教育

これまでの学力・これからの学力

これからの社会において、必要とされる能力というのは大きく違ってきているということはこれまでの内容でも話してきました。それにおうじて、学校生活で身につける学力もどうやら大きく変わってくることが見えてきます。では、日本において、「新しい学力」というのはどのように捉えられるのでしょうか。明治大学教授の齋藤孝さんは著書「新しい学力」(岩波書店)の中で、「『学力を伸ばす』ことによって目指すべき『目標』が変わってくる』といっています。そして、それはこれからの社会では「伝統的な学力」から「問題解決型」の能力を中心としたものへ変わっていくのではないかというのです。

 

では、その「伝統的な学力」とはどういったことを言うのでしょうか。このことについて齋藤氏は「伝統的な学力とは知識重視・暗記中心型の学力」を指して言っています。これに対して、これからの学力とされることを「二十一世紀型学力」と呼ばれているそうですが、これは「日常生活や仕事において、それぞれの人が日々出会う『課題』を解決するために必要な、思考力・表現力・判断力等を主とする力」を指しているのです。このことについては前回のアンドレス氏の著書においても、同様のことが言われていましたね。アンドレアス氏も「協同的問題解決能力」が今後必要になってくると言っていました。

 

この「新しい学力」がなぜ必要となってくるのか、斎藤氏は「社会全体がグローバル化し、変化が厳しくなる中で、柔軟な思考力で課題に対応し、自らの発想によって意欲的に道を切り開く、そんな人材を育てることが主眼となってきているといえよう」といっています。

 

この視点は保育や教育をするものとしては深く考えなければいけないのではないかといつも考えています。というのも、つい私も含めですが、日々の行事や活動に追われ、バタバタし中で保育を進めてしまうことがあり、「なぜ、保育が必要なのか?」といったことや「教育が必要とされるのか?」ということを忘れてしまうことがあります。「なんのために?」という大きな目標を見失ってしまうと、本来の意図が意味を成してきません。では、実際のところ何のために教育や保育はあるのかというと齋藤氏のいう「人材を育てること」にあるのだと思います。

 

この今の社会を支えるのは今、保育や教育を受ける子どもたちなのです。割と普段保育をしているとそういった根本的な目的を忘れがちなってしまうことが多いように思います。しかし、これは真実であり、意識をしておかなければいけません。新宿せいが保育園の藤森平司先生は「保育は30年後に結果が出ます。だから、30年後の社会を予測して保育していかなければいけません」とおっしゃっています。私もそう思い保育をしたり、先を予測していくように考えなければいけないと思います。

新しい学力

PISAの学力調査の立ち上げたアンドレアス・シュライヒャー氏の著書を通して見てきましたが、これまでの話を見ていても、どうやらこれからの教育というのはこれまでのものとは大きく変わってくるということが言えるのでしょう。何よりも、社会の中で大きく変わってくるというのが技術革新です。AIの発展により、これまでの知識を覚えるということはデジタルメディアによってとって代わられることになります。情報はより多様にわたり、情報のスピードもかなり速くなってきます。そういった中で必要になってくるのが、その多い情報を処理し、正確な情報を取り出す力です。そして、その正確な情報を次の新たな技術や新たな産業に取り込んでいかなければいけません。そうしていかなければ、これからの情報化社会の中では発展していくことができないのです。知識を持っていることは重要な能力ではなくなるのです。それよりも、そういった知識を生かすことが必要になるのです。

 

そのために、「新たな学力」を模索していかなければいけません。これまでとは大きく違ってきた価値観が求められます。当然、このことは学校教育だけの話ではなく、乳幼児教育においても、同様に言えることだと思います。私は常々学校教育が変わるためには乳幼児教育から変えていかなければいけないと感じています。学校教育に向けて、その土台を作っていかなければいけないのです。しかし、この「土台」という言葉はしばしば勘違いされることがあります。それは「小学校の先取り」のように小学校でするであろう内容を保育の中に取り込んでしまうことです。たとえば、50音や英語教育、こういったものが「英才教育」のように捉えられ、取り入れられることも多くあります。このことに対して、さまざまな園で、さまざまな考えや価値観があるので、言及は避けますが、私の考えとしては、もう少し子どもの教育や保育を「発達ベースで見るべきではないか」と思うのです。

 

「子どもたちはやらせればできる」と言われることがあります。確かにその通りです。教え込むことでできることはあるでしょう。しかし、それがその子にとって「本当にやりたいことなのか」と言われるとそうではないことが多いです。「いろんなことをやらせる中で好きなことも見つかるかもしれない」と言われることもあります。しかし、では、そのいろんなことをする中で好きなことが見つかるかもしれませんが、その反面、その一つを見つけるために多くのものが嫌いになってしまう可能性もあるのです。

 

これは極論かもしれません。すべての子どもにこの考えが当てはまらないかもしれません。すべてのことが好きになるかもしれません。しかし、それは自分で選んだものでもなく、いわゆる他律です。自分で選んだものではないのです。ではなんでも自分で選んだことはどんな選択でも、何しても良いのかと言われるとそれも違います。ただ、それは「何でもいい」ということではありません。大切なのことは自分で選んだことには「責任」があるということです。自分で選び、自分で責任を持つことで、初めて自分を知ることになります。

 

大切なのは「自分で気づく経験」が自律につながることだと思っています。これからの社会では、アンドレス氏がいうように関連付けたり、イノベーションを起こすことが重要な時代になります。そういった時代において、教育や保育はより重要な意味合いが求められてくるだろうと思います。そして、その重要性はこれまでの教育という部分からより、人間性における人格といったところを中心とした教育や保育に視点が送られていくのだろうと思います。

教育の進まない理由

アンドレアス氏は「教育のイノベーションの水準は、他の経済分野とほぼ一致する」といっています。ただ問題はそのイノベーションは起こせばいいという量の問題ではなく、質や妥当性、アイデアの効果を発揮するスピードが重要になってきます。今の時代でも、イノベーションは起きてはいますが、学習中心に焦点があっておらず、遅々として進んでいないとアンドレアス氏は言っています。では、その欠点はどこにあるのでしょうか。

 

一つは「柔軟性とイノベーションを公平に担保しながら両立すること」それは学校それぞれの自律性や多様性を高め、教育機関の競争を増やすことが挙げられるということです。これはそれぞれの学校に裁量を持たせ、意思決定を現場に持たせることが挙げれられます。これは結果として、各学校の競争意識につながる場合もあり、難しいところです。そのため、この方法が効果があるのかはまだ確証はないそうです。確かに営利目的になり始めると教育の性質とは離れていってしまいます。また、この動きに関しては政府の動きも重要になってきます。アンドレアス氏は学校の自律性、と地方分権、よりニーズに基づいた学校制度の拡大が求められると言っています。そのため、中央政府と地方自治体の協働があって、学校選択がより多くの生徒に恩恵を与えるようになるのです。

 

つぎにガバナンスのイノベーションです。アンドレアス氏は教育において、ホワイトボードやコンピューターなど新しい方法を導入してきましたが、それが他分野でのイノベーションに追いついたかどうかは定かではないと言っています。現にアンドレアス氏は教育が他分野でのイノベーションに追いついていないことを自問してきたというのです。そして、これについて、政府、学会、教科書会社の現在のビジネスモデルを破壊する以外にもっともな答えを見出すことができなかったといっています。

 

しかし、より大きな問題は、たとえ、優れた教育研究や知識が存在しても、多くの教員は彼らが直面する問題が科学と研究によって解決できると信じていない点であるとアンドレアス氏は言います。「あまりに多くの教員が、良い授業はインスピレーションと才能に基づく個人的なアートであり、職業人生を通じて向上していくスキルではないと信じている。」というのです。それは教員だけのせいではなく、教員の知識やノウハウを体系化する報償や奨励、そういった積み重ねた資源などが不足しているため、この問題は政策にさかのぼる必要もあるというのです。というのも、「多くの国では、教育以外の労働時間の余地が少なく、教員は知識創造に取り組むことができない。他の専門職とは異なり、実践者のための専門機関あるいは科学的な共通言語さえも構築することができなかったので、教育実践はあいまいなまま可視化されず、孤立しており、伝承が難しいままである。より良い知識に投資し、広い普及することを優先すべきである。」というのです。

当事者意識

前回から出ていたテクノロジーについて、結局のところ、ただ、デジタルテクノロジーを利用するだけでは成績が上がらないということが分かりました。そして、アンドレアス氏はデジタルコンテンツがかえって教員と生徒との緊密なやりとりを阻害しているとも言って言います。結局のところ、デジタルテクノロジーもあくまで授業における媒体としては必要なものであり、効率の良いものなのですが、あくまでもツールであり、教育という目的に対して、それがあればいいというわけでもないようです。では、アンドレアス氏はどういった教員が結局のところ必要といっているのでしょうか。

 

アンドレアス氏は「素晴らしい授業の中心はテクノロジーではなく、当事者意識である」といっています。「多くの人は、教員や学校管理職に十分な能力と専門知識がないために自立を高めることができないという。しかし、教育の規範的モデルを維持するだけでは創造的な教員は生まれない。調理済みのハンバーガーを再加熱するためだけに訓練された人が料理長になることはできないのである」といっています。そして「対照的に、教員が自身の教室に当事者意識を感じるとき、生徒が自身の学習に当事者意識を感じるとき、生産的な授業が行われる。したがって、信頼、透明性、専門家としての自律性、専門家の協同文化を同時に強化することが重要なのである」といっています。

 

この「当事者意識」という言葉は以前、工藤勇一氏の著書にも書かれていました。しかし、当事者意識を持たせるいうのはなかなかに難しいことです。自分自身もまだまだ課題なのですが、「人を信じる」というのはなかなか容易にはいきません。2011年のオランダでは教員主導で職業基準を考えていることをアンドレアス氏は研究したそうです。そこで当時のオランダ政府は「教員に任せれば必要な厳格性が失われ、最小公約数のような基準になる」という懸念があったそうです。しかし、反対のことが起こったのです。つまり、オランダ政府には課すことができないような職業基準を教員が自ら開発したそうです。これはほかの職種でも同じことが言えるそうなのですが、プロ意識や専門家としての誇りが、政府よりもはるかに優れた監視役になることがあるのです。

 

「これはほかの職種でも同じことが言える」というように当事者意識というのはそれほど大きな行動力を与えるのかもしれません。そして、実際その現場で行う人々が決めたことであるから、それを遵守するということも強固に行ってくれるのでしょう。この事例は非常に参考になります。そして、これは何も大人に限った話ではありません。これは子ども社会に関わるリーダーシップにおいても同様のことが言えるのだろうと思います。この当事者意識を持たせるというのは一種のリーダーシップです。そして、保育者や教育者は子どもたちにとってはリーダーなのです。つまり、子どもたちに1人1人に当事者意識を持たせることは自立性を高めることになるのです。見守る保育は子どもたちに責任を感じるようにすることも一つの意味合いとしてあります。責任があるということは自分が責任を負います。それは子どもたちに当事者意識を持たせることでもあるのです。

これからの教育現場

教員が当事者意識を持つことで、自律性を高めることができ、結果そのことで職員間のスキルの向上であったり、質の向上にもつながるのではないかとアンドレアス氏は言っています。これは特に21世紀の学校システムへの対応にも大きな影響が出てくることが見えてきます。

 

今の教育現場では国が定めたカリキュラムを教室で実践するという最重要事項でさえも、教育システムの様々な階層を経て目標と方法を共有し、それらを教育養成プログラムに組み入れるには10年以上もの時間を要すると言われています。そのため、生徒がこれからの社会の急速な変化に対して、「何を、どのように学ぶか」が急速に変わってきます。そういったなか、学ぶものの変化と教員がどのように教えるかにタイムラグが出てきます。そして、それは変化が急速であればあるほど、タイムラグは拡大するのです。

 

では、そのタイムラグを短縮するにはどうしたらいいのでしょうか。その唯一の方法は専門性を高めることだと言います。それは成績など成果としてカリキュラムではなく、カリキュラムの設計課程とカリキュラムの背後にある考えを最もよく伝える教授法を教員が確実に深く理解できるようにすることを意味します。

 

将来若者たちにとって価値あるものに対応するためには学校は厳しい課題に直面するだろうとアンドレアス氏は言っています。「教科書の内容はますます重要ではなくなり、より良い授業では文脈として扱われる。今日のカリキュラムの多くは、もはや存在しない静的な世界に生徒を参加させるように設計されている。そのような種類のカリキュラムは、階層的な官僚主義において産業的な手法で提供することができた。これまでの教育デザインでは、教員は専門家として高度な洞察を発揮することを期待されなかった。しかし、それでは不十分である」といっています。

 

これまでの教育とこれからの教育というのは、そもそもの根本的な考え方に違いがあることが分かります。そして、学ぶ主体が「学ばせる」職員側からではなく、今まで以上に「学ぶ側」つまり生徒側の姿勢に大きな意味が出てくるのだと思います。だからこそ、教員は指導的な立場から、より支援的な立場としてのスタンスになるのです。これからは主体である人がより明確に変わってくるのです。そんな時に、支援側でいるためには、より今子どもたちが必要としていることがどういったことなのかを予測し、察知していかなければいけません。そして、それができるためには、その活動や教育が「何のため、誰のため」といったじつに理念的な視点がより求められます。自分たちがどういったことが子どもたちに還元でき、自分の役割はどういったものなのか、主体はどういったことなのか、よりその意識によるものを持たなければいけません。そして、これは何度も言うように教育現場だけではなく、保育現場でも持たなければいけない意識です。今、保育している子どもたちが一体どんな世界で人生を送るのか、そういった見通しも含め、考えていく責任があるのだと思います。