日々思うこと

まだまだ精進

相手の良いところを探すというのはなかなかに難しいことです。これは会社や人間関係だけではなく、保育や教育においても同様のことが言えるような気がします。どちらかというと私も人を褒めることは苦手で、ついイライラしてしまって相手に言葉を投げかけてしまうことがたびたびあります。そのたびにどううまく相手との関係を作っていけばいいのかと考えることばかりです。

 

最近では、様々な育児書を読むというよりも、マネジメントの本を読むことがおおくなりました。そういった意味でマネジメントに悩んでいるのですが、その反面、マネジメントやコーチングの話はそのまま保育や子どもをどう見るかという姿勢と非常に共通しているという事に思うことも多くあります。

 

たとえば、今読んでいる佐久間亘志の「ずるい仕事術」にこう書かれていました。「どうしてもいやな人と仕事をするとき、おすすめの方法がある。~~相手とのやり取りを不毛なバトルに発展させないためのテクニック」というところからコントのタイトルこーるのように「コント:性格の悪い人」とコールを入れるだけで自分と相手を客観的に眺められるようになり、こうやって相手との関わりを客観的に見ていくことで、「後でどうやってネタにしよう」と面白がるようにしているそうです。

 

この「面白がる」という考えは育児においても、保育においても大切な要素であるように思います。ある先生がうちの園に見学に来た時に子どものいたずらに対して「よくその発想が思いついたね」といたずらを肯定的に見ていました。一見人から見るいたずらといったネガティブな行動も、その人から見ると可能性のある活動として捉えたのです。

 

また、佐久間さんは「悪口はコスパが悪い」とも言っています。悪口を言っていると自分が相手の欠点に目を向けやすい状態になると話しています。最近では自分がまさにこの状況で、よくよく気を付けていないと、よく陥ってしまっているように思い反省する内容です。しかし、これも保育の中や育児において同様の状況はあるように思います。子どもの様子をどうポジティブに見るか、一度深呼吸して今の自分の状況を客観的に見てもいいのかもしれません。

 

最後に「人を褒めるのが苦手、良いところを見つけるのが苦手という人は、同僚を褒めたら相手の評価が上がってしまうかもという対抗心や嫉妬心がその理由になっているのかもしれない」とあります。これは保育というよりもマネジメントの中での話ですが、この言葉は自分自身にとても響いた言葉です。つい、悪口を言ってしまうことが最近あり、人の悪いところばかりを見てしまい、「どうしたらいいのか」と迷っていましたが、こういったポジティブな人の本を読むと、自分自身まだまだ人としての器が小さいという事を痛感します。

 

親ガチャ

「親ガチャ」という言葉を聞くことがあります。これは「子どもたちが親を選ぶことが出来ない」という最近のスマホゲームからきた言葉だと思いますが、なかなか衝撃的な言葉です。では、親は子どもたちにとってどれだけの影響があるのでしょうか。このことの研究はいくつかあります。

 

一つは1970年代の社会学で注目された「文化的再生産論」です。これはフランスの社会学者のピエール・ブルデューが提唱した「子どもが育つ家庭の文化資本の違いが子どもの資質能力の差となって現れ、その差が子どもの社会的地位の差となって再生産される」という考えです。具体的に言うと「親が学歴も高く、教養もあり、社会的地位も高く、それに見合って、経済的にも余裕があり、豊かで文化的な生活を営んでいる家庭の子は、親と同じような学歴と教養と文化を身につけ、結果的に親と同じような社会的地位を得る」ということです。そして、この逆もあると言われています。そして、これは学歴だけではなく、趣味などの教養も同様であると言えます。

 

これとは別にイギリスの言語社会学者のバージル・バーンシュタインは両親の言葉に注目した学者もいました。親の言葉がけを「限定コード」と「精密コード」とに分け、より言葉がけの描写が細かく、聞いている人がその場に居なくてもどういう内容化ほぼ正確に理解できるような言葉がけが「精密コード」で「限定コード」は聞いている人もそこの場に居て、実際に見て居なかったらどういったことが起こったのか、詳しいことが分からない言葉がけを指します。こういった言葉がけの違いは子どもの頭の中で思い描く図柄や具体的な中身に大きな違いが出てくると言います。結果、子どもの脳の形成過程に影響を及ぼし、能力差となって学校の成績につながってしまうとしました。

 

これらのことを踏まえた時に、大人は子どもたちにどのような影響をあたえるのでしょうか。「親ガチャ」はどちらかというと文化的再生産論に近い考え方であるように思いますが、どちらかというと経済的なところに重点があるように思います。しかし、文化的再生産論においてもバージルの論においても、それだけではないように思います。経済的なものが無くても、親の興味や関心、趣味といった教養に子どもたちは影響を受けているということが分かります。そして、それは親との関わりにも大きな影響を与えられるのです。そう考えると経済的な格差というのは最後の問題であるのかもしれません。

 

しかし、そうはいっても、親の経済格差というのは子どもの学力であったり、成績などの格差になるのは間違いないようです。

社会的自我論

人はどのようにして「自分」というものを知っていくのでしょうか。なかなか難しい問題です。こんなことがありました。職場で陰口や噂でストレスを感じる人がいました。その人はそういった言葉に対して、周りの人たちに疑心暗鬼になってしまいより深い悩みにハマってしまいました。しかし、意外と噂している人自体は自分がその原因になっていると思いっていなかったり、そんなつもりで行ったのではなかったり、大げさに言ってしまったことを自覚していないこともしばしばあります。ヒトは悪い噂に敏感です。

 

私自身も過去に対人関係で悩んだことがありましたが、その頃は何を注意されても何を言われてもどちらかというと「私は頑張っている、相手が分かってくれないんだ」と相手のせいにしている事ばかりでした。しかし、そんなときも私の話を聞いてくれた仲間や先輩たちと話をする中で「自分も悪いところがある」と聞いてくれる中に叱咤されることもあり、自分と向き合うことで、自分の殻が破けたように思います。結果、今の生活において、過去の対人関係のトラブルはいい教訓となり、繰り返しトラブルがありながらも、ポジティブに捉えることが出来るようになった気がします。このような経験から自我というのは自分と向き合うことで磨き上げられるのではないかと私は思っています。逆に、人のせいにすると言った姿勢ではいつまでたっても自分が磨かれることが出来ず、最悪、世の中に絶望してしまい心を病んでしまってしまうように思います。

 

この自我を理解するにあたって研究した心理学者がいます。それがアメリカの社会心理学者G・H・ミード氏です。ミードは「社会的自我論」を提唱しました。それは人格形成にあたって「他者」の存在と他者との関わりは大切であるといったのです。ミードは自我を「I(自我)」と「Me(客我)」に分けて考えます。「I」がどんな中身のものか実は本人にもわからないもので、他者と関わる中で、他者から「あなたは○○な人ね。すごいですね」とか「せっかちね」など、声を掛けられていくなかで、自分「Me」を自覚できるようになると説明しました。そのため、人との多様な相互作用(行為のやり取り)を通して、自分がどんな能力や特性を持った人間かが分かるというのです。そして、「多様な他者との頻繁な交流無しには社会的自我が形成されない。」といい「他者あっての私(自我)」だといったのです。

 

この一文は「自分と向かうか他者のせいにするかで磨かれる」ということにも繋がるように思います。そして、噂や陰口をする人に対しても、もしかしたら、自分のことを気付かせる環境が無かったからや、人のせいにして、自分と向き合うという事をしてこなかった人だから、起きてしまった関係なのかもしれないと思いました。改めてヒトは社会の中で生きており、社会において育てられるのだということが分かります。そして、困難があっても、謙虚に自分に向き合い、自分自身を改善へと変化させていく過程にこそ学びがあるということが言えるのだと思います。それと同時に、子どもたちを保育していくにあたって、言葉がけを考えていかなければいけません。私たちが思っているよりも子どもたちは敏感に言葉を受け取っているかもしれません。不用意に言った注意や指導が子どもたちの自信を失わせている可能性があるのです。

 

改めて、子どもたちと関わるにあたって、大人こそ、子どもたちをポジティブにとらえ、夢を載せていくような愛のある言葉を掛けなければいけないのでしょうね。

 

集団の運営における言葉というのは常にポジティブであらなければいけないということをこの社会的自我論から読み取れます。

自省

今日、自園の関係者評価というものが行われた。これは年度の終わりに幼稚園からお願いした関係者評価者の方に自園の自己評価と来年度の目的とを議論し、考えてもらうような場であり、第三者から見たアドバイスをもらう場でもあったりします。

 

今回、私の園での課題となっていたのは職員間の風通しや議論の場をどう作っていくかということが課題として挙がっていました。このことについて、私自身一つの答えがあったのです。これはこれまでのドラッカーや吉田松陰の話でもあったように「マネジメント」というものの課題がかなり大きく作用するということです。

 

このマネジメントというのは私の中でもかなり悩まされるものです。職員間の情報共有がうまくいっていなかったり、目的意識がうまくいっていないことに対して、これまでは「先生たちがなぜできないのか」と思うことがたびたびありました。しかし、そうなっている環境を作っているのはほかでもない自分自身のスタンスによるものだということに最近気づいたのです。

 

その際たるものが「先生。園としてはどう考えますか?」という質問です。この言葉が出てくるというのはよく考えなければいけません。「園としてどう考える」ということを聞かれるというは一見、園の事をよく考えて発言しなければいけないということを確認しているように見えますが、この言葉の裏には自分で考えるのではなく、聞いてる人に決めてもらおうとする意図が見えるのです。このことはよく考えなければいけません。つまりは、現場にいる自分たちの決断で物事を進めるだけの「余白」がないということです。この言葉の裏には指示する側のベクトルが強くあるがゆえに、「自分たちではコントロールできないから、もう初めから聞いておこう」というニュアンスが隠れているのです。そこに先生たちの主体性というものは確保されていないのです。

 

こういった環境下では、部下は自ら育とうとする力を発揮することはできません。もし、自ら能力を発揮していこうとする現場を作っていこうと思うのであれば、部下の動けるだけの「余白」を残すことを考えなければいけないのです。それはたとえば、アドバイスを聞きに来た時に関しても、すべてを答えるのではなく、考える方針を伝えることであったり、部下の話をよく聞き、考えを整理していくということが重要になってくるのでしょう。これは吉田松陰の松下村塾での関係性にも通じるところです。

 

このように考えるとマネジメントというのは割と、できることはそう多くはないのかもしれません。しかし、その場の雰囲気をコントロールすることやファシリテーションをする意味では非常に難しく、間接的に関わるからこその難しさは大いにあるのだろうと思います。今回の関係者評価は園の課題が浮き彫りになっていく半面、自分自身の未熟さを痛感するとともに、自らの改善点が浮き彫りになったいい機会になりました。

保護者の言動

今年度もあっという間に終わりに近づいてきています。

そんな中、来年度に向けて幼児クラスの保育を変えていっているのですが、なかなかこのコロナ禍という状況の中で、保護者に理解してもらうのは難しく連日保護者からの意見を頂戴する毎日です。

 

これに対して、園がそれらの意見を苦情と取るか、提案や意見と取るかでモチベーションは大きく変わってきてくるのだろうと常々感じています。そんなことを思っているときに、保護者から「久しぶりに来る子どもが不安がって泣いてしまう」「園のことを話すが、分からないということが多い」「先生が子どもに対して少ない」「密ではないか」といった意見がたびたび出てきました。こういった意見は現状起きている問題であるのはもちろんのことで、この問題に対して対応していかなければいけないません。しかし、こういった言葉の裏には様々な感情が隠れているということがふと見えてきます。今回の問題のすべてに共通するのは変化に対する「不安」でした。こういったコロナ禍の時期で保育を変えることがなかなかに受け入れがたく、保護者は自粛に協力しているだけに自粛のストレスといったものも含めてここにてこういった不満をもった意見が出てきているのだろうと思います。

 

園はこういった不安を受けとめて、次の改善を通して、保護者との良好な関係を作っていかなければいけません。そのため、保護者の意見というものはやはり苦情ではなく、意見として捉え、「この意見から何の不安を感じているのか」を感じとらなければいけません。そして、その根本にある感情がなにを物語っているのかを、保護者の様子を見て、一つの指標として捉える必要があります。そして、こういった意見から現状の保護者と幼稚園との関係性を見ていきます。

 

一つ深い目線で保護者の意見を聞き入れると、その受け答えは変わってきます。単純な問題を改善するのではなく、その真意を聞き出すことで、たとえば、職員に対する不満、園の方針に対する不満、コロナに対する不満といったように必ず、その根本となる問題になってきます。そのため、短期的な今ある問題と長期的な文化や風土といった問題などの両面から問題を解結する必要が見えてくるのです。そして、短期的なものは現場レベルの問題、長期的な問題がマネジメントやコーチングといったものの課題であることが多いように思います。