社会の変化
最近日本のGDPがドイツに抜かれ世界4位になったというニュースがみえられました。これを見てどのように思うでしょうか。私は「これからどうなってしまうのだろうか。世界的に見て、日本は弱くなってきているのだろうか」と不安になりました。しかし、池上さんは「after2040」でGDPについて「先進国では『GDP』という概念の抜本的な見直しが一段とすすむ」と話しています。そもそもGDPとは消費してものが生まれることで初めて増えます。つまり「お金をかけない『コト消費』ではふえません。」と話しています。このコト消費ですが、例えば、家族でレストランに行って1人1500円のものを4人で食べれば6000円になり、GDPに反映されますが、家で1000円くらいの素材を買って料理すると1000円しかGDPに反映されません。もっというと、月500円と破格の値段で畑を借りて、野菜を作って自給自足すると当然まったくGDPに反映されません。しかし、その人が畑作りに生きがいを感じていれば、GDPが低くとも生活の豊かさや幸せが生まれると池上さんは言います。
一方で、アメリカはGDPが世界1位ですが、「訴訟社会」です。ちょっとした揉め事でも裁判になります。そのため、弁護士の支払いは増え、GDPに上乗せされていきます。また、アメリカは医療費の補助がないので、医療費は高いです。虫垂炎に掛かろうモノなら、手術に100万円かかります。果たしてGDPは高いが結果的に国民は幸せなのでしょうか?と話されています。つまり、GDPが世界で何位かということを国の豊かさの指標にするのではなく、「何が幸せか」という幸福度の方に目を向けた方がいいのではないかということを池上さんはおっしゃられています。このことには私も同感です。
最近の新入社員の就職における大切なものの優先順位は給料ではなく、年間休日など自分のワークライフバランスのほうが優先しているようです。まさに今の若い子ほど、幸福度を優先しているのかもしれません。それが悪いことであるとは思いませんが、そういった今の人たちの意見も取り入れて幼稚園を運営していかなければいけなく、思考を柔軟にしていかなければいけないのだろうと思います。
保育でも保育活動において似たようなことが言えます。例えば製作活動においては、これまで「作品作り」が活動の中心でした。それは「上手に作る」ということが中心です。しかし、大切なことは作品を作ることではなく「製作活動が楽しい」と思えることが本来の目的であると思います。そして、「楽しい」というのは保育者が「思わせる」ことではなく、子ども自体が実感することです。これが「主体」の捉え方です。いつの間にかその意識が保育者が「楽しませる」ものになっていたり、「製作を上手に作れる方がいい」というふうになってしまうとそれは保育者主体になります。
保育と社会とを比較すると同じ構造が見えて来るように思います。要は「主体」がどこにあるのかということです。「幸福度」で見ると、個々の感じ方が中心になります。GDPになるとその指標は「お金の流動」が指標になります。つまり、人の感じ方ではなく「お金=幸福」という見え方になりかねません。保育で言えば、「作品の出来=保育の成果」ではない、ということでしょうか。大切なことは「保育=楽しさ」に目を向けるためには「作品の出来」といった結果に目を向けるのではなく、「作品を作ること自体」といった仮定に価値を求める必要があるでしょうし、「子ども達が熱中しているかどうか」に目を向ける必要があります。
少し話が一貫性のないものになってしまいましたが、日本は良くも悪くも結果ばかりに目がいくことが多い社会なのかもしれませんし、結果で良し悪しを考えすぎなのだろうとも思います。当事者に目を向けるということが保育においても、社会においても求められるのかもしれませんね。
2025年5月29日 4:41 PM |
カテゴリー:社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
先日、GOOGLEニュースにヒューマノイドの記事が出ていました。それは家庭用の「NEO GAMMA」というヒューマノイドのプロモーションビデオでした。これはあくまでイメージビデオなのですが、ちょっとしたタスクをこなし、自然言語で人とコミュニケーションできる。そんなヒューマノイドが家庭に入ったときの風景を実機で描いたイメージビデオとしてはとてもよくできた内容で、近未来にこういった風景が当たり前になるのではないかと思うほどのものです。この記事を受けて、職員とこれからの社会について話をしたのがとても面白かったです。
まず、このヒューマノイドの話ですが、今こういった計画の中でロボット開発はかなり進んできており、運動能力はかなり進んでいます。ランニング、ダンス、宙返りなど運動機能だけではなく、細かい指先の動きやものを持つこともできるようになってきています。「NEO GAMMA」のイメージビデオではロボットが掃除機をかけたり、洗濯物を運んだり、食卓までワインを運んできたりと動きは人間ほどなめらかではないものの、まさにお手伝いさんのような動きをしています。こういったロボット開発において、世界中の投資家が大規模な投資を行っているのを見るとそれほど遠くない時代に当たり前の光景になるかもしれません。
この話をしているときに職員が「政治もAIなどに頼る時代になる可能性はあるかもしれないのでしょうか?」と疑問を話してくれました。この時私は「確かにあるかもしれない」と思ったのですが、もしAIが政治にまで影響が出てくる場合、ある一定の条件があるように思います。「人間が人と議論するのが嫌」「人と話すのが煩わしい」「簡単に答えが欲しい」といった人と関わることができなくなったときやそこが煩わしくなったときにAIが活用されるかもしれないと思いました。しかし、それにはとても怖い未来が待っているように思います。AIはあくまで過去のデータの蓄積から最適解を求めるものだとしたら、今の実態とはかけ離れた方法を提案するかもしれないということです。例えば、技術革新などは戦争が起きると飛躍的に開発が加速します。つまり、戦争を簡単に判断しかねません。戦争を終わらせるために核の使用を安易に出すかもしれません。これは極端で偏見的な思い込みかもしれませんが、あり得るようにも思います。実際、AIの苦手分野は「人間の感情や心理を理解できない」というものがあげられています。また、「倫理観による判断が困難」とも言われています。まぁ、そう考えると政治をAIに任せるということは起きないようにも思いますが、起きるとすれば人間が人間としての特性が無くなったときのように思います。逆に言うと、AIができない仕事、代替できない仕事は「ひらめく」といった創造的な思考であったり、人の気持ちを汲み取るといった実に「人間的」なものといえるのでしょう。
そして、これからつけなければいけない力はAIができない部分の力を伸ばす必要があるということがわかります。このように話していくとAIやロボットというものが少し怖いことのように思いますが、逆にそれらを効率よく使えば、とてもいいツールになりますし、良きパートナーともなります。「頭の良さ」というものの質がこれからは大きく変わってくるでしょうね。そして、これからこういった時代が子どもたちが大人になったときには実用段階になっているかもしれないと考えると今から保育のあり方も考えていく必要があると感じます。
2025年3月19日 11:34 AM |
カテゴリー:社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
未曽有の少子化と岸田総理大臣が言っておりますが、果たして金銭的な対策だけで対応できるのでしょうか。このことについて、日経新聞の2023年3月28日の記事に「子育て世代の幸せな姿 重要」という記事が書かれていました。この記事を書いたのは関東学院大学教授の吉田千鶴教授です。吉田さんは少子化対策について3つのポイントを挙げています。「結婚意欲も希望子ども数も低下傾向が続く」ということ「夫の家事育児参加へ男女間賃金格差正せ」「子どもとふれあう機会を増やすのも有効」といったポイントを挙げていました。
特に参考になるのが経済学での「幸せ」視点です。1つは子どもを持つ喜び、2つめは物質的豊かさ(消費量)、3つ目は余暇時間量(好きなことに使える時間)です。そして、人は自らの嗜好に基づき、最も幸せになれるよう子どもの数、労働時間量、余暇時間量を決めるのです。しかし、これには問題がこの三つの要素を同時には増大させることはできないということです。労働時間を増やしてより多くの所得を得れば消費量は増やせるが、余暇時間は減ります。所得が増えれば子どものための支出は増やせるが、子育てに使える時間が減ります。こういったロジックで子どもを持てる数には限界が出てくるというのです。
3つの要素は大きく分けて、「子どもの数」と「時間」という事に分けられます。少子化の問題においてはこの余暇時間量と労働時間量というのは大きな影響があると言います。子育てにおいて、未だ日本は男性の育児参加というものは少なく、多くは母親がまだまだ担当することが多いです。そのため、余暇の時間はほとんど育児に費やされます。そのため、大人の時間を作るために子ども1人で余暇を確保するほうが幸せになれると感じる母親が多くなっているとあります。これは昨今のYouTubeやテレビに育児を任せる親の問題につながるように思います。そうでもしなければ自分の時間というものが確保できないのです。さらに母親がより幸せを感じるために消費量を上げるためには労働時間の問題も出てきます。母親の昇進や仕事のライフバランスを考えるとどうしても子どもに向かう時間というものが削られていきます。少子化により労働力も減ってきている世の中を考えると、こういった労働者の確保というのも重大な問題です。そういった時に夫の育児参加というのはとても大きな改善策になります。日本がここに課題があるというのは、OECD所得の内、日本は男女の賃金格差は未だ大きいほうであるようです。また、男性と女性では家事育児で使うことによる経済的損失の大きさは違うとも言われているようです。こういった男女差の是正は今後求められていくでしょうね。
その他にも、若者世代が結婚しなくなっているということも大きな問題です。若者たちが子どもをもつ喜びを鮮明に想像できるようにし、結婚意欲を高めることも重要です。これは「結婚しろ」といっても高まるものではありません。ここで吉田さんが言っているのが若者が赤ちゃんや小さい子どもとふれあう機会がよくあると答えた人ほど、「いずれ結婚するつもり」と回答した男女が9割と、結婚意欲が高い傾向が見られたそうです。つまり、現役で子育てする世代が子どもをもって幸せでなければ少子化は無くならないと言っているのです。
これは保育においても何でも言えることなのですが、人は正論では動かないということなのかもしれません。「産め産め」といっても、少子化は止まりません。やはり子育てしている世代が楽しそうに、そして幸せそうにしていないと子どもを持とうとは思えないのは当たり前のことなのです。そして、その解消に労働時間や余暇時間というものは大きく関わってくるのだろうと思います。自園でもお子さんを持たれた先生が多数います。そういった先生たちが働きやすくする環境作りをどう作っていくのかは大きな問題となっています。しかし、そのしわ寄せが子育て以外の世代に降りかかってしまうのもよくありません。どうそのバランスを持たせるのか。それは社会時代の子どもに対する子ども観は大きく変えていかなければいけないのでしょうね。
2023年3月29日 5:14 PM |
カテゴリー:社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
門脇氏が言う「他者の喪失」を招いた理由の一つが、社会構成の変化と農村部の過疎化に伴う地域社会の崩壊、そして、最後の一つが「テレビゲームやゲーム機の普及による直接的な人的交流の減少」です。
テレビやゲーム機の子どもに対する悪影響というのはこれまでもずっと言われてきましたし、多くの大人はそれが子どもの発達について「良い」とは思っている人は少ないのではないでしょうか。このことについて門脇氏は東北大学教授の川島隆太氏の「やってはいけない脳の習慣」(青春出版社、2016)を紹介しています。ここには「テレビを見たりゲームをしているときは脳の前頭前野、物事を考えたり自分の行動をコントロールする力にとって非常に重要な部分の血流が下がり、働きが低下します。そのため、テレビやゲームで長時間遊んだ後に本を読んでも理解力が低下してしまうというデータも報告されています。テレビを長時間視聴した子どもは、思考や言語を司る部分の発達が悪くなってしまうことも分かっている」と書かれています。それと同時に門脇氏は「メディア聞きにしろ、IT機器にしろ、機器と関わる時間が長くなればなるほど、生きた生身の人間と直に関わる交流や接触の時間がそれだけ少なくなる」と言っています。つまり、単に脳の働きの低下だけに限らず、人と関わる時間もゲームやテレビに費やされてしまい、社会力すらも育ちづらい環境になってしまうのではないかというのです。
この考えは新型コロナウィルス感染症による子どもの自粛生活への影響としてもよくよく考えていかなければいけない考えであるように思います。緊急事態宣言下においては子どもたちは家での保育を行っていました。当然、保護者と一緒に居たのだろうと思いますが、兄弟がいない子どもたちは一人で遊ぶしかありません。保護者の方々の話を聞いていても、なかなか外にも出られなかったと言います。なおかつ、ずっと保護者と関わるということもできないでしょうから、こういった自粛生活が長ければ長いほど、門脇氏のいう「他者の喪失」という時間がより多くなってきてしまうと思うのです。
そして、この他者の喪失が起きたときにどうなるかというと、門脇氏は「他者の喪失がもたらした社会的な病理現象として、私はとりあえず、いじめと、ひきこもりと児童虐待増加の3つを挙げておく」と言っています。まさに、ひきこもりと児童虐待の増加はコロナ禍で問題になった事柄です。ただ、この問題はコロナ禍以上に、これからの社会で最も問題になってくることかもしれません。日経新聞の11月15日の日本経済新聞に不登校の増加が記事になっていました。特に低学年での増加がみられ、幼稚園・保育所の段階から登園渋りの傾向があると書かれていました。
これから起きてくる問題において、社会力が関わるような問題の増加はおきてくるかもしれませんね。それと同時に、幼稚園などの教育・保育機関のあるべき姿というのはこれまでとはまた違った質を求められてくるもののように思います。
2022年11月18日 10:41 AM |
カテゴリー:社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
DeSeCoにおいて、様々な定義が整理されてきました。その一つが先に紹介した「メタ認知」というスキルですが、それ以外にも「社会的スキル」や「情動的スキル」というものの見直しも図られました。キー・コンピテンシーにおいて「自律的に行動する力」、「道具を相互作用的に用いる力」「異質な人々から構成される集団で相互に関わり合う力」といったものが柱として位置づけられています。しかし、これらの力を「社会的スキル」や「情動的スキル」といった視点で整理していくと、例えば「自律的に行動する力」は個人の内面に関する力といえます。対して、「異質な人々から構成される集団で相互に関わり合う力」は人と人との関係に関することといえます。こういったように人における内面に向けた力と外面に向けた力がキー・コンピテンシーにはあっても、自立して行動するには対人関係が必要とされますし、相互に関わり合うためには内面の能力も当然必要とされます。つまり、対人関係において内面と外面というものを明確には区分するのは難しいということがいえます。結果的にこれらの能力は分類はできても、発達や学習することにおいては相互に絡み合ったものであるということを認識していなければいけないということが述べられました。そのため、コンピテンシーにおいては、内面の力「Intra-personal」と外面の力「Inter-personal」に分けて捉える形での整理は行わなかったそうです。
最後に態度などに関する側面の整理です。態度というのは「一定の道徳や倫理に基づいて表出されるもの」として捉えられていたのですが、問題は「道徳や倫理を含めた価値観を、他度などに関する側面のラベリングにおいてどう考えるかという事でした。これに対して、「キャラクター」という言葉も使われることがありました。この「キャラクター」は「学習によって変えることが困難な、あるいは先天的な性格という意味合いが強いことから、この用語を使用することが懸念されたのです。最終的に態度に価値観を加える形で「態度及び価値観」という言葉で合意が得られました。
これらの「メタ認知」「社会性・情動性スキル」「態度及び価値観」の整理というのが行われました。こういった定義の整理というのはとても難解ですね。自分自身、こういったことを整理しているつもりでもなかなか理解するのは難しいです。こういった整理が行われていくことで、必要なコンピテンシーが定められていきます。それが「新たな価値を創造する力(Creative new nalue)」「対立やジレンマに対処する力(Coping with tensions and dilemmas)」「責任ある行動をとる力(Taking responsibility)」といったものです。そして、そのために先に整理された「知識」「スキル」「態度及び価値観」というドメインはコンピテンシーの要素を分解して、整理したものであるのです。
2022年7月20日 5:32 PM |
カテゴリー:社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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