ニュー・ノーマル②

これからの教育における「ニュー・ノーマル」と伝統的な教育の違いの次にあげられているのは「開かれた意思決定を行う」です。これまで、教育政策における意思決定や学校での判断は、たとえば政治家や行政官、教育学者、あるいは校長や各授業を担当する教師といったような限られた人によって行われる傾向がありました。それはたとえば、カリキュラムの大枠は国が決めて、具体的なカリキュラムの内容は学校が決めるといったことがあげられます。しかし、こういった場合、個別の意思決定の妥当性に関しては、決定を行った国や学校の責任ばかりがクローズアップされます。つまり、生徒がついていけなかった場合は国や学校のせい考えられます。そうなると、結果的に意思決定に対する責任を追及しても、それが次の改善につながらないことも多く、生産性とは言えません。そのため、これからのニュー・ノーマルの教育では、限られたひとだけが意思決定するのではなく、雇用者や保護者、生徒や地域の人々など多様な関係者が意思決定に関わることで、責任を共有していくことが重要になるのです。多様な目線を通して、よりその子に応じた教育の設定ができるように考えていくということはとても理解度やその子どもにあった環境作りにおいても大切であると考えられるのですね。

 

以前、ドイツの教育形態を見に行ったときに、小学生の進級に対して、その決定は低学年であれば保護者が決め、生徒にも進級や留年が決めることが出来ることが紹介されていました。日本の場合は進級は基本的に年齢と学年によって自動的に行われます。理解度や発達理解によって行われるのではないので、その分野が分からない生徒は分からないまま進級することになるのです。結果的に生徒によっては授業に苦手意識が生まれたり、勉強についてこれないことで学校に行くことに対して嫌気がさしてくるのです。以前紹介した「ケーキの切れない非行少年」でも同じようなことが書かれていました。ここで言われる「ニュー・ノーマル」な教育現場では様々な人が意思決定を行うことで多角的に子どものこと見守り、それぞれの子どもたちに適した環境作りをしていくことを目的としているのですね。

 

三つ目は「1人1人の教育に(生徒自身も含めて)皆が責任を持つ」ということでした。従来の教育では、学校に関わる管理職、教師、生徒などのそれぞれの役割が明確であった。これは例えば、校長などの管理職は全体の管理を行い、教師はそれぞれの担当する教科を教え、生徒は授業を受けるといった形でした。これに対し「ニュー・ノーマル」では、生徒の学習について、管理職や担当する教師、保護者も含め、みんなが共同して取り組み、その責任についても共有していくことが考えられています。また、従来の役割分担の中では、学校や教師の責任が問われることが多いが、学習における生徒の責任という観点は希薄であった。そのためニュー・ノーマルな教育においては、生徒自身も自ら教育に責任を負うことになります。

 

これは前述の意思決定と共通することであると思います。日本の教育の場合、教育を得るという事に対して、受動的に受けていることが多いように思います。よく自分自身も「なぜ勉強しなければいけないのか」と思うことがありました。これは教師や保育士側にも言えることで、「なぜ、それをしなければいけないのか」という教育を子どもたちに行う原理原則よりも「何をするか」ということばかりに目が行きがちです。そのため、本質よりも、マニュアルや型に走ってしまうことがあるように思います。受ける側においても、提供する側においても、「社会的責任」であったり、自分自身が受ける責任においても今一度考えなければいけないように思います。そのためには教育や保育現場においてももっと社会に興味を持ち、それが今の仕事につながっているという実感を持つ必要があるのであろうと思います。