ゴプニックは実験の中で1歳児の赤ちゃんでも、反実仮想が起きているのかを実験します。彼女の研究室ではリングを棒に通すおもちゃを使い、実験をします。リングの一つには穴に透明テープが貼られ、見かけは他のリングと似ていますが棒には通せません。通らないリングに対して、1歳5カ月の赤ちゃんは、試行錯誤で問題を解決しようとします。まずはいくつかのリングを棒に通してから、テープを貼ったリングをしげしげと見て、同じように棒に通そうとします。しかし、それができないと分かると、もっと力を込めて棒に通そうとします。その後、困った顔をしたのち、他のリングを手に取って棒に通します。そのあと、再びテープを貼ったリングに挑戦します。この動作を何度か繰り返した後、最後には赤ちゃんはリングを通すことをあきらめました。
もう少し成長した1歳8か月の赤ちゃんは世界の仕組みがわかってきています。そして、他のリングを全部通し、穴をふさいだリングを手に取るものの、穴に通しませんでした。他にも、穴のふさいだリングを手に取るや、放り投げてしまう子どもや穴をふさいだリングを棒に近づけ、「ノー」と声を上げる子もいました。これらの赤ちゃんたちはリングに棒をとおそうとしても無駄だろうと想像しこういった行動をとったのだとゴプニックは言います。
これに近い行動は保育の中でもよくあります。それは汚れ物袋にうまく荷物が入らない時、1歳児クラスの子どもたちは、様々な試行錯誤をして何とか袋の中に荷物を入れようとします。最終的に入れられなかった時に、周りにいる手伝ってくれそうな人を選び、その人に向けて、「手伝って」というように袋を差し出します。乳児の子どもたちなりに、人を使い分けることやどうすれば、目的が達成できるのかを予想し、仮説を立て、検証しているのだろうと思います。
ほかにもゴプニックらは赤ちゃんが物の新しい使用法を見つけられるかどうか、簡単な道具の使い方を思いつけるかどうかを調べました。まず、赤ちゃんが好きなオモチャを手の届かないところに置き、熊手を手の届くところに起きます。この実験でも15カ月の赤ちゃんは熊手を手するものの使い方が分からず左右に動かすばかりで、引き寄せられず、余計に遠くへやってしまったりします。偶然手繰り寄せても、たいていはあきらめました。ところが、もう少し年長になると、熊手を見ると一瞬考えこんで、熊手をつかって、オモチャを手繰り寄せました。このことから、年長の赤ちゃんは熊手が玩具に及ぼす作用をあらかじめ想像したことがわかるのです。いろいろな可能性を思い描き、その中から最適なものを選択したのです。
このように新しい課題に対し、単純な試行錯誤によって解決できることもありますが、あらかじめ可能性を思い描き、そのなかから洞察により最適な考えを見つけ出す方が効率的なのです。リングにしても、熊手にしても、仮説をたて、可能性を思い描くことで、でたらめに動かすことからとれる可能性を排除し、そうした行動を回避したのです。
ゴプニックはこの能力の境目は生後15カ月と18カ月の間とは限りませんと言っています。もっと早い時期でも、適切な情報さえ与えられれば、頭を使って結果を予測し、それをもとに課題を解決できることが別の研究からも分かっているといっています。つまり、保育環境によっても、この違いというは大きく変わってくるのでしょう。今回のリングや熊手の様子を見ていると、大人の介入にヒントがあるようにも感じます。ゴプニックは「ホモ・サピエンスの成功に大きく貢献したのは、道具を使い、計画を立てる能力であることを人類学者も認めています。頭の中で可能性を予測する能力は、その前提となるものです。まだ言葉も話せない赤ちゃんのうちに、その能力が早くも芽生えていることが見て取れるのです。」と言っています。こういった力を持っていると知っているかどうかは赤ちゃんとの関わり方にも大きく影響しそうです。
2021年3月28日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
反実仮想は私たちが日常的に行っている判断や決定、抱く感情に影響していると心理学者たちは発見しました。その例にノーベル賞を受賞した心理学者のダニエル・カーネルマンの実験があります。この実験では、参加者に次のようなシナリオを提示します。ティー氏とクレイン氏がそれぞれ違う飛行機に乗るため、同じタクシーで空港へ向かいます。どちらの便も6時発です。ところが、渋滞に巻き込まれ、空港についたのは6時半でした。ティー氏の乗る予定だった6時の便は出発し、クレイン氏の乗る予定だった飛行機は出発が遅れ、6時25分に出発しました。さてどちらの方が、落胆が大きかったでしょうか。この質問に対して、たいていの人はわずか5分で出発してしまったクレイン氏だと答えます。それはなぜなのか。ここに関係するのが反実仮想です。そして、クレイン氏の方が落胆する理由はそこにあるのです。
クレイン氏のような状況に置かれた人は、タクシーがもうちょっと早く着いていれば、または飛行機があと5分ほど遅れていれば飛行機に乗れたのにと考えます。他にも、オリンピックの銀メダルと銅メダルの場合でも同じことが言えます。客観的に見ると銀メダルの方がうれしそうなものですが、実際のところ、メダルが銀か銅かで、選手の反実仮想は違います。そして、その影響を選手は受けます。銅メダルをもらった選手はメダルを逃す可能性が頭をよぎります。これに対し、銀メダルをもらった選手は金メダルを取り逃がしたと思ってしまうのです。実際、心理学者が表彰式の映像を見て、選手の表情を分析すると、銅メダリストの方が銀メダリストよりもうれしそうな表情をしていることが分かったのです。現実の結果より、起こらなかった結果の方が、選手の気持ちに強く影響を及ぼしたのです。
このように人は実現しなかった過去の可能性にこだわります。そして、その根底には反実仮想を重視するからです。しかし、なぜ、この反実仮想を重視するのでしょうか。その理由は進化の観点から説明できるとゴプニックは言います。反実仮想が重要なのは、それが世界に働きかける手掛かりになるからです。「かもしれなかったのに」と悔やむから、新しい可能性を求め世界に介入することができるとゴプニックは言います。未来に向けた働きかけは、どんなに些細なことでも、歴史に影響します。数々の可能世界のうち実現するのは1つです。残りは実現されることなく、実現されず終わります。しかし様々な可能性を思い描けるということ自体に、進化的に大きな意味があるのだと言います。人間は反実仮想によって計画を立て、道具を発明し、新しい環境を創造するのです。
過去への反実仮想とそれに伴う後悔は、未来に向けた反実仮想の対価なのかもしれませんとゴプニックは言います。わたしたちは未来に責任を持つからこそ過去のことに罪悪感を持ち、希望を抱くからこそ過去を悔やみ、計画を立てるからこそ失望を味わうというのです。つまり、実現しなかった過去を悔やむことは、豊かな未来を思い描けることとセットだとゴプニックは言っています。
「人が悔やむ」過程の中には「こうなるであろう」といった希望があるから悔やむというのはとてもわかります。そして、「こうなるであろう」というのは希望であり、未来の予測でもあります。この「見通し」という感覚が人間にあることで、今のような人間の進化が起きているのですね。よく、保育の中でも「見通しが持てるようにする」という言葉をいうことがあります。よくよく考えるとその言葉が表すものは人間そのものの特徴のことを言っているのだということがよくわかります。そして、それは赤ちゃんにも起きています。真似というのはまさにこの力がなければできないように思います。自分のできる能力とモデルの能力を天秤にかけ、子どもは果敢に挑戦しています。失敗の中で起きている挑戦はまさに進化の過程の中にいるのかもしれませんね。
2021年3月27日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ゴプニックは「私たち人間は過去、現在、未来の可能世界を思い描きます」と言っています。この可能世界とは「今ここにある世界とは違う過去、現在、未来」のことをさし、これは例えば、夢や計画、フィクション、仮説といったものがこれにあたります。人間はこの可能世界を現在世界に劣らず気にかけているのです。なぜそんなことをする必要があるのでしょうか。ゴプニックはこの答えを幼い子どもの心にあるのではないかと考えています。
では、この「可能世界」哲学ではこのことを「反実仮想」というのですが、この反実仮想は大人だけの洗練された思考なのかということをゴプニックは考えます。というのも、最近まで幼児には「今、ここ」しかない。つまり、直接的な感覚、知覚、体験しかないと考えられてきました。では、ごっこ遊びや空想する子どもたちはどうなのかと思ってしまいますが、心理学や哲学においては、乳幼児期においては、現実と空想の区別がついていないとされており、幼児の空想はあくまでも直接体験の一種に過ぎず、現実と非現実の関係をきちんと分かったうえでなされる反実仮想とは違うのではないかと考えられていたのです。そして、これはフロイトやピアジェにおいてもこの考えによるものでした。
しかし、最近の認知科学の研究においては、こうした従来の見解は間違いであるということが分かってきたのです。幼児も反実仮想を行い、その内容と現実を区別し、現実を変えるために役立てることができるというのです。未来を思い描き、計画し、実際に起きたこととは違う過去を想像し、そこから思考を広げることができるのです。ゴプニックたちは過去10年をかけて、幼児には優れた想像力があることを確認し、これを科学的に調べてきました。子どもの心、子どもの脳が、どんな仕組みによってあれほど豊かな空想を生み出すのかを探ったのです。それは想像力を科学的に研究したのです。
その結果、これまで、知識と想像、科学と空想は全く別物で、正反対と言ってよいほど違うものだと思われていたのすが、これらには共通する基盤があることがわかりました。子どもの脳には現実世界の因果構造を写したマップが作られていくのですが、まったく同じマップが新たな可能性を思い描かれ、別の世界を空想するためにもつかわれていることがわかったのです。つまり、現実と空想は頭の中で別々の世界として思い描かれており、決してもともと考えられていたような、区別のない直接体験の延長としての空想を行っているわけではないのです。このことを受けて考えると子どもの脳内では、しっかりと、仮説検証が遊びの中でも行われており、大人のように見通しのある物事の見方ができるということが分かります。
実際、今、自園に居る子どもたちの様子を見ていても、0歳児でも1歳児の様子を真似して汚れ物袋に荷物を入れるのを真似したりしています。それは決して、空想の中で行っているようには見えませんし、自分であればどうできるかという、明確な目的と行動の見通しをもって動いているようにも見えます。
2021年3月26日 4:45 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
大人と子どもとでは脳も心も大きく違うことが分かります。そのため、生活ぶりも違ってきます。簡単に言うと大人は働き、子どもは遊びます。この「遊び」ですが、ゴプニックのいうことを見てみると当たり前のことなのですが、確かにと納得してしまいます。幼児期の遊びにおける未熟さがもつ「無用の用」をこれほどよく示すものはありませんと言っています。
この「無用の用」ですが、これこそが「遊び」につながります。つまり、赤ちゃんがする箱を重ねる遊びや幼児のごっこ遊びなど、どの遊びにも、はっきりとした意味も、目的も、機能もないのです。進化に不可欠の捕食をするためでもなければ、闘争、逃走、性交渉といった目標があるわけではないのです。それなのに、この遊びという無用な行為は、人間らしく、子どもから大人まで、計り知れない価値をもつものなのだとゴプニックは言います。
もちろん、大人でも遊びを行います。しかし、そこには「○○する」といった遊ぶ目的があったり、意味を持って行うことが「大人の遊び」には多いのではないでしょうか。どこかで意味を求めてしまうのです。ただ単に「遊べ」と言われても困ってしまうかもしれません。それに比べて子どもたちの遊びはそういった目的意識をもって遊ぶことももちろんあるでしょうが、まさに心から楽しみを求めた遊びや目的のない遊びというものにいそしんでいるように思います。それは確かに大人になる準備なのだろうと子どもの姿を見ていて感じますが、では、子どもたちはその遊び一つ一つに意味を求めているかというと無かったりします。保育での子どもの遊びを見ていても、何がそんなに面白いのかと思うくらい何度も何度も同じことを繰り返して遊んでいます。
この幼児期の遊びですが、ゴプニックはこれは想像力と学習能力が目に見えるかたちであらわれたものだといいます。つまり子どもたちは「無用の用」の中で、意味のない遊びの中で学んでいるのです。逆に大人はやる内容に意味を求めてしまいます。それが子どもの遊びと大人の仕事のちがいなのでしょう。当然、それだけ見る世界が違うと子どもの意識、日常的に体験する世界の感触も、大人のものとは相当に異なっていることが示唆されるとゴプニックは言っています。そして、子どもの意識を探求すると、大人の日常的な意識や、人間の特性についても新しい展望が開けてくるというのです。
その一つが自己同一性の問題です。それはこれまで話したように赤ちゃんと大人とでは違った心や脳、体験を持つ、といった根本的に違った生き物であったとしても、最終的には大人になるということです。この抗うことのできないプロセスは常に起きています。そして、その中で起きる学習と想像、それに続く変革のプロセスを究極的に左右しているものが愛であるとゴプニックは言います。愛は変革の原動力の一つであり、子どもへの愛は、人の場合、単なる原始的な本能、他の動物のような養育行動というのとは違い、長い年月をかけて、子どもたちが人間らしい洗練された能力を発揮できるように力を尽くします。子どもたちが未熟でいられるのは、世話をする人たちの愛に溢れるからです。前の世代が発見したことを学べるのは大人が教育に投資しているからです。
そう考えると前回にも紹介した子どもは研究開発で、大人は製造販売ということが現実味を帯びてきます。つまり、大人が礎を築いたものから子どもは学びよりその学びを発展させていくのです。そして、文明は進んでいきます。そして、いつしかその子どもは大人になり、それを次の世代に製造販売役として受け継いで、伝承していくのです。大人になるプロセスはつぎに向かう子供世代へのバトンパスを発達をしていく上で行っているのですね。
2021年3月25日 12:15 AM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ゴプニックは「赤ちゃんと大人は進化的に一種の役割分担が出来上がっている」と言っています。そして、赤ちゃんが大人と違うのは脳の神経回路の違いだと言っています。赤ちゃんの神経回路は大人とは違い、細かく張り巡らされています。大人は「刈り込み」により、弱い回路や使用されない回路は整理され、大通りのような太く効率の良い神経回路が残されていきます。そして、その中でも理性を司る大脳皮質の前頭前野が子どもから成人になるにあたって非常に大きな影響を与え、この部分はゆっくりと大人になるまでに成熟していくということが前回までの内容でした。
では、まだ、未成熟である赤ちゃんの脳を考えると、赤ちゃんは理性を司る脳を持たない大人なのでしょうか?ゴプニックはこのことに対して、前頭前野が未熟だからこそ、子どもは大人に勝る想像力と学習能力を発揮できるというのです。というのも、前頭前野には「抑制」の機能があって、それが脳の他の部分の情報を遮断し、体験、行動、思考を絞り込みます。そうでなければ、大人のように複雑な思考、計画、行動ができないのです。たとえば、複雑な計画を実行するには、計画にない行動はやめ、計画通りの行動をとらなければならないのです。さらに、計画に関係のない出来事のことは忘れて関係あることだけに注意を集中しなければいません。
しかし、この「抑制」は想像力や学習能力を自由に働かせるには逆効果です。突拍子もない発想を持つためには、ある意味でこういった「抑制」された概念は邪魔になってしまうのです。そういった意味では幼児期には、前頭前野の抑制が効かない方が都合がいいのです。こういった脳の環境によって、乳幼児期の子どもは落ち着かなかったり、大人ではしないようなことを確かめてみようとしたりするのですね。
ただ、前頭前野は脳の中でも幼児時期を通じて最も変化が著しい部分であり、その意味では活動は盛んです。完成した後も、幼児期の体験の影響が色濃く残ります。幼児期の想像力や学習能力からは、大人になってから計画的な行動をしたり、行動を知的に調整するために必要な情報が得られます。知能指数は、前頭前野の成熟の遅さや可塑性と相関があるという証拠もあるようです。幼児期においては抑制の無い開かれた心を長く保つことが、賢くなる条件の一つではないかとゴプニックは言っています。
このことから見ても、いかに乳幼児期の子どもたちに「応答的で温かい関わり」が必要とされるのかということが分かります。しかし、これは子どもたちをなんでもかんでも自由させればいいというわけでもありません。うまく「刈り込んでいく」ことが重要なのです。だからこそ、「他律」ではなく、「自立」が重要なのでしょう。他律は抑制を生みます。しかし、自立においては主語は子ども自身です。選択するという意味では自分の意志です。なぜ、今「見守る」ということが必要とされるのか、そして、「見守る=放任」ではいけないということがどういったことなのか、脳の構造からみても、その必要性が見えてきます。
2021年3月23日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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