乳幼児期の保育において、必ずと言ってもいいほど取り上げられる言葉が「三歳児神話」です。育児において、3歳までの母子との養育が将来重要な影響を子どもに及ぼすという考えです。この考えが日本は割と根深くあり、3歳までは家庭での保育が重要であるということが社会的に見ても強くあるように思います。この考えが、働いている保護者からしたら、子どもを預ける申し訳なさにつながることもあり、いくら女性の就労意識が高まったことによって保育所整備に目が向けられようと、乳児を保育施設に預けることに罪悪感を持たさせる要因にもつながっているのではないかと思います。

 

この「三歳児神話」ですが、そもそももとになったのは、ジョン・ボウルヴィという医師が行った「子どもの福祉」という調査が基になっています。彼は、戦争で親を亡くした子どもたちの発達状況を、福祉関係者や戦争孤児への聞き取りから『乳幼児の精神衛生』という一冊の本にまとめました。小西氏が言うには『乳幼児の精神衛生』には、「母性的養育の喪失による病理的不安定な子どもの創出」が明記されていると言っています。つまり、幼いころに母性的な養育を十分に受けられなかった子どもは、病的な発達を示し、それは障害にわたって影響するというものです。これが後の「三歳児神話」へと発展し、欧米をはじめ先進諸国に幼児期の母性の重要性が広まる契機となったと小西氏は言っています。

 

しかし、この話は最近覆ることになってきました。というのも、小西氏が言うには「最近のアメリカで行われたある調査では、保育士などの第三者による保育によって母子関係が改善されるなど、母親の育児が不可欠であるとはいえないことが判明した。」と言っています。つまり、今となっては乳幼児期の子どもの発達に母親の愛着がかかせないというのは必ずしも当てはまらないというのです。このことに関してはボウルヴィ自身も3歳児神話については慎重な考えを示しています。しかし、まだまだこういったことを信じている人は割と多いかもしれません。

 

また、少年犯罪に代表される青少年の問題では養育費の養育態度が問われます。小西氏は「三歳児神話の弊害は『親の愛情をことさら強調したこと』そして、『子育てを女性だけのものにしてしまったこと』」にあると思っていると言っています。このことは私も同感です。これまでの時代の中で、母親が母親だけで育てていた時代はまだまだ最近の話です。しかし、いつの間にかそのことが独り歩きし始め結果として、「保護者の孤立(特に母親)の孤立」を深め、保育を一人で抱え込まなければいけない現状にしてしまっていると小西氏は言うのです。私もこの要因には納得です。昔は「乳母」と呼ばれる、子どもを受け持つ人がいたのです。社会においても、地域的に子どもを見ていこうとかえって危ないという言葉も聞いています。

 

しかし、「だから良い」という保護者の在り方を問うているのではなく、こういった環境を残していくのかということをより日本文化を伝送することにつながるのかもしれないですね。とはいえ、今いる市の人間からすると「勘弁してほしい」と思うほど感じる。

 

女性の環境

日ごろ保育に関わる仕事をしていると保護者の方々の環境が変わってきていることを感じます。そして、私の幼少期になどはほとんどの親の多くが専業主婦であったのに対し、今の時代は仕事を続けていたり、パートを始めたりと両親ともに働いている人が多くなってきています。これは男女雇用機会均等法により、働く女性の処遇が改善されてきたからであるとも言えます。そして、育児休暇や産休など、比較的に職場にも帰ってきやすい環境が保証されてきたというのも大きいですね。このことからも「女性は結婚して出産する」という価値観は少なくなってきているように思います。このように今の時代は女性が家の中の生活だけでなく、仕事や趣味を楽しむ自由を手に入れることができるようになりましたし、男性も育児参加が盛んに考えられるようになりました。

 

また、今の時代、総務省の2015年の統計を見ると、0~14歳児の子どもの数は約1617万人で、像人口の12.7%になっています。子どもの人口はなかなか増えることはなく1960年から現状を続けています。これは世界的に見てもかなり少ない割合となっています。このように子どもが減っている時代において、子どもがいない世帯も増えてきています。このことは、単純に考えてみると女性が個人の生き方を優先する機会を手に入れ、一生のうちに育てる子どもの数が減少したことは、育児負担の軽減につながったようにも思われます。

 

ところが現実には、一定のキャリアをつかんだ女性が出産を契機にキャリアを手放したこと、核家族化による知恵の伝承の喪失、地域社会の形骸化、育児情報の氾濫などが、親の育児負担をさらに増大させていると小西氏は言っています。子どもを産んでも働く女性が増えたとはいえ、多くの女性は出産から数年は社会に出て働くことや、自由に生活することをあきらめることになります。

 

女性の社会進出は社会における平等性や均等性を持たせることになります。そして、女性の地位も平等にもたらされることになります。しかし、その一方で、子育てということが女性にとって問題になってくることも否めません。高齢出産や不妊治療、育休や産休、未だ社会における女性の課題においては無くなりません。

 

小西氏が紹介する保護者にはちょうど仕事が面白くなってきた時に仕事を辞めなければならず、子どもと過ごすことに我慢できなくなり、仕事を辞めたかなしさも相まって、指導という育児(ある意味での仕事の代替)をそのまま我が子に置き換えたというようなことを言っている親もいたそうです。親のやり場のない感情を子どもに向かっている場合もあるのです。

 

早期教育に向かわせる要因というのは様々あるということが分かります。遠くに積極的に働いてた人ほど、その仕事が無くなる喪失感というのはあるでしょうし、様々な家電を含め、便利な世の中になり、子育てにおいて効率化もされています。そういった余裕が多いほど、その力は子どもに注がれていくことになります。今の時代は、「見守る」ということを意識していかなければいけない時代なのだろうと思います。これまでの時代は情報もすぐに入ってくるものではなく、大家族により、手伝ってくれる人も家庭にはいました。豊かな世の中にいる半面、様々な弊害が生まれてきているのもあるのだろうと思います。これまでの母親に対するセオリ―が今では通じないことも多々あります。こういった時代において、保育施設というものの役割はかなり大きいように感じます。

親の気持ちと子どもの気持ち

幼稚園で働いていると様々な苦情を受けることがあります。モンスターペアレンツと言われる言葉もよく聞きます。ただ、そういった様々な苦情のほとんどは自分の子どもを心配してのものでありますし、話していくと納得してくれることの方が多くあります。しかし、中には感情的になって、いくら理由を話して納得してもらっても、また同じ内容でイライラしていたり、重箱の隅をつつくようにあらさがしをしているのではないかと感じるような方も中にはいたりします。そこには親のある矛盾がそこにはあるのかもしれないと小西氏は言っています。

 

これはNHKが2002年に行った調査です。それは親が子どもにどう接しているかを、父母と中高生にそれぞれ尋ねたものです。調査によると「子どもに対してやさしくあたたかい」「子どもにいろいろなことを話す」「勉強や成績についてうるさく言う」「子どもに対して厳しい」に対する回答は両親も子どももほぼ同じ回答率でした。一方で「子どものことをよくわかっている」という問いには62%の子どもがお父さんについて「そうだ」と答えているのに対して、お父さんは約半分の32%だったのです。そして、お母さんについては子どもの78%が「子どものことをよくわかっている」と答えていますが、お母さん自信は51%しか「そうだ」と答えておらず、82年の同じ調査から大きく減っていたそうなのです。また、「(親は)子どもに対して厳しいほうだ」という問いに、「そうだ」と答えた中高生の数も減少しています。この結果から見ても20年前と比べて、子どもは「親は厳しくない」と感じる傾向が強くなり、親は「子どものことがよくわからない」と感じていることが分かってきます。それと同時に両親ともに、子どもの「自由を尊重する親」でありたいと考えているようです。子どもに注意をし、厳しくしつけるというよりも、子どもの言い分を聞き、自主性を重んじる傾向が年々強くなっているようです。このことについて小西氏は「単に親が優しくなった、というよりも、親自身が自信を無くしているのではないかと思います」と言っています。このことに対して高校教師のGさんは「親の自信の無さが、怒りとなって教師に跳ね返ってくる」と話しています。また、小西氏は6カ国のお母さんに「子どもの成長についての満足度」を聞いたアンケート調査をしています。その結果、日本は6カ国の中で一番「子供の成長について満足している」というのが少なく52%しかいませんでした。子どもの自主性を尊重しつつも、その成長には満足していない矛盾した親の姿が浮かび上がっています。

 

実際、園に苦情を言ってくる保護者の方々はそういった「自信がない」といったところがあるように思います。そして、それは社会における「母親像の押し付け」に対するものであったり、「母親の孤立」であったりというのも引き金になっているようにも思います。「こういう親であるべき」「こうしなければいけない」といった「なければならない」ということが親の成長であったり、自信を持てなかったりといった環境を作り、保護者にとっては常に答え合わせを他者にされているような気になってしまうのかもしれません。社会も今の時代、SNSなどを見ても「○○警察」といったように他人ごとにすごく敏感になっている時代です。より保護者が敏感に周りの意見を気にしてしまうのも無理はないように思います。そういったビクビクした社会の中で自信を持つということは容易ではないように思います。もう少し寛大に子育てを支えていける社会も大切なのでしょう。

 

向き合う

小西氏の本を読んでいると、もっと育児に対して正直にしてもいいのではないかと思います。最近では「褒める」ということが善とされ、「怒る」ということがいけないことのように言われることが多くあります。確かに一方的にこちらの感情を子どもに向けてしまうのはどうかと思います。しかし、「怒る」ことに困る親もいれば、「褒める」「受け入れる」ということに困る親も今の時代は多いのかもしれません。

 

小西氏が3歳児の子どもが玩具の売り場で玩具を買ってほしいと泣く子どもの相談を受けます。その親の相談に子育ての講演会に来ていた講演者はこうアドバイスをしたそうです。「お母さん、そんな場合は子どもに寄り添うんです。寄り添って、受け入れて、子どもが一体何をしたいのか、何を求めているのかを一緒に考えてあげてください」と言ったそうです。確かにこの返し方はよくあることであると思います。そう言われた親は「怒っちゃだめか」と反省したそうです。

 

これに対し小西氏は「子どもに玩具を買ってやる気がないのなら、パチンと叩いて引っ張って帰ってくればいいんじゃないの」と言ったそうです。すると、その親は「先生、違うんです。最近は、子どもを叱らないんです。寄り添って、受け入れて、褒める育児が良いんです」と言ったそうです。確かに、今の時代、「子どもをたたいて良い」ということを言う人は少ないでしょうね。

 

しかし、その意図に小西氏は「子どもは褒められ受け入れられるだけではなく、叱られたり拒否されたりすることでも人間関係を学びます。親が自分の感情を抑え、子どもの気持ちを受け入れて、衝突を起こさないと、子どもは一方通行の人間関係しか学べません」と言っています。つまり、「うまく叱ることも、大切な育児の一つ」というのです。そして、大切なことは「なぜ自分が親に叱られたのかを子ども自身にも考えさせればいい」というのです。

 

この視点は非常に共感します。私は「褒める」ことも「叱る」こともどちらかに偏るのは良くないですし、方法論的にそういったことをしても意味がないと思っています。ここで出てきた親のように「最近は、子どもを叱らないんです。」といった言葉にそれが現れているように思います。大切なことは小西氏が言うように「なぜ、そうなったのか」ということを子どもが理解できなければ、褒めても叱っても意味は無くなってしまうように思います。大切なのはその子どもに対してどう向き合うかのような気がします。迷うことや悩むことを大切にすることが必要なのだと思います。これが育児や保育に答えがない由縁なのだろうと思います。

 

小西氏の話にあるお母さんの話が紹介されています。「あるお母さんが、2歳の子どもに初めて本気で手を挙げたとき、罪悪感や悲しさがこみあげてきて、涙が止まらなかったと言いました。子どもを叩いたときの手の痛さは、我が子がかわいくて仕方がないということの証でもあります。」と言っています。そして、「親と子は衝突と受容を繰り返しながら、とみに成長する。子どもを叱ることから逃げてはいけない」と言っています。

 

そうは言っても体罰は良くないと思います。しかし、これほど真摯に子どもと向き合うことがより良い育児であるということなのだろうということはよくわかります。大切なのは子ども自身が気付くことや自覚すること、その当事者として子どもがそこにいるかどうかであるのだと思います。そういった意味で子どもを見ることは必要になってきますね。

「心の問題」と育児

小西氏はここ数年で医学や心理学で使われる専門用語が広く一般的に使われるようになった一方である違和感を感じていることも著書の中で言っています。たとえば、子どもの登園拒否について悩んでいるJさんは子どもの登園について、「先生、そんな『症状』がでたときには、どうすればいいのでしょうか」といってきたそうです。子どもの登校拒否を『症状』という言葉で表すというのに違和感をもったのです。「症状」というのは病気や疾患の状態を表すからです。他にも、子どもが泣きわめているのを見て、「パニック(障害)ですね」という専門家がいたそうです。しかし、パニックとは突発的な動悸やめまいなどの発作に襲われたり、再発への恐怖心にとらわれたりする精神障害の一つです。

 

このことについて、小西氏は「『甘え』と『自立』が芽生え始めた時期の子どもの登校拒否は、通常の発達の範囲内の行動です。『パニック(障害)』についても、その子の状態が『病気』や『異常』に相当するかどうかを判断するには十分な配慮が必要です」と言っています。そして、「最近、お母さんたちと話をしていると、子どもの『心の問題』に非常に関心が高く、また、『普通の発達の範囲』と『異常なこと』が混同しているように感じられます」と言っています。

 

このことは私も最近感じるところです。どうも、私たち自身がこういった言葉や知識を持っているがゆえに、「子どもそのもの」を見るというよりは、そういった障害であったり、子どもの傾向にばかり目がいってしまったりしているように感じます。いつの間にか、障害が軽くなることばかりに目がむかい、肝心のその子自身の気持ちに共感することや関わることが後回しになっているようにも感じます。しかし、これは「障害のことを知る必要はない」ということでもなければ、「障害児対応を否定」しているわけでもありません。あくまで、中心にはその子ども自身がいるということを意識していなければいけないのではないか。その子自身の存在を認めていないといけないのではないかと思うのです。

 

このことについて小西氏は「テレビや新聞、インターネットなどを通して、『心の問題』をテーマにした多くの情報が提供される時代です。医者や精神科医などの専門家が使う専門用語が、一般的な言葉として定着することも少なくありません。しかし、『心の問題』は子どもの成長発達の一つの側面であって、すべて出ないということを知っていてほしい」と言っています。

 

今の時代、、こういった専門用語に振り回されている現状があるのかもしれません。「○○はこういうものだから」と一緒くたに考えてしまうのはその子の存在を消してしまうことになりかねないと思います。まずは、1人の人格を持った人として子どもにあたることが大切なことなのだと思いますし、それは問題やハンデを抱えている子どもに限らず、どの子どもに対しても同様に関わっていくことが重要になってくるのだろうと思います。その一人一人の子どもたちに対して、どういったアプローチが必要なのかを見通し、考えていくことが援助につながっていくのだと思います。