更、改善されなくてはならない」と言っています。

 

私はそれともう一つ、こういった変更改善を行うためには、自分の教育システムを見直す視点を自分も持っていないといけないということです。そして、そのためには、今自分たちが行っている保育や教育に対してしっかりと理解していなければ、変更や改善するのではなく、鵜呑みにしてしまいます。まず、じっくりと自園での実践に目を向けることが重要なのだということが分かります。

誰のため

アンドレアス氏は教育を車のキーを紛失した運転手になぞらえてこういっています。「車のキーを無くした運転手が、街灯の下を探し続けたところ、誰かに『鍵を落とした馬車はそこか?』と聞かれ、『違うがここしか見えないから』と答えた」そして、教育にもこういったところがあると言っています。「最も手にしやすく、見やすいものを見るという根深い本能です。多くの場合、最も重要なことではなく、最も簡単に測定できる方法で教育の進捗状況を確認する。そして、他のところで達成されているものとの比較ではなく、自国や特定の地域の自信の学校内で起こっていることのみに基づいて教育を議論することが多い」といいます。

確かに人は目に見えるものを信じます。それは何も教育だけではなく、様々な産業でもそうでしょう。目に見えるほうが安心するのです。しかし、ヒトには知恵があり、見通しを持てるだけの想像性も持ち合わせています。大きな大局を見て、教育を進めていくことが必要であり、未知の未来を想像して進めていかなければいけないなか、どうも最近はこの見通しを持つことを忘れ、ルーティーン化された教育体系が当たり前になっているように思います。こと保育においても同様に言えます。「去年こうだったから」とか「これまではこうだった」といって毎年同じことが行われているということはよくある話です。もちろん、それが今の子どもたちにとって、発達にあっているものであったり、興味や関心があったりするものならいいのですが、大人が導入をしっかりして、子どもたちを誘導していくというのはどうなのかと思うこともあります。また、どうしても新しいことに取り組むことにはエネルギーが要りますが、なかなかそこに目が向けられず、合理化してしまったり、長い目で成長を見届けれず、介入してしまったり、と保守的になってしまうことが多くあります。

アンドレアス氏はこういった保守的に考え、広い視野で教育を考えていかなければいけないことにこう言っています「グローバル化は、経済、職場、日々の生活に大きな影響を与えており、教育は非常に局所的で内向きになることがおおい、教育システムは、互いに学ぶことから分離する『壁』を構築する傾向がある」と言っています。つまり、こと「教育」や「保育」に関しては閉鎖された考えがあるといっているのです。これは私も気にしているところです。教育や保育の世界にいるものにおいて、経済界や現在の企業職場に至るまで、社会のことが直結しているという実感がわいていない現状は大いにあるように思います。これは私もかつてはそう思うところがありました。しかし、今、海外の教育施策の話を聞いていると、日本に比べ、海外の保育、特に運営者ほど、社会に向けて保育を考えていることが分かります。アンドレアス氏も「教育システムの運営者は、自分の長所と短所に関する知識を得られるが、最前線で教育を運営し尽力している校長や教員はそうではない。自身の知識をより効果的な実践に転換する方法を知らないかもしれない。」と言っています。

保幼小の連携はずっと問題視されている中で、こういった連携や情報交換は非常に重要な意味合いを持たせるのでしょう。そのためには、各々の人たちがそれぞれの現場でどういったことを考え、どういった保育や教育を施し、繋げていくのかということを議論しなければいけませんし、なによりも、どういった人材を育成するためにあるのかという共通認識がなければ機能しないのかもしれません。

質を考える

異なる視点や世界観に従うには他者の現実感や視点に深い敬意と関心を持つということであるとアンドレアス氏は言っています。では、他者の立場や信条を認識し、自分自身の視点を深め、より成熟した意思決定を可能とする社会情動的スキルや認知的スキルを育てるためにはどういったことをしたらいいのでしょうか。アンドレアス氏はこういったスキルを育成するには、学習と教育のための非常に異なるアプローチや教員の能力が必要となるといっています。

 

アンドレアス氏は「前もって準備された知識を授けるような教育では教員の質は低くなる。そして教員の質が低いと、政府は望む結果を得るために民間セクターをつかって、教員になにをすべきか、どのようにしてほしかを正確に伝える傾向がある。現在の課題は、教員というものを高いレベルで自律し協同的な文化で働く進歩的な知識労働者とすることだ。」といっています。このことは現場においても非常に課題になっていることではないでしょうか。

 

現在でも様々な研修会で園内研修をどうやっていくかという研修が多く行われています。確かに非常に参考になることばかりで、自園でもかんがえなければいけないのかなとも考えているのですが、それだけではなく、教員自身が自律する環境も必要であるように思います。園内研修を行ったとて、それが「やらなければいけないもの」であるとどうしても惰性になりがちです。それが「やりたいもの」でなければいけないのです。大切なのはそういったことが「必要である」と気づく環境が必要であるように思います。それは園の雰囲気であったりするでしょうし、それこそが「保育者としての質」でもあるように思います。そのために、管理職である人間の役割は大きいのだと考えます。あるべきリーダーシップがなければ、職場の雰囲気は変わってきません。何事においても通じるところではあるのだと思いますが、組織風土が働く人のモチベーションを大きく変えるのです。仲良くなければ、意見は出てきません。しかし、ただ仲がいいだけだとそれは「なぁなぁ」の関係になり、それもよくありません。リーダーシップ論は教育現場においても、必要なことなのです。

 

また、アンドレアス氏は教員に必要なこととして「教員は有能な専門家、倫理的教育者、協同学習者、革新的な設計者、変化に富むリーダー、社会の構成員として働いている」といっています。そして、「しかし、そのような人々は主に行政上の説明責任体制、職務を指示する官僚的な指揮命令系統、科学的管理主義で組織された学校の交換可能な大量生産品としては機能しない。」つまり、これは現行の学校システムを変える必要があるとアンドレアス氏は言っています。「学校の専門的な統制基準、官僚的で管理的な職業基準を変える必要があり、過去とは社会通念であり、未来とは私たちが作り出す知恵なのである」つまり、過去の行事であったり、いわゆる「伝統」と言われるものがこれからも必要なのかということを考える必要も「ある」ということです。これは保育施設でも教育施設でもあることですが、「伝統」という言葉によって「やらなければならない」ものがあります。しかし、それ自体が今の時代やこれからの時代に本当に「必要なものなのか」を見直すことも必要なのです。そして、「必要でなければ無くす」ことも必要なのです。大切なことは、「伝統である」ものだとしてもその「意図」をしっかりと見据えることです。何が大切なのか、どういったものが本質であるのかその追及をしていくことこそが、「質」の向上においては大切なことであるように思います。

社会情動的スキルの重要性

「社会情動的スキルは多様性と重要な形で交差している」とアンドレアス氏は言っています。そして、「様々な考え、観点、価値観を理解し、多様な文化的起源の人々と協力し、テクノロジーによって空間と時間を橋渡しする必要があるという世界、国境を越えた問題により人生に影響を受ける世界で子どもたちが生きて働くのに役立つ」といっています。これはこれからのグローバルな社会においては必要な力です。様々な文化圏では日本の文化が通用しないことは多くありますし、日本での常識は海外では非常識な場合もあるのです。そのため、グローバルな社会では多様性に目を向けれるほど柔軟な体質が求められます。そうでなければ、一緒に働くのは難しいのです。最近では、コンビニでも海外の人が働いていることもあります。実際自園でも、調理に入っている人は海外の人であったりします。近くの工場でも、海外の人が働いています。保護者でも、日本語が通じない海外の人がいます。これは決して、遠くの未来の話ではなく、今現在目の前で起きている現実なのです。こういった環境において、今目の前にいる子どもたちはそういった人たちと働いたり、関わることが今以上に多くなっていきます。そのうえ、遠隔での関わりができるようにテクノロジーの進化も目覚ましく、今後は世界中の人々がさらにつながっていくでしょう。こういった多様なチームの中で効果的なコミュニケーションと適切な行動がとれることが多くの職場での成功の鍵になってくるとアンドレアス氏は言っています。

 

そのため、雇用主は新たな文脈に自身のスキルや知識を適応したり応用したりし、容易に適応する学習者をますます求めています。このような相互に関連する世界に求められる社会人において、これからの若者はグローバリゼーションの複雑な動態を理解し、異なる文化的背景を持つ人々にオープンである必要があるというのです。

 

よく、「英語が話せても、その内容がなければ話せない」と言われます。つまり、中身が伴っていないのに、テクニックだけあっても宝の持ち腐れになるのです。知識や技能は間違いなく必要です。しかし、それを使いこなすためには根本的な人間性や思いやり、何のために行うのかといった動機がなければ使いこなせないのです。アンドレアス氏は「他者の現実観や視点に深い敬意と関心を持つこと」が異なる視点や世界観、価値観につながるといっています。これは相手の立場や信条をただ受け入れることとは異なります。複数のレンズを通して物事を見ることが重要なことで、こういったことを通して、自分自身の視点を深め、より成熟した意思決定を可能とすることができるようになるのです。

 

これは何も海外の人やグローバルな社会だけに必要なことではなく、そもそも社会において重要なスキルであるということが言えます。現在、自園ではチーム保育を行っていますが、やはりこういった多様性が保たれていると働く側はイキイキとしています。逆にワンマンな形になると、立場が上の人も従わせなければいけなく、下の人は窮屈そうです。「連携」や「チームワーク」というのは多様性が求められます。それは「こうすればいい」といったマニュアルではなく、それぞれの特性や思いやりを通したものが必要になります。チーム保育はそういった意味では働く先生方も子どもたちを見るだけではなく、各々が「気づく」環境に次第になっているように感じます。子どもにとっても、大人にとっても、こういった環境での迷いや葛藤はそのまま課題になっているように思います。