進化

空間の使用

日本人は自然との共存において生活し、暮らす中で培ってきた生活空間に関する空間の知識があるとマサビュオーは言います。そして、その意識を4つの次元として定義しました。1つ目は「空間の把握」、2つ目が「空間の秩序化」です。

 

そして、3つ目が「空間の使用」です。このことについてマサビュオーは「まず、空間が把握され、占有され、秩序が与えられたならば、その空間はつぎに、人間生活のさまざまな局面に適したものにされなければならない」といいます。日本における自然の特徴は、自然条件が厳しく、また自然空間が細かく分かれていることだとマサビュオーは言っています。

 

日本の国土は狭いうえに、人間が住めるのはほんの少しの土地で、ほとんどが山地で占められています。日本は国土面積に占める森林面積は約70%で、世界でも有数の森林大国です。2015年のデータによると、森林率でみるとOECD(経済協力開発機構)加盟国内では、フィンランドに次ぐ世界2位でした。そして、それほど多い森林地帯を日本人は苦労をして切り開き、耕していきます。そして、この耕してきた耕地のほとんどは水田で、平野部に集中しています。このため、人間の居住区は、農村部でも都市部でも「豹紋」のような配置になっていて、コントラストが激しいというのです。局地的に過密な場所ができる一方、人の住まない過疎の場所もできてしまいます。

 

このように自然によって「刻印を押された」とも言えるこのような地理的特徴は、日本の空間構成の基本的傾向であり、その程度が次第に強まって、現在の大都市において一種の頂点に達しているのではないかと、彼は東京の一極集中の原因を分析しています。では、このことはどういった意味を持たせるのでしょうか。

 

マサビュオーは空間を「役に立つ」ものにするためには、与えられた自然環境の中で、ひとつの共同体が生活していくのに切り離すことができない諸価値、生き延びていくのに不可欠であると判断された諸価値の実現を企てることだといいます。それは技術の問題として検討することが必要だといいます。そして、彼はそれらの技術を5つのグループに分類できるとしています。

 

日本は様々な自然条件の中で共同体を作り、そこで生活してきました。そして、その土地の自然とうまく共生をしています。そこでの知恵が共同体を維持することにつながり、生活の中で切り離すことのできない諸価値につながったのでしょう。旅行に行くと日本は非常に多くの民芸品やその土地にあった特産品なども種類があることに気づきます。その種類が沢山あるのもこういった共同体の諸価値によるものが多いのかもしれません。では、このマサビュオーの言う「共同体が生活していくのに切り離すことができない諸価値、生き延びていくのに不可欠であると判断された諸価値の実現を企てる技術の5つのグループ」とはどういったものがあるのでしょうか。

 

日本家屋の影響

モースは、日本家屋と欧米家屋との玄関についてこう比較しています。

「アメリカの場合であるが、家に入って直ちに目につくのは玄関広間ないし玄関口の会談である。この階段の手すりと、美しくカーブする手すりとは自慢の造形なのである。比較的つくりのよい家屋では、特にこの部分に建築家の注意が払われている。しかし、日本では家屋が二階建てでも階段は、目に触れる場所には滅多にない」というのです。

 

実際、海外の園では玄関ホールを広くとる園が多くあります。そして、そこでは集会が行われたり、運動遊びをしたり、保育室としても使われています。私自身が海外研修で行った時も運動遊具が置かれていることが多くありましたし、そこで遊んでいる様子をよく見ました。一方それに対して日本の園では、玄関には靴箱がおかれるだけのことが多く、玄関で保育をすることはまずありませんし、そのような使いかたをするような空間は作られていません。

 

また、このつくりはミュンヘンの宮殿と日本の城 熊本城にも見られると藤森氏は言います。「ミュンヘンの宮殿は玄関の大広間から長く廊下がつながっていて、その廊下は左右対称に延びています。そして、その廊下に面して各部屋の扉がついています。こうしたつくりはミュンヘンではスタンダードな平面構成のようです。それに対して、日本の宮殿である熊本城はどのような作りをしているのでしょうか。熊本城の本丸御殿の1階平面図が、かつて熊本城のHPに掲載されていました。それを見ると、日本の家屋同様、そこには廊下というよりは、部屋の内外をつなぎ合わせたような縁側があります。昭君乃間と大広間はふすまで区切られ、おもてなしの場所として使われたであろう茶室が、廊下ではなく部屋でつながっています。」

 

確かに、ネットの熊本城の平面図を見てみるとそれぞれの「間」と呼ばれる部屋はすべてふすまによって仕切られており、その周りを縁側が廊下としてつながっている構造になっています。そして、奥の茶室として使うであろう場所も部屋でつながっているのです。モースはこのことを「開放感のある空間」と言っていますが、まさに、空間の自由度があり、柔軟に空間を作ることができるということに関して日本家屋の作りは非常に適した作りになっているということがわかります。日本の保育室はどうでしょうか。私の園ではオープンな環境をつくり、間仕切り壁や移動式の家具によって仕切りを作っています。どちらかというと日本家屋よりですね。しかし、以前は廊下に面して各部屋があり、そこには壁があることで各部屋が隔絶されていました。どちらかというと欧米式の形態です。実際のところ、「どちらがいいのか」ということは保育の形態によって違うのでしょうが、広さを柔軟に移動できる分、今の家具や間仕切り壁があるほうが、子どもたちの遊びの流行りや新たなゾーンづくりに関して、柔軟にその広さを確保できます。そして、保育のシーンに合わせて動かすこともできるので、子どもの動きに合わせやすさを感じます。

 

また、壁があるわけでもないので、「常に他者を意識する」ことも必要になってきます。こういった意識や環境によって日本特有の「おもてなし」や「思いやり」といった道徳性というものにも大きく影響したのではないかと感じています。あまり閉鎖的な保育室を作るよりも、開放的で他者と触れ合うことや意識せざるをえない空間が「思いやり」や「道徳心」といったものにつながるのかもしれません。日本はとても共同的な意識が強い文化であると思うのです。その文化になっていくにあたってこういった日本の家屋の作りにも大きな影響を与えられてきたのではないでしょうか。

真のAI

AIは「適当に考えることができない」ことや「ほんとうの意味を理解していない」ことが弱点であるといわれています。では、この弱点を克服した「真のAI」つまり、人と同じような常識をもち、どんな問題にも対応できる「汎用AI」はいつの日か実現できるのでしょうか?そもそも汎用AIとはどのようなモノになるのかなどについて見ていきます。ここでいう「汎用AI」はある特定の仕事だけができる「特化型AI」とはことなり、人のように多様な仕事に取り込むことができ、突発的な事態が生じても柔軟な対応が可能なものということです。こういった汎用AIを実現するためには、前回話にあった「フレーム問題」と「シンボルグラウンディング問題」を解決しなければなりません。

 

 

その一つの方法が「AIに身体を持たせる」ことです。画像認識AIはディープラーニングをつかって、猫の大量の画像から猫の特徴をつかむことができます。視覚に限って言えば、AIはすでに人と同等以上の識別能力を持っているといえます。これと同じように多種多様なセンサーを搭載させたロボットを使い、嗅覚、聴覚、触覚などの他の感覚でも実現できれば、AIに人間と同様の“常識”を身につけさせ、2つの弱点を解決できるかもしれません。一方で、このような学習のために必ずしも実際のロボットは必要ではないという意見の研究者もいます。それはコンピューター上の仮想世界で、現実の世界と似た経験と学習をAIにさせればよいという考えです。この場合、人間に似たロボットを作るという大きな課題を避けられますが、現実の世界のように自然法則にしたがって動く仮想世界を作る必要があります。また、ディープラーニングとは異なる新たなAI技術が必要だと考える技術者もいます。つまり、まだまだ、人と同じような汎用性のあるAIを実現させるためには課題は山積みなのですね。

 

 

結局のところ、人と同じような身体を作る外的要因をもつのか、それとも仮想世界を作るといった内的な要因によって人の感覚を得る経験を積むのかといったことがなければ人と同じような真のAIにはなることは難しいのですね。人は五感を駆使して様々な感覚を得ることで、感覚として関係あるものを適当に判断すること(フレーム問題)や言葉を記号としてではなく、実物像との関係性を知ること(シンボルグラウンディング問題)も実世界の中で過ごすことで判断できるようになっているのですね。最終的には外か内に「人の形」を作ることが“真のAI”に近づくことになるのでしょう。そして、それが可能になり、実現したときに人の社会はどうなっているのでしょうか。ロボットとの共生という世界はどういった社会なのでしょうか。鉄腕アトムのように「心」をもつAIは表れてくるのでしょうか。わくわくする内容ですが、その反面、不安なことでもありますね。

心の理論と学び

自分の心と他者の心を推測することといった「心の理論」はいつごろ獲得されるのでしょうか。先日のブログの中でも少し触れた部分なのですが、これまでは4~5歳児から自分と他者との関係がわかってくると考えられていました。これは「誤信念課題」といわれる方法によってわかってきました。それはどんな方法だったのでしょう。

 

例えば、男の子と女の子が部屋で一緒に遊んでいます。男の子がボールを籠の中に入れて部屋を出ます。男の子がいない間に残った女の子がボールを別の箱に移します。そして、この場面を被験者に見せて「男の子は最初にどこを探すと思いますか?」と聞きます。正解は初めに男の子がボールをいれた「籠」です。しかし、箱と答えてしまう場合は「心の理論」が得られていないということになります。この方法に対して、従来は4~5歳児は正しく答えられますが、それまでは他者が自分とは違う見解を持っていることを想像できないため、自分が知っている方を答えるといわれています。

 

しかし、この結論もどうやら違ってきているそうです。「3歳以下の子どもは心の理論をもたない」という定説を覆したのは2005年の科学雑誌「サイエンス」にある当時、イリノイ大学の大学院生であったクリス・オオニシらの論文であると藤森氏は言っています。赤ちゃんが数、引き算を理解しているという実験ですが、それによって月齢15カ月の赤ちゃんでも誤信念課題(他者の気持ちがわかる)ということがわかったそうです。こういった研究はまだまだ賛否両論であり、異論も多くあるそうです。しかし、このように様ざまな観点から「乳児が他者の行動を理解するメカニズム」を解明しようとしているのです。

 

人の真似をすること、模倣行動は社会行動の中でも最も重要な働きであると言われています。それは真似をすることで、試行錯誤なしで効率よく学ぶことができるのです。そして、ヒトの文化的な行動は「ヒトからヒトに伝えられてきたのである」ということもできるのではないかというのです。以前、民俗学の観点から子どもの文化を見ていても、大人の行動にとても興味のある子どもたちは様々なことに興味を持って模倣してみようとします。そして、その活動の中で、道具の使い方や食べ物の扱い、危険なモノへの対応などを学んでいきます。それはただ連合記憶のみに頼るやり方では、他者の行動を素早く真似ることはできないと言います。相手の行動とその文脈から行動の目的を推論し、同じ目的を達成するような自分の行動を生み出すことができたときに可能になります。それかまたは、相手の動きをあたかも自分の動きのように処理することによって、その行動に関わる一連の運動を体験し、学習することが可能になります。それが「目的論」や「シミュレーション論」というものです。

 

つまり、ただその物事を覚えるだけでは真似できないというのです。相手の意図がわかっていないと真似もうまくいかないのですね。勉強においても同じことが言えるのかもしれません。応用までできるようになろうと思うと、ただ覚えるだけでは応用はできません。何か目的がないとそこまで理解しようとする意欲は湧かないのかもしれません。「模倣から学ぶ」ということは結局のところ意欲が出やすい環境なのだと思います。社会脳は人間関係だけでなく、「学ぶ」という学習意欲にも影響するのだと思います。

脳の進化と遺伝子と環境と

生物の発達を考えるにあたって、それが生まれつきなのか、その後の環境によってなのかは大きなポイントになってきます。藤森氏は「保育の起源」の中で「私は、生まれながらに持っている遺伝子は、長い進化の過程でその種が生存し、子孫にその遺伝子をつないでいくように作られているのだと思います。」と言っています。たとえば、タンポポは花を咲き終えたら、綿毛になり種を風に乗せて飛ばします。この営みは遺伝子に組み込まれた活動です。しかし、その種が落ちる場所はどこに落ちるかわかりません。なぜなら、どの環境に落ちるかは遺伝子に組み込まれていないからです。落ちるところは子孫を残すには最適な場所ではないかもしれません。しかし、10本のタンポポから10本以下しか増えなければその種は滅びてしまいます。そのため、ばらまく種の数やそのリスクを計算して種を多くし、風に効率的に乗って遠くに飛ぶように進化していきます。つまり、環境要因のリスクを減らすために進化発達するということは環境も無縁ではないのです。また、環境によってその数では対応できない状況が起こることがあります。そのときには落ちた環境に適応できるような能力を次第に獲得していきます。それは長い進化の過程の中で行われていくだけではなく、その時々にも適応できる遺伝子も兼ね備えていて、その環境ともとからの遺伝子との相互関係によって変化させていくのです。藤森氏は「それはまさに『柔軟性』であり『遊び心』であると思っている」と言っています。

 

「社会脳の発達」を書かれた千住氏はこのあたりのことを脳科学の観点からこう考えています。「『脳機能は局在する』『脳機能の局在は経験によって変化する』という発見は、現在の根幹をなしています。一見矛盾するこの知見は、脳機能の局在が脳の構造発達と環境からの入力との相互作用によって創発するという、相互作用説によってうまく説明できます」そして、その相互作用説に基づくのであれば、「脳の発達だけでも社会環境だけでもなく、その両者が発達の過程でどのような相互作用を見せるのかを、丁寧に追いかける必要があります。そのためには発達初期である乳児期から、ヒトの発達の過程を直接研究対象とする必要がある」と言っています。タンポポと同じように人間の脳の発達においても、そもそも脳の中にある遺伝子やその機能と社会環境との相互作用によって発達進化しているということが言えるのではないかと言っています。そして、そのために乳児期から発達する過程を直接見ていく必要があるといっています。

 

しかし、その研究では次のような課題を考えていると千住氏は言っています。「社会行動や社会的認知の脳神経基盤を発達認識神経学の手法を用いて探る、「発達社会神経科学」とでも呼ぶべきかもしれないこの研究方略は、言葉を話さず、運動能力や注意の持続、体力などに大きな制限のある赤ちゃんを対象に、どうすれば認知や脳機能を計測できるか、という技術的な因果を避けては通れない」と言っています。このことに対して藤森氏は「このような研究に対して現場(保育現場)の立場からすると、『臨床保育学』という視点を持つべきだ」と言っています。そうしたうえで「そうはいっても、最近の技術革新により、乳幼児期の行動や脳機能を無理なく測定することは格段に容易になり、体系的に進めることが可能になってきているようです。特に、乳幼児や児童を対象とし、彼らが直面する社会的な環境への適応について、脳科学の手法を直接用いた研究を行うことにより、新しく刺激的な知見を次々と獲得しつつあるようです」と言っています。

 

これまでの内容を見ても、かなり具体的に脳がどのような作用をして、社会性を発達させているのかということがわかってきているように思います。そして、そのことに対して保育や教育というのは無縁ではなく、この研究で解明されていることはまさに保育現場で普段から子どもたちの脳の中で行われているということを忘れてはいけないのです。そして、それほど重要な部分に関わっているということを改めて考えていかなければいけませんね。